3-5
房江と別れた後、紗枝は道場で稽古をすることにした。
だが、間の悪いことに、誰もいなかった。2人いれば手合せができたのに。
誰もいなければ、防具をつけて竹刀を振るという気分にもなれなかった。
持っていた日本刀を抜く。
早良入道の二尺二寸一分。竹刀よりも少し重い。支給されてからまだ少ししか経っていないが、柄に巻いた布が掌によく馴染んでいる。
上段に構え、振り下ろした。
刃が空気を裂く感触が、掌にじわりと広がる。
出来るだけ何も考えないようにすると、何度も何度も刀を振り下ろした。
次第に息が上がり、額に汗が浮いてくる。
目の前に設定した仮想敵めがけて、顔、肩、胸、と何度も刀を振り下ろした。
何も考えないようにしているのに、嫌でも浮かんでくる。
伊勢。
鋭敏になった紗枝の聴覚が、何かをとらえた。刀を振る手を止めると、道場の正面の開き戸に目を向けた。確かに、その戸の外に誰かがいる。急ぎ足で歩いているように思える。
だん、と開き戸が乱暴に開かれた。
現れたのは伊勢だった。
伊勢は開き戸を勢いよく閉じると、鍵をかけた。これで道場は密室である。普段は施錠されている裏口を除けば、逃げ道はなくなった。
伊勢はいつもの洋装ではなかった。洒落た模様の小紋を着て、右手に抜き身の日本刀を持っている。しかし、乱闘があったらしい。顔に強烈な打撃を受けたのか、右頬が青黒く腫れている。また、右胸を刀で突かれたのか、右側の脇から腰にかけて小紋が真っ赤に染まっていた。
「やあ、羽場さん」
伊勢は笑顔を浮かべようとした。だが、思ったようには笑えなかったらしい。青くなった唇が細かく震えていた。
「隊長の武井さんは、ここではなかったか。隊士が少ない日は、道場に顔を出すって聞いたんだけどね」
「今日は来ていませんね。ずっと、私一人です」
「本館にいるかな」
「さあ」
距離は、10メートルほど。
この道場を出るには、相手を殺さねばならぬ。
伊勢は刀を右手1本で構えた。左手で右胸を押さえる。もう、そうしなければならないほどの深い傷なのだろう。
紗枝は刀を下段に構え、動かない。
待っていても、そのままゆっくり死ぬだけだと感じたのだろう。伊勢は、半ば走るように紗枝へ殺到した。構えも甘い、姿勢は固い。
しかし、殺気だけは本物だ。
血走った目で紗枝を射抜いたまま、刀を振るう。
手傷を負った者になど負けるはずはないとたかをくくっていた紗枝は、その一撃で考えを改めた。
片手だというのに、恐ろしいほどの速さ。
空を裂く音すら聞こえないほどの速度の斬撃を、紗枝は後ろに飛び退くことでなんとか避けた。
避けたが、伊勢は紗枝を待たせない。
飛び退いた紗枝の足が地に着くよりも早く、伊勢の二撃目。空中にいるのでは、避けることはできない。
紗枝は、出来うる限りの力で柄を握りしめ、歯を食いしばり、両腕に最大の力を込めて、伊勢の斬撃を刀で止めた。
それは、断じて、鉄で鉄を受け止める音ではない。ぼぐっ、という肉体的な音が紗枝の中から聞こえた。
背中の筋肉が激しく痛んだ。僧帽筋辺りを痛めたらしい。刀で伊勢の斬撃を受け止めただけなのにだ。持っている刀が折れていないのが信じられない。いや、既に内部には亀裂が入っていて、次の一撃を繰り出すより前に折れてしまったとしても不思議ではない。
まだ宙に浮いていた紗枝の足の裏が、乱暴に地面へ叩きつけられた。
伊勢は、すぐさま刀を振り上げるが、紗枝は前へ飛んだ。逆胴を狙い打つ。伊勢はそれを鍔元で防ぐが、切っ先が伊勢の腹を浅く切り裂いた。
そのような傷よりも、どこかで突かれたらしい右胸の方が深手なのだろう。伊勢は意にも介さなかった。獣のような目をしたまま、ふぅふぅと肩で息をしている。もう、あの優しくて穏やかな伊勢には会えないのだな、と紗枝はぼんやり思った。きっと、自分を斬り殺したとしても、そのまま初芽を探しに行き、そして返り討ちに遭うだろうと思う。
だが、紗枝の方にも余裕はない。背中の痛みは酷い。筋肉が断裂したか、もしくはどこかの骨が折れたか。
紗枝は、伊勢の剣の技術はそこまで大したものではないと判じている。しかし、力が強い。男女差を差し引いても、圧倒的だ。細い体は、贅肉を極限まで落とし、強く速く刀を振るうために作ったものだろう。
示現流に近い、と紗枝は思った。古くは薩摩藩の御流儀と呼ばれた剣術である。髪の毛1本分でも、敵より早く刀を打ち下ろせ、という鋭さ重視の剛剣であった。
まともに斬り結べば、たとえ手負いだとしても、伊勢は十分に自分を斬り得る。
紗枝は大きく息を吸った。
集中、集中、集中。
見据えた敵のみに全てを集中し、今は役に立たぬ知覚を消す。
