五七 母子は離れてはならぬのです
「碧は生きておりまする!」
相手に心の準備もさせず、義虎は心の焼けるままに叫んでいた。
皇甫碧珠の覇術が解ける。巫堂の装束が消えた身へ纏うチマチョゴリは、碧色であった。
「碧……碧とおっしゃいましたか」
「いかにも。あなた様の一人娘、鳥居碧は生きておるのでござりまする」
碧珠がへたり込む。身は震え、口は閉じず、目は狂わんばかりである。
「生きておるのです」
がっと、義虎は両の拳を地へ突いて、膝を乗り出した。
「元気にしておりまする。強く、賢く、そして屈しない」
「嗚呼!」
碧珠が顔を覆い崩れ込む。
「碧は戦人になりました。近くこちらへ来るでしょう」
はっと、碧珠が腫れた目を上げる。
「ご安心を。今は大和軍四万の中におり、信頼できる部下へ預けてあります。さらに偉大なる《海神》大将軍も気にかけて下さっている。そして何より……」
かっと、義虎は眼を見開く。
「この義虎が命に代えても護ると誓ってござれば」
碧珠が深々と頭を垂れた。
「……ありがたく」
何度も何度も礼を言われた。
「今日まで、どのようにして」
「三年前、城で女中へ就いて覇術学校へ入ったとか。戦場実習生へ選ばれるまでになり、五ヶ月前に我が旗下へ入りました。入学するまでの三年間は、さぞ辛い思いをしたでしょう、されど誰よりもたくましく生き抜き……今や百戦錬磨の玄人がごとき慧眼と心力をもって人の営みを看破し、難敵を降す糸口を見出し、迅速果敢に立ち回ることできる。それがしも誇らしゅうござる」
「なんと、ありがたい……がんばったのですね……よくぞ、よくぞそこまで……」
もはや震えて声になっていない。義虎は黙って眼を閉じた。
やがて碧珠が息を吐き、お見苦しいところをと顔を上げた。
「とんでもござりませぬ。今日までのお母上のご心痛、若輩には推し量るに余りありまする……もっと碧のことを訊いていただきとう存じまするが、よろしいでしょうか」
本題へ入る前にと、義虎は微笑んだ。
「ええ、喜んで……背丈はどれほどですか」
「一四二あるそうです。ずいぶん伸びられたでしょう」
碧珠が最後に見た碧は八歳である。感慨深いことだろう。
「好物はなんですか」
「抹茶ですね、お父上が生業にしておられたとか」
碧珠が何度も頷いた。
「うぃー、以前えのきを密輸したいと話しましたら、抹茶味にして、と」
碧珠が吹き出した。
「料理はできますか」
「うぃー、卵で奇天烈な硫黄の塊をこしらえていました」
「あらまあ。服はどんなものを好みますか」
「ポンチョ状の合羽にくるまっています、お母上に縫ってもらったと聞きました」
「なんと、あれを今も……よく話しますか」
「うぃー、かまってちゃんで人懐っこいですので、かなり喋ってくれますよ。この前も小川で、本当は跳べるくせに座り込んで、来て来てと駄々をこねていました……かように甘えん坊なのは」
ふっと、義虎は声を静める。
「甘えたい幼い日に、甘えられなんだが故でしょう」
碧珠の顔が暗くなっていく。張り裂けんばかりである。
ばっと、義虎は膝を進める。
「会ってあげて下さい」
「……できませぬ」
碧は風と化し馬を駆っている。
「さっき麗亜どんに言っとったやつ」
並走する山忠がこちらを向いた。説教されるかと身構えた。
「すかっとしたべよ」
「ん、よかったん?」
山忠は大笑いして、ばしばし背を叩いてきた。痛い。
「まあ確かに、正論とはいえ言い過ぎたとこもあったべな。だども、おいどんは気もちよかったべ。麗亜どんの気もちも分からんでもねえべが、あんたはんの信条にゃあもっと共感すんべよ。んだ、おいどんたちゃあ人間社会っつう戦場にいんだ、小せえことに一喜一憂とかしてらんねえ。ここじゃあ」
山忠は空を見上げた。
「笑ったもん勝ちだべ」
碧も空を見上げた。
「だから笑っとくんだべ。てっちゃん様だべよ、あんな化物がくたばるはずねえべ!」
「ん、粗相だよ。でも……絶大賛成したげる」
にっと、碧は前へ向き直った。
まずは最後に義虎と連絡が取れた高句麗界の土流道へ向かい、痕跡を探す。そのためには、高句麗界を封鎖するかたちで陣を敷く黄華軍を突破していく必要がある。
__突破してやる。
ふと思う。なぜ自分は、こうも義虎へ入れ込むのか。
これまで多くの人間を見てきた。
そのほとんどを好きになれない。
特に権力や財力をもつ男である。
体は大きくとも心は小さく、力があるのに動かぬ輩が多い。
陥れられ尊厳を奪われぬかと、休まず警戒せねばならない。
そんな者には触れられたくない、話しかけられたくもない。
同年代には子供っぽく頼りない者が多かった。大人を見ても、力にものを言わせる荒くれた者や、下心をまる出しにする下品な者、その日の稼ぎばかりを気にするしょうもない者が多いように思う。
女にしても、一人では弱々しく媚びを売りながら、群れればぎゃあぎゃあ他人を誹謗中傷し、権勢を盾に得るや高飛車に命令し、金も力も男が負担して当たり前とふんぞり返る輩が多いように思う。
