3-1
中学校の制服姿で学生バッグ片手に日本刀を帯びて市中巡察。
ちょっとばかり剣呑な恰好に、羽場紗枝が道行く人の注目を集めていた。
ただ、当の本人は全く気にしていなかった。
(38点、38点、38点……)
頭の中では38点という数字がぐるぐる回っていた。
おかげで、正面から紗枝に向かって手を振りながら走ってくる少年がいても、紗枝は全く気付かなかった。
「羽場さん!」
声がやっと脳に届いて、紗枝は足を止めた。
少年は、紗枝が通っていた剣道場の門下生だった。今日も剣道場で稽古していたらしく道着姿だったが、竹刀袋を持っていないのは妙だった。
少年は紗枝の目の前で急停止した。
「お久しぶり」
「羽場さん! 道場で大変なことが……!」
彼は、紗枝が今剣志隊隊士であることは知っているはずだった。そんな紗枝を呼ぶということは……。
「何か事件?」
「そ、そうです! 大変なんです!」
紗枝は走り出した。慌てて道着の少年も走り出す。
(は、速ぇ……!)
紗枝はぐんぐん速度を上げ、自分が通っていた道場へ急いだ。
道場の戸を開く前に、腰に帯びた早良入道の二尺二寸一分を引き付ける。剣志隊で、事務方の京本房江が用意してくれた刀だった。
少年がやっと紗枝に追いついたところだったが、紗枝は待たなかった。
戸を開け放った。
剣道場の中で、男が刀を片手にがなっていた。
「早く金を持って来い! あるだろう、金が!」
男は白いシャツに黒のパンツと、まるきりどこかのサラリーマンだった。まるで、どこかで仕事をクビになり、その帰り道に刀を買ってここに直行してきたという風だった。
紗枝の師匠の服の腹あたりが赤く染まっている。突きがかすめたのかもしれない。師匠は傷口を押さえて男を睨みつけていた。
そして門下生が数人。みな、男の迫力に怯え、身を固めていた。
「早く持って来いよ! 門下生からもらってる謝礼金がたんまりあるだろうがよ!」
「そんな金は無い! 早く去れ!」
師匠は全く気圧されていない。むしろ侵入してきた男の方がひるみかけている。
紗枝は師匠の腕を知っている。こんな男に一太刀入れられるような男ではない。不意打ちでも食らったのか、門下生を庇ったかのどちらかだろうと踏んだ。
紗枝はわざとどん、と足音を鳴らして1歩を踏み出した。
そこで男は初めて紗枝に気づいた。
「なんだてめぇは!」
紗枝は刀を抜き放った。
「剣志隊です。傷害と強盗未遂の科であなたを捕まえます。おとなしくしてくれますか?」
「するわけねえだろうがよーーー! お前は引っ込んでろ!」
酒でも呑んでいるのだろうか。
大股でどすどす床を鳴らしながら近づいてくると、背中を反らして刀を頭上に持ち上げて力を溜め、「おらあ!」という汚い声と共に振り下ろした。
それを紗枝は涼しい顔で擦り上げる。
からぶった刀が道場の床に食い込んだ。
(しまった)紗枝が心の中でひとりごちる。(道場に傷をつけるのはまずい)
「なんだぁ、てめぇ……」
男はなぜ振り下ろした刀が床に食い込んだのかも分かっていない。フン、と床から刀を引き抜くところを紗枝が冷めた目で見下ろしている。
男は野球選手のバッターのように刀を構えた。フルスイングするつもりなのだろう。
紗枝がその気なら、ここまでで男はもう20回は死んでいる。
そこからも、ただの素人剣法だった。
(羽場、これはけっこう重要なことだから覚えておいてくれ)
男が闇雲に振る刀を受け流しながら、副隊長の糸無柚希が言っていたことを思い出す。
(巡察で死闘となることは少ない。大抵は刀を持ってるだけの素人だ。できることなら斬るな。無駄に血を流すことはない)
紗枝が巡察で闘争となったのはこれが初めてであったが、なるほど、その通りだと思った。
何度目かの攻撃を受け流したあと、紗枝は一気に男の懐まで間合いを詰めると、刀を握っていた手を反転させ、柄尻で男の眉間を思い切り打ち付けた。
「あっ……」
