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紗枝は中学校の中では、剣志隊隊士ということでちょっとばかり有名だった。
校門をくぐってから教室に入るまでに、遠巻きで注目している生徒たちが小声で話している。
(この年で、もう給料をもらって仕事をしているなんてすごい)
(本当に日本刀持ってるよ。あれで犯罪者を斬ってるのかな)
最初は居心地が悪かったが、今は流せるようになっている。これも成長と言えるだろうか。
授業中の紗枝は真面目、というより必死だった。
カリカリと絶え間なくノートにペンを走らせる。退屈な教師の授業の時でも紗枝だけはペンが止まらない。
授業態度は満点なので、テストの点数以外は教師陣の評判はすこぶるいい。
体育となると話が変わる。
その日の授業では、テニスを行った。
クラス全員でラケットの素振りやらサーブの練習などを行った後に、4人1組となりダブルスで試合を行った。
紗枝は終始、相手のチームを圧倒した。紗枝が本気で打つスマッシュは、同級生の比ではない。試合相手は球を受けるというよりは、避けていた。
その日の授業が全て終わったところで学生バッグに荷物を入れていると、クラスメイトに呼び止められた。
「途中まで一緒に帰りましょ、紗枝」
その女の子の名は、熊井曜子といった。紗枝よりも頭一つ分背が高い。体も引き締まっているので運動をしていると思われがちだったが、本人は料理部に所属する、おっとりした女の子だった。
「ちょっと職員室に用事があるの。先に帰ってていいよ」
「ううん。じゃあ、終わるまで待ってる」
そう言って、曜子はバッグから文庫本を取り出して小説を読み始めた。古い小説が好きで、今読んでいるのは1885年のマーク・トゥウェインによる「ハックルベリー・フィンの冒険」だった。海外贔屓は、過激な国粋主義者からは嫌われる傾向があるため、あまり海外文学を人前で読むのは避けている。こうやって曜子が海外文学を読むのは、誰もいない放課後か、友人である紗枝の前くらいだった。
紗枝が職員室に行くと、担任の教師である大元源吾が紗枝を待っていた。名前は勇ましいが痩せっぽちで、頼りない印象の男である。
「羽場か。どうした?」
いつだって、出来の悪いことを自分から言うのは勇気がいるものだった。
竹刀を構えた時みたいな胆力で勇気を振り絞る。
「剣志隊の定期考査で赤点取ってしまうかもしれないんです」
「ああ、なるほど」
「このままだと剣志隊を除隊になってしまいます。なんとかそれは避けられたとしても、22歳になった後の白兵隊の入隊試験には合格できないかもしれません」
担任であるため、紗枝の成績は把握している。そりゃそうだろうな、という顔をするので、紗枝は少しばかりムッとした。
大元は顎に手をやった。
「先週から、数学教師の八木さんが産休に入ってるのは知ってるか? 穴を埋めるために、臨時教師で伊勢君というのが入ってくれてるんだ。東京大学を出てる秀才だぞ」
大元が背後に振り返って「伊勢君、こっち来てくれ」と声をかけた。
職員室の隅っこにある机で授業計画でも立てていたらしい男が立ち上がった。
大元は伊勢へ、「この子は2年生の羽場紗枝。この間、剣志隊に入隊した子だ」
伊勢は朗らかに笑った。清潔なスーツ姿である。やせ気味で、穏やかな目を持つ男だった。おとなしそうというのを通り越して、弱そうというのが第一印象だった。
「伊勢伸郎です。よろしく」
「よろしくお願いします」
「申し訳ないんですが、お話は聞こえてました。テストの点数で困ってるんですね?」
広くはない職員室だ。無理もない、と紗枝は思った。
「数学が一番厳しいんですが、全教科が悪くて困ってます」
「全教科ですか」
伊勢が困ったように笑った。やはり恥ずかしくて、紗枝は俯いた。
「専門は数学ですが、全教科でも大丈夫ですよ。大学入試の時に、ちゃんと勉強していましたから」
言葉はおとなしいが、静かな自信を感じた。さすがに、難しい大学に入学しているだけのことはある。
「伊勢君、全教科の勉強を見てあげる場合は、謝礼金はどのくらいになる?」
少しばかり考えた伊勢が、「お金はいりません。そのくらいなら大丈夫ですよ」
これには大元も紗枝も驚いた。
「本当にいいのか?」
「まあ、勉強を教えるの好きなんですよ。まだこの学校に赴任したばかりだから、僕の話し相手になってくれるなら、それが報酬で大丈夫です」
「君は良い人だなぁ」
大元が感心している。
