第3話:放課後の問いかけ――本気だったら、どうする?
【時間】 その日の放課後
【場所】 静まり返った教室
その日の授業内容は、何一つ美咲の頭に入ってこなかった。
黒板に書かれる数式も、教科書の古文の単語も、ただの黒いシミのように網膜を滑り落ちていく。視界の端には、いつだって隣の席の悠真がいた。
彼は真面目にペンを動かし、先生の問いかけに答え、休み時間には友人たちとバカ話をして笑っていた。けれど、美咲とだけは、絶対に視線を合わせようとしなかった。話しかければ返事はする。でも、そこには薄いガラスが一枚挟まっているような、徹底した「境界線」が引かれていた。
(このまま、終わらせるの……?)
放課後を告げる終鈴が鳴り響く。
生徒たちが部活動や買い食いの相談をしながら、三々五々、教室を出ていく。
美咲は席を立つこともせず、自分の机の上でじっと、帰り支度をする悠真の後ろ姿を見つめていた。
このまま黙っていれば、きっと明日には「気まずい空気」も薄れ、数週間もすれば何事もなかったかのように元の幼なじみに戻れるだろう。傷つかずに済む。誰も悪者にならずに済む。
でも――朝、悠真が見せたあの哀しげな作り笑いを思い出すたび、美咲の胸の奥が引き裂かれそうに痛むのだ。
ガタッ、と悠真が通学鞄を肩にかけ、教室の出口に向かって歩き出した。
その背中がドアをくぐる寸前、美咲は椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
「悠真!」
静まり返った夕方の教室に、美咲の声が鋭く響いた。
悠真の足が止まる。彼は数秒の躊躇いのあと、ゆっくりと、恐る恐る振り返った。夕暮れの光が、彼の陰影の濃い輪郭を浮き彫りにしている。
「……何? 美咲」
「ちょっと、話があるの。……座って」
悠真は眉をわずかにひそめたが、美咲のただならぬ気迫に気圧されたのか、無言のまま自分の席へと戻り、鞄を机の上に置いた。
教室には、もう二人きりだった。遠くから聞こえる吹奏楽部のトロンボーンの不揃いなスケール練習が、しんとした室内に薄く染み込んでくる。
「……昨日のこと」
美咲は自分の机の角を両手でぎゅっと握りしめ、逃げ出したい衝動を必死に抑え込みながら口を開いた。
「朝、あんたは『忘れてくれ』って言った。悪ノリだったって。……でも、私、どうしても納得いかないの」
「美咲――」
「誤魔化さないで答えてよ!」
遮るように、美咲は声を張り上げた。瞳の奥に、知らず知らずのうちに涙が滲んでくる。
「私の好きなところを言ったのも、あの、抱きしめたのも……全部、からかうための嘘だったの? あんた、あんな嘘をつくような奴だった!?」
「…………」
「本気だったの? それとも、ただの冗談だったの!? どっちなのよ!」
美咲の切羽詰まった問いかけが、教室の空気を震わせて消えた。
悠真は口を真一文字に結んだまま、微動だにしない。窓から吹き込む風が、彼の黒髪をサラリと揺らす。
永遠にも思える長い沈黙ののち、悠真はふっと息を吐き出すと、美咲の瞳を真っすぐに射抜いて問い返した。
「……本気だったら、どうする?」
低く、けれど芯の通った声音だった。
「え……?」
「もし、俺が冗談なんかじゃなくて、お前のことが本当に好きで……あの日言ったことも、抱きしめたのも全部本気だったとしたら、美咲はどうするんだよ」
その眼差しがあまりにも真剣で、美咲は息を呑んだ。
どうする、なんて聞かれても分からない。ずっと隣にいるのが当たり前で、家族よりも近くにいて、空気を吸うのと同じくらい自然だった存在。その彼が、自分を「一人の女」として見ている世界なんて、考えたことすらなくて――。
「……もし、本気だったら……私たち、どうなるの?」
絞り出すように呟いた美咲に、悠真は自嘲気味に口元を歪めた。
「それは、美咲次第だろ」
「そんなの、ずるい!」
