4-5
学校の授業が終わった途端、圭子は学生バッグと自分の刀を引っ掴み、短距離走選手のように走り出した。
背後で先生が「走ると危ないぞ」と声をかけたようにも聞こえたが、風よりも早く走る圭子の耳には届いていなかった。
本営までの道で露店の店主たちが圭子を見てにこにこと笑っている。
「転ぶんじゃないぞー」
と言われた瞬間、足が石につまずいて体勢が崩れる、と思いきや残った足で重心を取り戻し再び走り始めた。
「おおーーーー」
という歓声に、圭子は軽く腕を挙げて応えた。
築地本願寺は敷地を石垣で囲っており、中の様子を見たかったら脚立でも用意するか、入口の所から顔を覗かせるしか方法がない。
その石垣に沿って圭子が全速力で走っていると、3人の男とすれ違った。
(あの3人は……)
できるだけ平静を装って、疲れたから足を止めたという風に立ち止まった。
ゆっくりと、何気ない感じで後ろを振り向く。
3人の男の1人と目が合った。
その男はすぐに目をそらし、残り2人に何か声をかけて、その場を離れていった。
(たぶん、昨日、本営から中を見てた3人だ)
いずれも薄汚れた紋服。しかし、帯びている刀は粗悪な工場製品には見えない。
眼光も、町人というには鋭いように感じられる。
(もしかして、エリザをどうするか決まった……?)
圭子は再び走り出した。
真っ先に宿舎へ向かった。
その入口にある玄関口に、張り紙がしてあった。
『告知
現在、剣志隊本営にて、外国人の少女のエリザなる者を保護中
右の旨は白兵隊に報告済み
事の方針が定まるまで本営にて仮預かりとする
なお、市井への影響を鑑みて、このことについて口外を禁ず
剣志隊隊長 武井初芽』
なかなか強い文章だった。口外したら詰め腹を切らされそうだ。
中に入ろうとしたところ、背後から誰かにがっと肩を掴まれた。
死ぬほど驚いた圭子は、反射的に刀へ手を伸ばすが、手の主は紗枝だった。
「速いね……。絶対に私の方が早く着こうと思ってたんだけど……」
同じように授業を終えたら全力で駆けてきたらしく、息を切らしていた。
「紗枝ちゃん、ここに来るまでに、怪しい男の人、見た?」
さっき見かけた男のことを話したが、紗枝は見かけていないという。
「政府の人だとしたら、昨日の隊長みたいには止められない。その時は、見送るしかないよ」
何か抵抗できる手は無いかと考えていた圭子だったが、紗枝は現実をしっかり見ていた。
確かにそう思う。
「できることをするのがいいと思う。無茶するのはだめだよ、圭子。除隊になっちゃうよ」
「そうだね……」
言いながら、まだ抵抗手段を考えている。
エリザを処分させなくする方法。もしくは処分できなくする方法を。
大広間にエリザはいなかった。
圭子や紗枝は学生組の中で1番乗りと2番乗りだったらしく、まだ同じように学校を終えて隊務につくという隊士もいなかった。
がらんとしている大広間を、今日も浅野が掃除をしていた。
「浅野さん、エリザ……あの外国人の女の子がどこにいるか知ってますか?」
もしここで、既に政府に連れて行かれましたなんていう答えが返ってきたら大泣きするかもしれないと思ったが、そんなことは無かった。
「エリザさんは、医務室にいると思いますよ」
えっ、と圭子が固まった。
「病気か怪我ですか……?」
浅野はゆっくりと首を左右に振った。
「いえ、そういうことではなく――」
という言葉を最後まで聞かず、圭子と紗枝は2人して医務室にすっ飛んでいた。
中に患者がいるならそんな開け方はしてはいけないだろうという勢いで、圭子は医務室の戸を開いた。
「おや、怪我かね。なんだか元気そうに思えるが、見せてごらんなさい」
優しそうな初老の男は、井上という名の医者だった。隊士が怪我をした場合に助けを呼ぶかかりつけであり、週に2回はこうして常駐してくれる。
医務室の中は簡素なベッドが2台に、ガーゼや包帯などの医療用具が山ほど用意されてある薬箱にそれぞれ詰め込まれてあった。幸運なことに、まだ圭子は医務室のお世話になったことはない。
そのベッドで痛々しい姿で横になっているんじゃないかと思ったエリザは、雑巾で壁やら床やらをごしごし磨いていた。
