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全力で駆けてきた息を整えると、圭子は隊長室の戸をノックした。
「どうぞー」
中に入ると、今日の初芽は常磐色の地に慶長文様という小袖姿だった。珍しく、何かの書類を見ながら真面目に働いていたらしい。
「圭子と紗枝か。昨日は色々とご苦労だったな。どうした?」
紗枝が、びしっと横を向いて圭子の顔を見つめる。何も考えずに、とりあえず圭子について来たらしく、喋り出すのを待っていた。
圭子は喋る前にもう一度頭の中で考えをまとめる。……うん、きっと大丈夫だ。
「エリザが、偉い人たちの判断によってはどこかに連れ去られ、その場合は殺されるということですよね?」
初芽ははっきりと肯定した。
「ああ、そうだ。そうはならんように色々考えてるが、そういう判断になれば、お前の思った通りになるだろう」
「でも、エリザは何も悪いことはしてないじゃないですか」
真面目極まるその言葉に、初芽は、圭子は今から正義論をここで話すのかと思った。
しかし違った。
「もしエリザが、何も悪いことをしていない、善い人なんだとみんなに知られたら、偉い人たちも簡単にはエリザに手出しができなくなると思うんです」
「考え方は正しい。続けて」
「エリザが、医者の手伝いをできることは知ってますか?」
突然、質問を投げかけられた。昨日会ったばかりなので、そんなことはもちろん初芽は知らない。
「体を動かしたいから医務室の掃除をしますとは言っていたから興味があるのかなとは思ってたよ。でも、そこまでは知らなかった」
「井上先生も、エリザは医者の助手ができるって言ってました。そこで思いついたんです。そんなの無理って言われるかもしれないけど……」
「言ってごらん」
優しく促してくれる初芽の言葉で、圭子の中に勇気が湧いてきた。
思いついてからまだ3分も経っていない考えを、圭子は高らかに提案した。
「仮設の診療所を本営に作って、エリザにそこで働いてもらうんです。診察代は全て剣志隊持ちにして、タダ!」
ふむ、と初芽はその提案を頭の中で咀嚼した。
ふむ、ふむ、と。
そして、本営に来ている全ての隊士に下知を飛ばした。
今は、ご隠居よろしく宿舎の縁側に腰かけ、隊士たちが築地本願寺の敷地内に天幕を張ったり、医務室から医療用具を次々と運んで来るのを眺めていたのだが、どたどたと激しい足音で誰かが初芽に一直線に向かってくるのが、そちらに目を向けなくても分かった。
そろそろ来るとは思っていた。
「はーーつーーめーー!」
どん、と京本房江が足を踏み鳴らし、初芽の書き置きを右手に握りしめ、仁王立ち。
大広間に、他に隊士はいない。総出で臨時診療所の設営のために動いていた。
無人なのをいいことに、隊長に向かって房江は遠慮無しだった。他の隊士がいる時なら、断じてこんな言葉を使ったりしない。
「どういうことっ! 無料って! 必要な料金が剣志隊持ちって! うちに余ってる予算なんてびた一文無いんだからねっ!」
初芽が困りきった顔で笑っている。「まあ、隣に座りなよ」
どすん、と音を立てて房江が腰を降ろす。怒りに怒りまくり、頭の上から蒸気が吹き出しそうな顔だった。
「圭子の発案なんだよ」
天幕の入り口に、誰かが毛筆で『期間限定 剣志隊診療所 無料』と書いた大きい木の板を立てかけた。
すでに、本営の入り口にはひとだかりができている。
看板代わりの木の板の隣に、もう1枚、同じ大きさの板が立てかけられている。『金髪の少女エリザを含めて、当方はみな病気をしておらず健康です』
「無料なら、外国人が助手をしていたとしても、みんなが診察を受けに来てくれるんじゃないかってね」
「事情は理解できてるわ。でも、無料って! 治療に使った包帯やら薬やらの代金と、井上先生への謝礼を全部、隊の予算から出すってことよね?」
「ああ、そうだよ」
「そうだよ、じゃないわよーー!」
あまりの大声に、設営している隊士たちが一斉にこちらに顔を向ける。
こっち向くな、と初芽が手を振ると、再び作業に戻る。
「次の白兵隊との予算の擦り合わせに、絶対出席してもらいますからね」
「それは嫌だなぁ」
「私だけで、こんな臨時予算の話を通せるわけないでしょうがっ!」
分かった分かった、と初芽は手で降参を示した。
叫びまくって少し落ち着いたのか、房江は冷静な目に戻った。
「こんなことをすると、本営の敷地内に一般市民が出入りすることになるのよ。分かってる?」
「分かってる。一応、見張り要員も立ててる」
「軍とかが、今すぐあの子を殺すべきっていう考えなら、殺し担当に診察を受けるフリをさせて、いきなり抜き打ちすることだってできるわ」
「それも分かってる。昨日もそれっぽい奴が来てた。少しでも抵抗できるように、あの子のそばに柚希を置いてある」
房江が横眼で初芽の顔を見る。それに初芽が気づく。
「なんだよ」
「珍しく目の下にクマ作ってる。全然寝てないでしょ。白兵隊とか陸軍経由で、色々とやってるのね」
「まあね。できることは全部しないと」
房江が確認したかったのは以上だった。
予算の件を除けば、初芽に反対したいことは何一つ無かった。
あの金髪の少女が助かるなら……。