男は天井を見上げて、そのまま背を伸ばして仰向けに倒れた。
危難が去ったところで、ぱちぱちと門下生が拍手を紗枝に送った。
紗枝は「どうも」と応えると、まだ誰の血も吸っていない刀を鞘に収めた。
サラリーマン風の男は通報を受けた警官隊に連行されていった。
師匠は門下生が持って来てくれていた濡れタオルと包帯で傷の対処をした。
「医者に見せなくて大丈夫なんですか?」
「見た目より酷くないんだよ。ちょっとかすっただけさ。気に入ってた小紋に穴が空いたのは許せないけどね」
師匠が道場の床にあぐらで座るので、紗枝も正座した。
道場に通っていた頃、師匠と色々なことを話した時の姿勢だった。
「お久しぶりです、師匠」
「お久しぶりです。刀も支給されて、すっかり剣志隊隊士が板についてきたかな」
「師匠のお陰です」
「いやあ、羽場さんの努力の成果だよ。君は、あの頃から剣道に一心不乱だった」
それは違う、と紗枝は心の中で思った。
親身になって剣道を教え込んでくれた師匠がいなければ、とてもじゃないが入隊考査に受かっていたとは思えない。
「それで、何に悩んでいるのかな」
ぎくり、とした。喉元に刀の切っ先を突き付けられている感覚だった。なぜ師匠は見抜けたのか。
「私、何か、不審な態度でしたか?」
「ちょっとだけね。さっきの男の一番最初の斬り下ろしを擦り上げた時、剣が鈍っているように感じた。二の太刀からは調子良かったけど」
だから、師匠は何も言わずに座り込んだということか。
観念して、紗枝は学生バッグからテストの答案用紙を取り出した。
「38点か」
「38点です」
紗枝は学業全般が苦手だったが、特に数学が駄目だった。まだ最低点の更新には至っていないが、それも間近な点数だった。
「事務方に提出するのはこれからかい?」
「はい。今日このあと本営に戻るので、その時に」
「小言言われちゃうだろうね」
「やっぱり言われますか」
「僕も勉強がからっきしだったんだ。僕が剣志隊にいた時の事務方は、それはそれは厳しい人でね。そんな点数じゃ白兵隊の入隊試験に合格できないぞって、テストの答案を提出する度にガミガミ怒られたもんだよ」
房江が優しい人で良かったと思う。ただ、この点数を見た房江が悲しい顔になり、なんとも言えない言葉で元気づけようとするのがありありと想像できた。そっちの方が辛いかもしれない。
「次の隊内の定期考査はいつだい?」
「2週間先です」
師匠は天を仰いだ。かつての教え子が、剣の腕ではなく、隊務の失敗でもなく、筆記試験で除隊になるのを避ける方法を考えている。
「世話になった塾が今も残っていれば良かったのにねぇ」
その通りだった。本当だったら、紗枝もすぐに、入隊考査のために通った塾の力を借りたかった。
だが、今はもう無い。塾に2人組の強盗が現れたのち、塾そのものが無くなってしまった。あの頃の紗枝の学力を入隊考査に合格できるまで上げてくれた塾である。経営者も、先生たちも、みんないい人だった。本当に悲しい。
「ひとまず、学校の先生に相談するのが一番良いと思う。テストの点数を上げるための方法なら、先生の方が詳しいだろう」
「それは、確かに良さそうですね。分かりました」
テストの点数が低すぎて困っていると切り出すのは恥ずかしかったが、仕方ない。
紗枝が立ち上がると、師匠が静かな目をして言った。
「羽場さん。死ぬんじゃないぞ」
何を言っているか、最初は紗枝にも分からなかった。
師匠が続けた。
「僕が剣志隊に入って、死なずに22歳まで生き残れたのは、単純に強かったからだ。もちろん、運が良かったのもあるし、仲間たちに助けられたことも多々ある。でも、一番大事なのは自分の強さだ。忘れるんじゃないよ」
死線を何度となくくぐり、生き残った男の言葉だ。
軽いはずもなかった。
「肝に銘じます」
剣志隊に入隊してからはこの道場には来ていなかったが、紗枝は反省した。
これからも何か迷うことがあれば、師匠に会いに来ようと思う。