1秒か、1分か、経った時間は分からない。
いつの間にか、紗枝の感覚から音が消えた。匂いも消える。味も消える。触覚は、刀を握る手のみで、服の感触が消える。
色が少なくなっていく。社会の教科書で見た、古びた写真のように白黒になる。
その頃には、無駄な雑念は一切無くなっている。
残っているのは、「斬る」ことだけ。
決して力んではいない。自然な動きで、かつ、最速。紗枝の両足が、静かに体を伊勢へと運ぶ。
それを待つ伊勢ではない。
獣じみた声で叫ぶと、右手1本で刀を振り上げる。紗枝が近づくのであれば、突っ込む必要もない。十分に紗枝が近づいてから、猛然と間合いを侵略した。
再び、強烈な面打ちを浴びせかけた。
紗枝の意識は、夢想の域にあった。
まだ残っている薄い薄い意識が、伊勢の刀を見て、今度は遅いとぼんやり思った。
紗枝の素早い籠手打ちが、伊勢の右手首を斬り飛ばした。伊勢は諦めない。刀を取り落した伊勢は、右胸を押さえていた左手を紗枝へ伸ばす。伊勢の腕力であれば、紗枝の首を掴んで数秒と経たず意識を刈り取るだろう。もしかしたら、首の骨を折ることができるかもしれない。
押さえるものがなくなった伊勢の右胸から、血が噴き出す。
今までに、伊勢はどれだけの人の命を奪ってきたのか。
そんなもの、紗枝は知りたくもない。
これから、自分はどれだけの人の命を奪うのか。
そんなことも、紗枝は知りたいとは思わなかったのだった。
紗枝には既に感覚が戻っていた。集中できていたのは、籠手打ちをする直前までだった。しかし、勝負は既に決している。
紗枝は手元で刀を反転させると、柄で伊勢の左手を払う。両腕を大きく開いた伊勢の右胸には、確かに刺突による傷があるのが見えた。
そんなことすら、どうでも良かった。即座に刀を元に戻すと、美しい斬線を描いて伊勢に面打ちを浴びせた。
早良入道の二尺二寸一分が、伊勢の顔を割った。即死であったろう。
しかし、早良入道も最期を迎えた。伊勢の命を絶った直後、半ばから折れた。
一人だけになった道場に、折れた切っ先が床に落ちた音だけが残った。
斃れた伊勢の死骸を見下ろし、紗枝は「あぁ」と息を吐いた。
感情は、何も起きてはこない。
何も、思うところがない。
顔を上げると、青白い鬼火だけが照らす昏い冥路が見えた気がした。
伊勢の魂が彼岸の奥へと向かうための一本道。
いつか自分が死んだ時も、その冥路を進むことになるのだろうか。
その時は、どんな気分になるのだろう。
伊勢を斬り倒した翌日は、背中が痛くて勉強できなかった。医者によれば、骨折はしていなかったが筋を痛めたらしい。
今の紗枝にとっては、失ったのが1日だけでも大変だ。
その翌日からは、再び放課後の教室に残り、勉強をするという日課に戻った。もう家庭教師はいない。
だが、伊勢のお陰で次の定期考査はなんとか赤点を免れるような気がする。もし伊勢に再会するようなことがあれば、言いたいことは山ほどあるが、とりあえず感謝も述べることになるだろう。
日が大分傾いて、そろそろ剣志隊の本営に向かおうと思った時に、曜子が教室に現れた。
「お疲れ様、紗枝。今日も勉強してるんだね」
「うん」
「でも、一人だね。昨日も伊勢先生が来てなかったけど、何かあったの?」
どう答えようか悩んだが、まさか本当のことを言うわけにはいかないと思った。自分が斬り殺したなどと。
「なんか家庭の事情で、しばらく学校には来れないって言ってたよ。次の臨時教師が来てくれないと、2年生の数学の授業が止まっちゃうね」
「そうなんだ。ちょっとだけ、残念だなぁ」
曜子は胸に片手を当てて、眉を下げた。
「なにが、残念なの?」
「私、ちょっとだけ、あの人のことが好きになりそうだったから」
「そう……」
言わなくて良かった、と心から思う。
「私、今から剣志隊の仕事に行くけど、曜子は?」
「私も、途中まで一緒に帰るよ。もう、日が落ちちゃうからね」
2人は、すっかり赤く染まった陽を背に浴びながら、下校した。
曜子と途中の道で別れると、紗枝は歩く速度を上げて本営へと向かった。
まだ、新しい刀は支給されていない。父に、剣志隊の入隊考査に合格した時に買ってもらった、ごく小さい懐剣が一振りあるだけだ。
今、この時に、誰かに襲われるようなことがあれば、おそらく斬られる。勝てない。
だから、紗枝は足早に剣志隊の宿舎へと急ぐのだった。
3話までお読みいただき、ありがとうございます。
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次は東京国に金髪の少女が現れるお話です。




