第2話:薄暗い踊り場と、翌朝の日常
【時間】 その直後(夕暮れ〜黄昏時)から翌朝へ
【場所】 階段の踊り場 ➜ 自宅 ➜ 翌朝の教室
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
誰もいない北校舎の階段の踊り場。冷たいコンクリートの壁に背中を預け、美咲はその場にへたり込んだ。
膝を抱え込み、両手で火を噴きそうなほど熱い両頬をぎゅっと包み込む。けれど、指先から伝わる熱よりも、制服のリボンの下で暴れ狂う心臓の音のほうが遥かにうるさかった。
「何なのよ……っ! 何なのよ、あいつ……バカ悠真……!」
誰もいない薄暗い空間に、涙声混じりの毒づきが響く。
怒っているはずだった。あんな、みんなの前で恥をかかされて、勝手に抱きしめられて。
けれど、目を閉じるたびに蘇るのは、背中に回されたあの手のひらの温度と、頬に伝わってきた悠真の心臓の音だった。
早鐘を打っていたのは、自分だけじゃなかった。悠真の鼓動も、壊れそうなほど速かった。
「……本気、だったの……?」
唇からこぼれ落ちた呟きが、冷たい壁に反射して消える。
自分の好きなところを一つずつ数え上げた時の、あの低くて優しい声。美咲自身ですら隠していた弱さを、すべて包み込むような眼差し。あれが全部、ただの悪ノリの嘘だなんて、どうしても思えなかった。
もし、あれが本気だったとしたら――。
(悠真が、私を……? 幼なじみとしてじゃなくて、女の子として……?)
想像しただけで、心臓が跳ね上がり、呼吸が苦しくなる。
美咲は膝の上から顔を上げ、上の階へと続く薄暗い階段をじっと見つめた。
足音は、聞こえない。
カバンも持たずに飛び出してきたのだ。いつもなら、『おい美咲、荷物忘れてんぞバカ』と笑いながら追ってくるはずの足音が、どれだけ耳を澄ませても響いてこない。
自分から突き飛ばして逃げてきたのだ。来るわけがない。自業自得だ。
それなのに。
「……なんで、追っかけてこないのよ……馬鹿……」
ぽろりと落ちた本音に、美咲自身が一番驚いて、慌てて自分の口元を手で塞いだ。
私、何を期待してるの?
悠真に追いかけてきてほしかったの? 追いかけてきて、あの抱擁の続きを……あの言葉の真意を、聞かせてほしかったとでも言うの?
答えの出ない自問自答を抱えたまま、教室へカバンを取りに戻る勇気も出ず、結局その日は、迎えに来てくれた佳奈にカバンを届けてもらい、逃げるようにして家に帰った。
◇
その夜、美咲は一睡もできなかった。
ベッドの中で幾度となく寝返りを打ち、スマホの画面を見つめては伏せる。幼い頃から家族ぐるみで付き合いのある悠真のトーク画面を開いても、最後に交わしたメッセージは昨日の「明日の朝練、体育館履き忘れんなよ」「わかってるわよ」の素っ気ないやり取りのまま。
悠真からの連絡は、一切なかった。
明日、どんな顔をして会えばいいのか。どんな態度で接すればいいのか。
考えれば考えるほど頭がこんがらがって、東の空が白み始める頃には、美咲の目の下にはくっきりと隈ができていた。
◇
翌朝。
重たい足取りで昇降口を抜け、教室の引き戸の前に立った美咲は、ドアノブに手をかけたまま大きく深呼吸を三回繰り返した。
大丈夫。いつも通りにすればいい。「昨日はびっくりしたわよー!」って笑い飛ばせば、全部元通りになる。そう自分に言い聞かせ、引き戸をガラリと開けた。
「おはよう、美咲」
緊張で全身をガチガチに強張らせていた美咲の耳に、拍子抜けするほど軽やかな声が届いた。
隣の席。すでに着席してノートを広げていた悠真が、いつもと寸分違わぬ、からりとした笑顔を向けて手を挙げている。
「……え? あ……う、うん。お、おはよう……」
「昨日の数学の課題、終わったか? 三問目の図形の証明、全然解けなくてさ。あとで見せてくんね?」
ノートの端をひらひらと揺らしながら、悠真は屈託なく笑ってみせた。
その顔には、昨日の放課後の気迫も、あの切迫した熱情も、何一つ残っていなかった。まるで、昨日の放課後の出来事など最初から存在しなかったかのように。あるいは、美咲一人だけが都合のいい熱病に浮かされて、幻覚を見ていただけだったかのように。
(なんなの……それ……)
安堵するはずだった。望んでいた「いつも通りの日常」のはずだった。
なのに、美咲の胸の奥には、氷水を流し込まれたような冷たい隙間風が吹き抜けていた。
席に着き、カバンを机の横にかけながら、美咲はどうしてもその違和感を飲み込むことができず、震える声で切り出していた。
「……ねえ、悠真」
「ん? なに?」
「昨日の、放課後のことなんだけど」
その瞬間。
ノートをめくろうとしていた悠真の細長い指が、凍りついたようにピクリと止まった。
伏せられた長い睫毛が、朝の陽光の中でその頬に深い影を落とす。彼の纏う空気が、一瞬にして針のように研ぎ澄まされた。
「……わりぃ」
低く、掠れた声だった。
「え……?」
「急に抱きしめたりして。あんなの、嫌だったよな。……悪ノリが過ぎた」
「そ、それは……」
「本当に悪かった。もう二度としないから。……忘れてくれ」
顔を上げた悠真は、ふわりと笑ってみせた。
けれどその笑顔は、美咲が十数年間の人生の中で一度も見たことがないほど、完璧に作り込まれた、決定的な「拒絶の壁」を隔てた笑顔だった。
ドクン、と胸の奥が痛んだ。
忘れてくれ? もう二度としない?
……それって、どういうこと?
やっぱり全部、私をからかうための悪ふざけだったってこと?
あんなに必死な顔をして、あんなに強い力で私を抱きしめたくせに、それを全部「なかったこと」にして蓋をするの?
喉元までせり上がってきた問いを、美咲はどうしても声にすることができなかった。悠真が作った冷たい壁の前に立ち竦み、ただ爪が白くなるほどスカートを握りしめることしかできなかった。