「……そうだな。ずるいよな」
「ずるいよ! 勝手に私の日常を引っ掻き回して、勝手に変なことして、勝手に諦めて壁作って……! 私ばっかり困ってるじゃない!」
感情が決壊し、美咲が一歩詰め寄った、その時だった。
悠真がぎゅっと奥歯を噛みしめ、肩にかけた鞄のベルトを、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。その肩が、微かに震えている。
「……俺だって、怖いんだよ!」
絞り出すような、痛々しい叫びだった。
美咲の足が、ピタリと止まる。
「お前と……今までみたいに、話せなくなるのが怖かったんだよ!」
悠真は俯き、床を見つめながら、ポツポツと胸の内を吐き出した。
「昨日、突き飛ばされただろ。……あんな顔、初めて見た。あんなに怯えた目で俺を見られたらさ……生理的に無理だったんだなって、完全に嫌われたって思うだろ」
「そ、それは……っ」
「だから今朝は、必死で普通にしてたんだよ! お前が触れてこないなら、俺もこの気持ちは全部墓場まで持っていって、一生ただの幼なじみでいようって決めたんだよ!」
「悠真……」
「なのに……っ、今、お前からそんなこと聞いてくるから……! 期待しちゃうだろ……っ!」
顔を上げた悠真の瞳は、今にも零れ落ちそうなくらいに揺れていた。
いつも余裕たっぷりで、美咲のどんなワガママも笑って受け流していた無敵の幼なじみ。その仮面の下にあったのは、傷つくことに怯え、拒絶されることに震えている、不器用なただの一人の男の子の姿だった。
美咲の胸の奥が、ぎゅっと音を立てて締め付けられる。
彼に、こんな顔をさせていたなんて。こんなにも痛い思いをさせていたなんて。
「……ごめん」
「謝るなよ」
「ううん、謝らせて。私、自分のことばっかりで……悠真がどれだけ勇気を出してくれたのか、全然考えてなかった」
美咲は自分の胸にそっと手を当てた。そこにはまだ、昨日から続く戸惑いと、けれど確かに芽生え始めた甘い疼きがあった。
「……私ね、まだ、よく分かんないの」
「……うん」
「悠真のことが好きなのかどうかって言われたら……幼なじみとして大好きなのは確実だけど、それが悠真の言う『好き』と同じなのか、まだ頭が追いついてない」
「……そうだよな」
「でも!」
落胆しかけた悠真の言葉を遮るように、美咲は顔を上げ、彼の目を真っすぐに見つめた。
「嫌いになったわけじゃない! 突き飛ばしたのは……嫌だったからじゃなくて、なんか、あんたの心臓の音がすごく速くて……顔が近くて、頭が真っ白になってパニックになっただけだから!」
「…………」
「だから、嫌がってなんかないから……っ! 勘違いしないでよ、バカ!」
最後の方は、あまりの恥ずかしさに耳まで茹で上がりながら、怒鳴るような口調になってしまった。
両手で真っ赤になった顔を隠す美咲の前で、悠真が息を呑む気配がした。
沈黙。
恐る恐る指の隙間から覗き見ると、悠真は目を丸くして固まっていたが、やがて――プッと噴き出すようにして、顔を手で覆った。
「……なんだよ、それ」
「な、何よ! 人がせっかく勇気出して言ったのに!」
「いや……お前、ほんと……そういうとこ、可愛いよな」
「っっっ!?」
可愛い。
不意打ちの言葉に、美咲は心臓が口から飛び出しそうになった。
顔を上げた悠真は、憑き物が落ちたように、春の陽だまりのような優しい笑顔を浮かべていた。
「そっか。……嫌われたわけじゃないなら、よかった」
「……うん」
「待つよ、俺。美咲がちゃんと答えを出せるまで、いくらでも待つから」
そう言って笑う悠真の眼差しは、もう昨日までの「幼なじみ」のそれではない。獲物を見据えるような、けれどどこまでも誠実な、一人の男の眼差しだった。
並んで校門を出た二人の間に流れる空気は、昨日までの軽やかさとは明らかに違う、甘くて、少し息苦しいほどの熱を帯びていた。




