4-10
狐面に一撃を止められた拍子に、紗枝の集中も切れてしまった。
反射的に真後ろに飛びずさり、下段に刀を構えた。
「はぁっ……はぁっ……!」
刀を握る手に力が入らない。足も踏ん張れない。
男たちが狐面に対して、「遅いねん、トロトロすな!」とか「あいつをぶち殺してまえ!」とか「ごっつい銭払うてんねぞ、ボケが!」などと何か文句を言っているのが聞こえる。
ただ、狐面は何も意に介していないようだった。
何も言わずに、紗枝だけを見ている。
(刀で戦うというのに、面をつけているなんてふざけてる)
あれでは視界の大部分が塞がれる。自分で死角を増やしているようなものだ。
しかし、それすらも気にしていないようだった。狐面がゆっくりと刀を構えた。青眼を斜めに倒している。
剣先が正中線から外れ、面と喉に隙があるように見える。ただ、それは誘いだ。こちらが撃った瞬間、反撃を繰り出してくるだろう。
その構えを、紗枝はどこかで見た気がした。
狐面の両足が地面を噛む。飛び込んでくる気だ。
紗枝は体に鞭打って、刀を握る手に力を込める。
来るなら来い。
気は確かに張っていた。紗枝に油断などなく、隙だってなかった。
なのに、間合いに入り込んできた狐面の体の動きがまるで見えなかった。
(速い……)
狐面が踏み込みと同時に胴撃ち。狙いは少し上め。すなわち心臓。
紗枝の両手が、防ぐと思うよりも先に動いた。
狐面の刃が紗枝の胸をえぐるよりも前に、なんとか擦り上げることができた。
しかし、たったその一撃で両手の力が限界になった。
狐面の剣撃は、鉄の板でも破断できそうなくらい強い。
体の動きも速ければ、切っ先も速い。その上、威力も高いのでは勝負にもならない。
どうやったらそんな動きができるというのか。
筋力ではない。何か、そういう動きができるように工夫と鍛錬をしているのが分かった。
紗枝は狐面の刀を無理矢理に押し返した。狐面は全く慌てていない。続く紗枝の雑な刀を後ろに下がることで回避した。
そして再び斜め青眼の構え。
(これは、死ぬ)
自分とは段が違うのが分かった。もう次の一撃は防げない。
狐面は、紗枝が覚悟を決める時間さえ与えなかった。
再び下半身に力を入れ、飛び込む前動作。
そして、引き絞られた矢が放たれるような勢いで踏み込んだ。
一度体を沈めて、右切り上げ。紗枝は、自分の頭部が下から斜めに切断されると思った。
せめて目を開いて、その一撃を見届けようと思った。
その刀が、しかし空を斬った。
圭子だった。
横やりを入れる形で、圭子が狐面の横っ面に斬りかかっていたのだ。
それでも狐面には届かなかった。紗枝への一撃を捨てる代わりに、狐面は圭子の刀を綺麗に避けきった。
圭子の作ってくれた隙を紗枝は逃すわけにはいかなかった。
全身の力を総動員しての突き。
しかしそれも、狐面は避けた。軽く首をひねって、紗枝の切っ先が突いたのは誰もいない空間だった。
もう、この女を斃すのは無理だと分かった。
突きを外されたと分かった時には、倒れた圭子を守るように覆いかぶさっていた。
(守りたい、守りたい、守りたい……!)
体全体で圭子を守りながら、刀を片手で構えた。
もう、この争闘では何も起きないだろう。
しかし……、守りたい。
紗枝の突きは外れていたが、狐の面を支えていた糸を切断していたらしい。
ぽろ、と面が外れて女の顔が露わになる。
その顔を見て、誰かの面影があると思った。
(副隊長だ。柚希先輩に、似ている)
女は刀を上段に構えた。
彼女が振り下ろして、紗枝の人生はそこで終わるはずだった。
そして、その時が来た。
刀を抜いた少年少女たちが走って来るのが見えた。
紗枝は、その先頭が柚希であることが分かった。
もう一度、女の顔を見た。
確かに似ていると思った。
その女も、今まさに剣志隊がこちらに迫っているのを見て、憤怒に揺れていた。
もう一度紗枝を見下ろす。
何度も、剣志隊と紗枝を交互に見る。
ついに、女は刀を振り下ろさなかった。
刀を鞘に収めると、どこかへと走って逃げていった。
気づけば、男たちも既にいなくなっていた。
「……圭子!」
紗枝が叫ぶ。
苦しそうだった。傷ついた脇腹を手で押さえている。
その手はもう真っ赤だった。
斬られた脇腹からは、今も血が溢れてきている。紗枝は圭子の手の上から押さえた。しかし、それでも、血は止まる気配など微塵もなかった。
このままでは、失血で死ぬのでは?
「圭子……!」
圭子は痛そうに目を固く閉じて、痛みに耐えている。
「紗枝さん」
エリザが呼びかける。
「そこのお店の人に言って、お湯を沸かしてもらって下さい。それと、針と糸を」
「え?」
紗枝には分からない。ただ、エリザの目を見ているだけだ。
エリザはそれ以上説明しなかった。圭子に肩を貸して、ゆっくり立ち上がった。
紗枝の金縛りが解けた。
エリザは、圭子を治療するつもりなのだと分かった。
紗枝は店の中に飛び込んだ。
背後から、ついに追いついた柚希が「お前は休んでていい」と怒鳴ったが、それも耳には入らなかった。
圭子は、右の腰を正面から斬りつけられていた。しかし、大きな血管には刃が通っていなかったらしい。
エリザは、用意してくれた熱湯で糸を殺菌すると、裁縫用の糸で縫った。血管の修復は不要だという判断だった。
しかし、すぐに動くことはエリザが固く禁じた。最低でも1週間は安静にするべきだと。
針と糸を貸してくれたその店は、丼もの屋だった。店主は筋骨隆々の男で、素手で熊でも倒せそうなほどだった。エリザが「しばらく置いて下さい」と頼むと、構わないと即断してくれた。
圭子が横になっているのは、丼もの屋の奥にある居間だった。そこに布団を敷いてもらっていた。
店主との話をつけた柚希が、その居間に入ってきた。
紗枝と圭子は、柚希にこっぴどく叱られた。だが、怪我人然とした圭子を前に、そこまで強くは出なかった。
「独断専行は、隊士としてあってはいけないことだ。お前たちは貸し一、だ」
圭子と紗枝は、神妙な顔で頷いた。柚希の言う「貸し」という言葉が、実はとても重いものだということを、2人は後日知ることになる。
「圭子が動けるようになるまで、紗枝はここに留まれ。動けるようになったら、エリザと3人で帰って来い。その間は、警官隊にここの警護にあたるよう依頼はしておく」
きびきびと言いつける柚希に、圭子と紗枝は「分かりました」としか返せなかった。
「それと、本営に戻ったら隊長からきついお説教があるはずだ。覚悟しておけ。助言としては、途中で質問されることがあっても、黙って、申し訳ございませんでしたとだけ返せ。それがコツだ」
紗枝は一つだけ気になったので聞いてみる。
「副隊長も、隊長のお説教されたことがあるんですか?」
柚希は笑みを返しただけで、教えてくれなかった。