「ねえ、房江」
いつもよりも、ちょっと気弱な声音だった。
「たった1人の命を救うために、隊士たちをこんなに働かせて、金まで使って、剣志隊に危ない橋を渡らせてる私って、悪い隊長かな」
いつもは自信満々な態度で皆の先頭を切って進む初芽が、こんなに自信なさげなのは、房江からするとちょっとばかり意外だった。
「命を助けるのに払うのが、別の命でなければいいって思うわ」
「本当にそう思う?」
「ええ。だから、誰かの命を助けるために、自分の命を払うような真似だけはしないでね。八幡隊長みたいに」
3年前まで剣志隊にいた男の名を出されて、初芽は胸の奥に飲み込んだ。
「そうだね。肝に銘じておくよ」
暗くなりそうな空気を払うように、房江が言った。
「そういえば、あなた、柚希ちゃんを時々おもちゃ扱いしてない?」
「そんなわけないだろう。我らが副隊長だぞ。エリザを引き渡せって過激派連中や警官隊が来るかもしれない。そういうのに毅然と立ち向かえる、いい副隊長なんだ、あいつは」
さっきは自信を失いかけていた初芽が悪戯っぽい顔をした。
「それに、からかうと可愛いんだよ」
天幕の中では、井上とエリザがてきぱきと働いていた。
最初はエリザがいる事によって、診察を受けたいなんていう人は1人も来ないんじゃないかと圭子は心配していた。
だが、「無料」の言葉は強かった。
最初は遠巻きに警戒して近づいて来ない人たちも、やがて「風邪っぽいです」とか「強く打ってしまったんだけど骨折ですか」という風に診察のための列に並び始めた。
ところで、天幕の中にいる糸無柚希17歳は、凛とした表情を前に向けつつも、なんだか頬を桃色に染めて恥ずかしそうにしていた。
「なあ、棚網。一つ質問があるんだが」
「私に答えられる質問でしょうか」圭子はクスクス笑っている。
「なんで私、白衣なんか着させられてるんだろう」
井上とエリザは当然白衣を羽織っているが、それに付き添う圭子と紗枝も同じく白衣に身を包んでいた。
そして、スタッフ筆頭として配置された柚希についても、白衣着用が義務付けられていた。その上、おまけとして柚希は聴診器と度なしの伊達眼鏡まで装備させられていた。
とどめに、髪を三つ編みにさせられていた。
全て、初芽の指示だった。
「こういうのが必要なのは、井上先生とあの子だけだと思うんだが……」
「似合ってますよ、副隊長」
「医者のコスプレみたいで、恥ずかしい……」
そんな風に体をもぞもぞさせてはいるものの、もしもエリザに仇なす者がいれば、颯爽と立ち向かってくれるに違いない。
圭子はそっと天幕から離れた。
初芽に言われている命令を果たすためである。
(怪しい者がいないか。もしいれば尋問。逃げられるようなら人相はしっかり記憶すること)
列を作っている町人たちの中には護身用のためか刀を帯びている者もいるが、挙措に怪しさは見いだせない。みな、怪我なり病気なりで診察を待っているように見えた。
圭子は本営を出た。
広い道に、たくさんの人が本営の中を気にしている。無料なら診察を受けたいものの、外国人が助手をしていることで行くかどうかを迷っている人たちだ。
「あのぉ、本当に無料なんですか?」
頭に包帯を巻いている男に聞かれた圭子は、できるだけ愛想よく笑顔を浮かべた。
「もちろん、無料ですよ。とっても腕が良いので、ぜひ診てもらってください」
ありがとう、と言って、男は中へ入って行った。
それを見送って、石垣に沿って歩き始める。
石垣の端まで行って左に折れようとした時だった。
そのずっと向こうに、また3人の男がいた。間違いなく、以前に見かけた男だった。
こちらには気づいていない。
圭子は元来た道を戻った。
あの位置は……本営の宿舎のちょうど裏辺りだ。
本営の中に再び入ったところで、紗枝がそっと近づいてきた。
「どうしたの?」
「怪しい男がいる」
紗枝の目に冷たさが宿った。
「どこ?」
「石垣の外。裏からなら、会話が聞こえるかもしれない」
さっきまで宿舎の縁側に座っていた初芽はもういなかった。仕事に戻ったのかもしれない。
圭子と紗枝は足音を立てないように、宿舎の裏に入った。
圭子がそっと、人差し指を唇の前で立てる。
紗枝が頷いた。
このあたりのはず……。
圭子は間違って木の枝を踏んで音を立てるみたいな間抜けをしないように、慎重に石垣に近づいた。
石垣は大した厚みではないし、そもそも屋根が無い。
確かに、男の声が聞こえる。
ただし、小声ではっきりは聞こえない。
(……堅牢すぎるわ、ここ)
(……どないすんねん。もう上客は見つかってんねぞ)
(……無理に入っても、胴斬られて犬死にするだけや)
(……何ぞ抜け道考えんことには、話にならへんぞ)
方言だと分かった。東京国の者ではない。エリザを殺そうという国の者では、断じてない。
紗枝が、しゃがめと手で伝えてくる。
まさか、自分を足場にして石垣に登って、一人で斬りこむ気?
駄目だ、と圭子は首を横に振った。
と同時に、男たちの話が聞こえなくなった。
急いで圭子と紗枝は本営を出て、先ほどの位置を確認してみたが、もう男たちの姿は無かった。
圭子の胸に、言いようのない不安が渦巻いている。
誰かが何かを企んでいる。




