4-1
中学2年生の14歳であるところの棚網圭子は、剣志隊から貸与されている柄石太夫二尺一寸を帯びた制服姿で、剣志隊の本営へと全力で駆けていた。
端から見ると余程の大事件が起きたか、トイレで急いでいるように見えるのだが、本人はただ一刻も早く本営に着いて、道場で竹刀を振りたいだけである。
圭子の通う中学校から本営までの途中にある露店の店主たちは、「また走ってる」と笑っている。やって来る時刻も正確だから、時の鐘よりも便利だと評判だった。
道場へたどり着いた圭子は、更衣室に飛び込んで道着に着替えようと思ったのだが、入口近くでその足を止めた。
戸の前に、金色のふわふわした毛と、土で汚れた白い布で構成された何かが落ちている。だいぶ大きい。
見たこともないものだ。いったいこれはなんだ。
そう思って近づいた瞬間、その金色の毛と土で汚れた白い布が、がば、と顔を上げた。
反射的に、圭子は柄に手をかけた。
しかし、抜かなかった。
それは人間だった。
それも外国人だった。
その上、女の子だった。
年齢は、自分と同年代のようでもあるし、圭子より年上のようにも見える。肩も腰も細く、ここ数日はろくに食事もとっていないように見えた。なのに、はっきりとした胸の膨らみ。
なぜだそんなにはっきりとした大きさなのだ、圭子は強く思った。というのも、圭子は自分の体つきに思うところがある。
その次に目に入ったのが、その女の子の瞳だった。見たこともない、ブルーの瞳。
その瞳は、驚きと疲れで、ふるふると震えているように見えた。
さて、どうする?
もう、更衣室に急いでいくという考えは吹き飛んでいる。
この少女が外国人だという認識が圭子の頭の中の隅々まで行き渡ったところで、圭子は急いで息を止めた。この外国人が吐いた息を自分が吸うのは良くない、と考えたからだった。
その外国人の少女は、怯えた表情をしたまますっと立ち上がった。逃げるつもりだ、と直感した。
息を止めたまま、圭子は「待って!」と叫んだ。
叫んだところで、もう肺の中の息を使い切ってしまったので、圭子はあきらめてまた普通に呼吸を再開した。
待ってと言われた少女に、果たして言葉が通じたのだろうかと思った。が、少女は言われた通りに動かなかった。
さあ、どうする? 次の一手は?
「ちょっと待っててね。ど、どこにも行かないでね」
日本語が通じるかどうかは分からない。だが、圭子は手の平を見せて「待ってて」と連呼しつつ、目を合わせたまま後ろ足で下がった。宿舎の玄関口にまで来たところで、少女がどこにも行こうとしないのを確認したのち、圭子は背中を向けて全力で走った。
大広間にある食堂まで走って来た。
誰に助けを求めようか、と思ったのだが、そこには同じ日に入隊した羽場紗枝しかいなかった。どうやら数学の問題に悩んでいるらしく、片手で頭を覆っている。
同日入隊ではあるものの、今日までほとんど会話らしい会話をしたことがない。その上、入隊考査で圭子は紗枝に明確な剣の腕の差を見せつけられているので、少々苦手意識があった。
が、今助太刀をお願いできるのは紗枝しかいなかった。
「あ、あの」
声をかけられた紗枝が、悩んでいる顔のまま圭子の顔を見た。声をかけられたことは分かっているが、なぜ声をかけられたのかは見当がつかない様子だった。
「えっと、その……」
どう説明したらいいか圭子も分からない。なぜ、外国人の少女が、剣志隊の道場にいるのかも分からないのだ。説明しようもなかった。
「ちょっと、来て下さい……!」
「なんで」
「いいから、ちょっと……!」
圭子は、困惑しまくる紗枝の腕を引っ張った。どうやら圭子にやめる気がないことを悟った紗枝は、引っ張られつつも自分の刀を手に取った(三代目田路純太作の二尺二寸。入隊時に貸与された早良入道の二尺二寸一分は、ある犯罪者との争闘で折れてしまっている)。
圭子はそのままぐいぐいと、無理やりに道場まで連れて行った。