タダで勉強を見てくれるというのなら、お願いしない理由が無かった。
「よろしくお願いします。勉強、教えてください」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします。明日の放課後からでいいかな」
翌日、いつものように曜子が紗枝のいる教室に入って来ると、目を丸くしていた。
紗枝が問題集に取り組んでいるのは意外ではない光景だが、数学教師の伊勢がその隣にいるからだ。
「伊勢先生、どうしたんですか? 紗枝が何か悪いことしたんですか?」
答えたのは紗枝だった。「違うよ。テストの点数が悪いって大元先生に相談したら、伊勢先生が勉強を教えてくれるってことになったの」
「学校の教室で?」
それに答えたのは伊勢だった。「ここが一番やりやすいからね」
最初、伊勢は剣志隊の宿舎で教えようかと提案した。紗枝はここで勉強した後に本営に行くのだから、紗枝のためを思っての提案だった。
ただ、紗枝は丁重に断った。そこまで伊勢にさせるのは気が引けたし、そもそも部外者を本営に入れるのは禁止されている。時々、隊士の家族が本営に入り込むことがあるが、そのたびに初芽は雷を落としていた。紗枝は初芽に怒られたくはない。
なかなかどうして、伊勢の教え方は上手だった。学校の教師の授業よりも数段分かりやすく、紗枝の頭にすんなりと入ってくる。学力というよりは、人柄なのかな、と紗枝は思った。
紗枝はノートに目を戻すと、確率を求める問題に取りかかった。4人の人間が1本の当たりくじを含む10本のくじを同時に引く時、誰かが当たりを引く確率はどのくらいという問題だった。だいたい半分、では駄目なのか?
「紗枝、頑張ってますか?」
曜子の問いに伊勢は優しそうな声で答えた。
「頑張ってるよ。ゆっくりだけど、しっかり身についていると思うよ」
「良かった」
曜子は少しもじもじしながら、続けて聞いた。
「あの……、もしお邪魔でなかったら、私もこの教室で勉強してていいですか? 紗枝の勉強が終わったら、途中まで一緒に帰るんです」
「羽場さんの邪魔をしないなら、私は別に構わないが。羽場さんはどう?」
「構わない」
紗枝は短く答えて、また確率の問題に戻った。4人の人間と、10本のくじを絵で描き、これをどうやって数式にするのかを考えているところだった。
この日から、紗枝が勉強をしている時に、曜子がひょっこり現れて自習をするということが始まった。
放課後は紗枝と伊勢と曜子の3人が教室で過ごす、というのが日課になりつつあった。
紗枝からすると、曜子と伊勢の気が合いそうというのが意外だった。こっちが必死に問題を解いているのに2人で雑談をしているというのも、邪魔だという風には思わなかった。
ある日、紗枝が剣志隊の本営の道場で稽古をしようとした時、入り口に何者かが立っているのに気づいた。
目をやると、伊勢であった。片手にノートを持ち、道場の中を興味ありげに眺めている。
「伊勢先生」
紗枝は、家庭教師の伊勢を、そう呼ぶようにしている。
「困ります、伊勢先生。ここは、部外者は立ち入り禁止なんです。誰にも止められなかったのですか?」
「ああ、止められはしたが、君に忘れものを届けに来たと伝えたら、通してくれたよ。あの、人の好さそうな男の人に」
浅野さんか、と紗枝は眉をひそめた。後でしっかり言わなければ。
「そのノートですか」
「ええ。せっかくやった宿題を、忘れたとなるともったいないですから」
この日は、数学の宿題として、確率の問題を100問ほどは解いていた。確かに、これを「忘れました」となれば、次の成績に響く。
「ありがとうございます」
紗枝はノートを受け取ったが、伊勢は去ろうとしない。道場の一角をぼんやり眺めていた。
「どうしたんですか、伊勢先生。早く行かないと。今ならまだ、入り込んでしまった、という言い訳で済みます」
「そうですね。すみません。それでは、また明日」
「はい、また明日」
背中を見せて、伊勢は道場を出ていった。
妙に、隙の無い背中だと紗枝は思った。なぜだろうと思ってよく見てみると、頭の位置があまり上下していない。
剣道で間合いを詰めるみたいな歩き方だ。
ふと気になって、紗枝は伊勢が熱心に見ていた一角を確認してみた。
そこは道場の裏口だった。普通、隊士たちは正面の入り口から入るが、初芽が隊士たちを集めて話をするみたいな時は、裏口も解放して一斉に入れるようにすることがある。
それで、なぜ伊勢はこの裏口を熱心に眺めていた?
この道場の裏口の、何がそんなに気になるのだ?