ほとほと人間には失望した。
飢えていても、傷付いていても、助けてくれなかった。
それでもいる。心優しく、強く、仲間に入れてくれる人間がどこかにいる。
__それが義虎隊だもん!
出逢って半年も経っていないが、つくづく想う。
__わーの居場所はここなんだ。
義虎、勝助、山忠は、自分と似た境遇を生き抜いてきた。それもあってか、当たり前のように受け入れてくれた。麗亜、妖美も、隊長や戦国に振り回される新兵という立場を同じくする。ともに今を闘う友となってくれた。
ここでは気を張らなくていい。
ここでは見下し謀らずに済む。
ここでは素で笑っていられる。
ふと思う。遠い記憶に、同じような場所がある。
__家族……。
母が恋しい。父が、家が、村が恋しい。
『おっかあ、おっとう……なんで、わーだけ、おいてったん……』
幼い自分の声が響いてくる。
独りぼっちで、金もなく寝床もなく食べ物もなく、泥にまみれ朱くなって放浪するなか、どれだけそう苦しんだか。
お願いだから誰か助けてと、通り過ぎる人々を目で追えば、同じ年頃の子供たちが両親に甘えながら笑っていた。ちょっと転んだだけで、血も出ていないのに泣きわめき、そして優しく介抱され頭を撫でられていた。
『おっかあ、おっとう……どうして、きてくれんの……』
ある子供が親に買ってもらった菓子を投げ捨てたのを見た。味が嫌いだとわがままを言い、叱られもせずに捨てたまま抱き上げられていった。空腹のあまり朦朧としていた碧は、蹴つまずき膝を朱く濡らしながら這うようにして菓子を拾い上げた。
蹴り付けられ奪われた。
がらの悪い大きな少年たちだった。悔しかったら取り返してみろと嘲られ、無我夢中で立ち向かい、突き飛ばされて頭を打ち、朱い膝を蹴られ絶叫した。誰にも助けられず、うずくまり震え続けるうちに日が沈みまた登り、邪魔だと蹴り起こされ這いずって逃げた。
『おっかあ、おっとう……たすけてよ……』
どんなに泣いても、叫んでも、幸せが戻ることはなかった。
義虎隊で幸せを取り戻した今、改めて恋しさが募ってくる。
__おっかあ、おっとう……せめて、わーを見守っててね。
なっと、義虎は固まった。
碧珠は泣いている。碧に会いたくてたまらないだろう。だが会えないと言う。
「合わせる顔がないということですか」
「ええ……あの子は亡くなったとばかり……諦めずに探し続けてさえいれば、そんなにも苦しめずに済んだものを……私は親失格です、会うなど許されませぬ」
「……本心からおっしゃっておられまするか」
碧珠が黙り込む。震えている。
__説き伏せねばならぬ。
「それがし親にはござらぬ故、お気もちを理解しきるはできますまい。されど」
義虎は痛む体を無理やり動かし、立ち上がる。
「親を喪った子の気もちなれば完全に理解できる」
はっと、碧珠が顔を上げる。
かっと、義虎は眼を見開く。
「会いたいのです」
こらえきれない嗚咽を残し、碧珠がうつむいていく。
「お手前とて同じはず、非道と心得たうえで申し上げまする……お父君であられる《風神》大将軍を、恨めしく思っておられまするか。お手前は大将軍のお子であるが故に過酷な任務へ駆り出され、そして夫君と碧を奪われた、されど……もし大将軍が生きておられたならば、会いに来るなとおっしゃいまするか」
義虎は眼を閉じる。
__母さま……。
自分にも父母がいた。
生まれて間もなく父を嬲り殺され、母と二人で逃げる生活を送った。
三歳だった。母が自分を守り嬲り殺された時、義虎はわずか三歳であった。
身も心も疲れ果て、もはや死を待つのみとなっていたところを《雷神》に拾われるまでの一年余り、どんな思いで生きてきたか。
もはや記憶から消えている。否、消した。ごみを食らい、遊んで石を投げられ、か弱く小さな体を引きずり延々と馬糞を運び続けたあの生き地獄は、人の心を捨てたはずの今でさえ、思い出すだけで胸を引き裂かれ呼吸を潰され死に至るだろう。
全ては、父母が奴隷などになってくれたがため。
父母が守りきってくれなかったがため。
__黙れ。
母の顔も、声も、温もりも、積もり積もった血と泥に埋もれてしまった。
__されどこれだけは明瞭に覚えておる。
眼の奥が熱い。今にも張り裂けてしまう。
義虎は眼を開ける。
__母さまは愛してくれていた。
「母子は離れてはならぬのです」
ざっと、歩み出る。
「子は母に会いたいのです。いかなる手を使っても、何を犠牲としても、全てを敵に回そうとも、会えるものなら今すぐにでも会いたいのです。昔の苦しみなどどうでもいい、合わす顔がどうとか知ったことか、何が何でも会いたいのです」
爛々と眼を燃え上がらせ、膝を突き、再び上がる碧珠の眼へ映り込む。
「碧に会ってあげて下さい」
「……はい。ありがとうございます」
ふっと、義虎は深く頷き、倒れ込んだ。