「どうしたんだい? 怪我じゃないのかい?」
不思議そうな顔をしている井上に謝った。
「あの、ごめんなさい。怪我じゃなくって、エリザに会いに来たんです」
「ああ、そうか。君らが、この子を助けたって子か」
井上が顔を綻ばせた。
エリザも、圭子と紗枝の顔を見て嬉しそうだった。圭子と紗枝は、エリザが朝起きてからこれまでの間で、最も明るい顔だったということは知らない。
「棚網さん、羽場さん、昨日は助けてくれてありがとうございました」
「そこは、圭子さん、紗枝さんでお願い」
素晴らしく速い食いつきだった。紗枝にとっては、同年代から苗字で呼ばれるのはどうしても我慢ならないらしい。
エリザと一緒に圭子まで、小さく笑った。
「もう動いて大丈夫なの? ちゃんと元気になったの?」
圭子の質問に、エリザがうんと頷く。
「じっとしているより、何か役に立ちたかったんです。医務室があるから見せてもらったら、ちょっとホコリとか積もっちゃって、良くないなって」
少し困った風に言うエリザだったが、続く言葉はかなり踏み込んでいた。
「衛生面が良くないと怪我した人が何か感染してしまう可能性があるし、掃除しようかなって。そしたら、止血帯とか消毒薬とか乱雑においてあるし、ピンセットとかメスとかもろくに洗わずに放置されてる風で。井上さんに聞いたら、ここで治療する時は全部自前のものを使ってるって言うので、それじゃあ全部片づけて綺麗にしようかなって」
井上がにこにこ顔で補足する。
「この子、こういうのに詳しいんだ。いやあ、助かるよ。剣志隊の皆さんは、剣の腕はすごいけど、医療には明るくないからね。こんなに立派な部屋と物が揃ってるのに、きちんとしてないと宝の持ち腐れだよ」
圭子は、エリザが医療に明るいのに驚いていた。
「エリザって、お医者さんなの?」
いえいえ、とエリザは謙遜した。
「父が……医師だったんです。私、こんな見た目だから学校にも行けなくて、それで1日中、父の手伝いをしていました」
圭子の頭のどこかからか、ものすごく褒めてあげたくなるようなアイディアが出てきそうだった。
井上に質問する。
「エリザって、どのくらい医療に詳しいんですか?」
ふむ、と井上があごに手をやる。
「じゃあ、いくらか質問してみようかな」
エリザに向き直ると、学校の先生みたいに質問を始める。
「深く斬りつけられた人がいた場合は、どのような治療をするべきかな」
「まず圧迫包帯や血管鉗子を使って確実に止血をします。それを確認したら傷口をきれいに洗浄して、破傷風などの感染症を防ぎます。その次に、奥にある切れてしまった血管を縫合して血流を確保します。次に、切断されてしまった筋肉をピンセットで引き寄せて縫合し、最後に皮膚の縫合をします」
ふむ、と頷いている。2つ目の質問。
「手足が刀で斬り落とされてしまった場合は?」
エリザは淀みがない。
「まず患者の太ももの付け根に止血帯を全力で巻きつけ、棒をひねって大腿動脈を完全に押し潰して止血します。血が止まったのを確認したら、露出した太い動脈の端を血管鉗子で掴み、太い絹糸で二重に強く縛り上げます。その後、骨の角を削り、周囲の筋肉と皮膚で断端をきれいに包んで縫合します」
井上は何も言わない。圭子は不安になって、そっと井上に聞いてみる。
「どうでしょう。井上先生」
「いやあ、驚いた。手伝いっていうよりは助手だね。医学部に進学して、実地訓練が始まったら、最初の頃はクラスで一番の成績になりそうだね。きちんと知識と技術を蓄え続ければ、卒業までずっと一番かもしれない」
その言葉で、圭子の頭の中で閃いた。
馬鹿げてると言われてしまうかもしれないが――それを隊長に提案しないわけにはいかなかった。
「ちょっと行ってくるー!」
持っていた学生バッグを医務室に放り投げると、圭子が猛烈な勢いで医務室を出て行った。
紗枝は素早かった。同じように学生バッグを放り投げて、圭子の後を追っていった。
残された井上とエリザは、そんな2人に何か声をかける暇も無かった。
「なんだろうね、今の」
「さあ……?」
よく分からなかったのだが、とりあえずエリザは濡れ雑巾を手にすると、再び床掃除に戻った。