果たして、道場の入り口には金髪の少女がまだ同じ位置に立っていた。再び圭子が現れて、ほっとしたようにも見える。
紗枝も、さっき圭子が見て驚いた時と同じように驚いている。
「なんで、こんな所に、外国の人が……?」
「私も分からないです。道場で稽古しようとしたら、この人がいて……」
驚き終えたらしい紗枝が、圭子を見やる。
「で、どうするの?」
「どうしたらいいんでしょう……」
どうしたらいいか分からないから紗枝を連れてきたわけであるが、その紗枝にだって分からなかった。
どうすればいいのか分からないのは、その少女も同じのようだった。困りきった顔で、圭子と紗枝を交互に見ている。
3人の女の子が、平日夕方前の時間に、お互いを見ながら固まっている。
一番最初に金縛りが解けたのは、圭子だった。というのも、慌てながら他に助けを呼べる人はいないか首を巡らせた時に、人影を見たから。
本営入口で町人らしい人影が3つほど、こちらを見ている。距離が30メートルほどでよく見えないが、町人らしい男たちで刀を帯びている。よくいる野次馬に見える。
もし彼らが警察に通報したら。
即座に警官隊がここにやって来て、この青い瞳の少女は連れていかれることになる。
そして、その先に何が待っているのかは、圭子も新聞や教科書で知っていた。
つまり、殺される。
それは、まずい。何がまずいかって、こうして今目の前にいる女の子が連れてかれて死ぬというのは、理屈抜きに、嫌だった。
だから、このまま、ここでこうしているわけにはいかなかった。
「羽場さん……」
「なに」
「まずは、隊長に伝えた方が良いと思います」
こんな困った事態は、隊長の武井初芽でないと収拾できない、と圭子は考えたのだった。
「ちょっと待って」
ものすごく真剣な顔の紗枝が、圭子を遮った。
「ど、どうしたんですか?」
「その、羽場さんっていうのは、やめて欲しい。同年代の人は、みんな私のことは名前で呼ぶから」
「じゃあ、えと……」
「紗枝って呼んで」
「じゃあ、えっと、紗枝ちゃん。私のことも、名前でいいです。私だけ苗字じゃ、変だから」
「分かった。名前は……なんだっけ」
「圭子です」
「分かった。圭子ね」
「……」
「……」
圭子は、緊急事態と言えるこの場で、今初めて紗枝とまともに会話したのだと気づいた。
ちょっとばかり2人の距離が狭まったのは良かったが、圭子が一番最初に言ったことに紗枝が答えてくれていない。
「それで、隊長に伝えた方がいいと思うんですが……」
「あ、そうだった。ごめん」
この異常事態で考えることではなかったが、この人は抜けている所がある可愛らしい人なのかもしれない、と圭子はふと思った。
「じゃあ、紗枝ちゃんはこの子を見ててくれますか? 私が隊長の所に行ってきます」
「分かった」
ここで紗枝の左手が鞘を体へ引き寄せるのを見て、圭子は胸が苦しくなった。
この少女が逃げるようなことがあれば、その場で斬り伏せる、ということだろうか。恐ろしくて、紗枝の考えている事を問い質すことはできなかった。
圭子は本館の3階まで走った。
やはりというか、隊長室の戸を叩いても中からの反応は何も無かった。隊長はまだ本館には来ていないらしい。
じゃあ、隊長の自宅まで走って行くかとも思ったのだが、その自宅がどこにあるかを圭子は知らない。
どうしようどうしよう、と焦っている時に、本館の中を箒とちりとりで掃除している浅野を見つけた。
浅野は、ここに住み込みで働いている22歳の仕事熱心な男だった。ひどく痩せていて、圭子は見ているだけでひやひやするほどだった。
その浅野も、箒を片手に圭子を見つけた。
「どうしたんですか? 棚網さん」
浅野は、まだ入隊して間もない圭子のことも覚えてくれていた。
「隊長を探してるんですけど、隊長室に誰もいなくて……」
「まだ来ていないようです。そろそろ来られるとは思いますが」
「すごく急いでいるんです。あの、電話を使わせてもらって良いでしょうか」
こく、と浅野が静かに頷いた。「案内します」




