第1話:夕暮れの教室――からかいと、即答
【時間】 ある日の放課後(夕暮れ)
【場所】 茜色に染まる教室
放課後の教室を、西日が濃密な琥珀色に染め上げていた。
遠くグラウンドから風に乗って届くサッカー部のホイッスルと、掛け声。開け放たれた窓から吹き込む秋めいた風が、白いカーテンをふわりと膨らませては、サワサワと擦れる乾いた音を立てている。
机の上に散らばる教科書やノートを片付けながら、教室に残った生徒たちがまったりとした放課後の余白を楽しんでいた、そんな時だった。
前の席に座る悪友の佳奈が、椅子の上で器用にくるりとこちらへ振り返り、頬杖をつきながら悪戯っぽく目を細めた。
「ねえ、ずっと気になってたんだけどさ。あんたたちって、本当は付き合ってるんじゃないの?」
唐突に投げ込まれたその言葉に、美咲の唇の端がニヤリと弧を描いた。
隣の席を見れば、腐れ縁の幼なじみ――神崎悠真が、いかにも退屈そうにシャーペンを指先でくるくると回している。窓の外をぼんやりと眺める横顔はいつも通り無防備で、いかにも「からかってくれ」と言わんばかりの隙だらけだった。
物心ついた頃からの付き合いだ。彼がどんな言葉に眉をひそめ、どんな悪ノリに耳を赤くして怒るかなど、手のひらを眺めるよりも熟知している。
(ふふん、今日もいいリアクション、期待してるわよ?)
美咲はわざとらしくパッと顔を輝かせ、甘ったるい声を弾ませた。
「そうなの! 実は私たち、もうすっかりラブラブなんだよねーっ!」
勢いよく椅子から身を乗り出すと、美咲は悠真の制服のブレザーの袖をぐっと手繰り寄せ、そのたくましい腕に自分の身体を隙間なく抱きつかせた。
上目遣いに悠真の整った顔を覗き込みながら、心の中でカウントダウンを刻む。
スリー、ツー、ワン――。
いつもならここで、悠真が茹で蛸のように耳まで真っ赤にし、『誰がお前なんかと! 離れろバカ、暑苦しい!』と乱暴に美咲を引き剥がし、周囲の笑いを誘うはずだった。お決まりの茶番。いつもの平和な放課後。
ところが。
「うん。付き合ってるよ」
軽やかに回っていたシャーペンが、カチリと音を立ててピタリと指先で止まった。
悠真は何の動揺も見せず、まるで「今日の晩飯はカレーだ」とでも言うような平然としたトーンで、あっさりとそう言った。
「…………え?」
美咲の間抜けに裏返った声が、夕暮れの教室にぽつんと落ちた。
抱きついていた腕から、すうっと血の気が引いていく。
美咲の顔を見下ろす悠真の黒い瞳には、いつもの呆れたような光も、照れ隠しの怒りも微塵も浮かんでいなかった。ただ凪いだ水面のように静かで、けれど逃げ場を塞ぐような深さで、美咲の目を真っすぐに見つめ返している。
「ちょっと、あんた……っ」
完全に台本から外れた返答に背筋が粟立ち、美咲は机の下で悠真のローファーの爪先を軽く踏みつけながら、小声で抗議しようとした。あんた、悪ノリにも程があるでしょ、と。
しかし、その声を豪快にかき消すように、前の席の佳奈が「ドンッ!」と自分の机を両手で叩いて立ち上がった。
「ええええええっ!? マジで!? ちょっと、いつの間に!? 誰から告ったの!?」
「おいおいマジかよ神崎!」「お前ら、幼なじみ卒業かよ!」
教室に残っていた他のクラスメイトたちまで一斉にざわめき、蜘蛛の子を散らすように集まってきた。好奇心にギラギラした視線が一斉に突き刺さり、美咲は金魚のように口をパクパクと開閉させる。
だ、誰か助けて。これは冗談、ただのいつものからかいで――そう叫ぼうとした美咲を置き去りにして、悠真は涼しげな顔のまま、さらりと言葉を重ねた。
「先週の金曜の帰り道」
「そ、そうそう! 金曜日! ……って、ええっ!?」
「ほら、美咲。自分から『付き合ってあげる』って言ったくせに、もう忘れたの?」
「わ、忘れてないわよ! 当たり前じゃない!」
引くに引けなくなった美咲は、引きつった笑顔を顔面に張り付けながら、必死にコクコクと頷いた。
おかしい。何かが致命的におかしい。
いつも悠真の手綱を握り、いいように転がして困らせていたのは自分だったはずだ。それなのに今日は、完全に彼の張り巡らせた見えない網にかかってしまっている。悠真のどこか余裕めいた横顔を見ているうちに、美咲の中で、持ち前の強烈な負けず嫌いが猛烈に鎌首をもたげた。
(調子に乗っちゃって……! 絶対にボロを出させて、白旗を上げさせてやるんだから!)
美咲は腕に絡めた力をさらに強め、わざとらしく胸を押し付けるように密着しながら、勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。
「だってさー! この人、昔っから私にベタ惚れなんだもんね? 私が頼み込んで付き合ってあげたんだから、感謝しなさいよね!」
「うん。ベタ惚れだよ。感謝してる」
「…………っ!?」
一秒の淀みもない、即答。
美咲の頬がピクピクと痙攣した。
な、何なのよ、こいつ!? いつもなら『自意識過剰女』だの『誰が頼むか』だの言い返してくるくせに!
周囲の「ヒュー!」「神崎ごちそうさまー!」という黄色い歓声が遠くで響く中、美咲はカッと顔に熱が集まるのを感じながら、意地になって悠真の鼻先に人差し指を突きつけた。
「じ、じゃあ! そんなに私が好きなら、私のどこが好きなのか、今ここで言ってみなさいよ!」
言えるわけがない。どうせ「ない」と答えるか、答えに詰まって「嘘でしたー」と白旗を上げるに決まっている。美咲は勝利を確信し、顎をツンと上に向けて悠真を見据えた。
だが、悠真は動じることなく「いいよ」と短く頷いた。
彼は視線を一度だけ窓の外へと流し、茜色に燃える空に目を細めた。そして、教室のざわめきを静かに溶かすような落ち着いた声で、一つずつ言葉を紡ぎ始めた。
「まず、くだらないことで意地を張る、筋金入りの負けず嫌いなところ」
「なっ……それ、悪口じゃない!」
「あと、道端で迷子になってる犬とか、ノートを忘れて青ざめてる奴を放っておけない、変なお人好しなところ」
「……ふん、普通でしょ、そんなの」
美咲は鼻を鳴らし、腕組みをしてそっぽを向いた。
そこまでは、いつもの冗談の延長線として受け流せた。けれど、悠真が再び美咲へと視線を戻した時、その瞳の奥に宿る光の温度が、ふっと変わった。
低く、どこまでも柔らかい声が、美咲の耳朶を直接震わせる。
「……それから。自分が一番泣きたい時でも、周りに心配かけたくなくて、無理して笑おうとするところ」
「…………え?」
美咲の思考が、唐突に停止した。
夕方の教室の喧騒が、潮が引くようにサーッと遠ざかっていく。
脳裏に、古い記憶が鮮やかに蘇る。中学二年の冬、大切にしていた祖母の形見のストラップを失くして、本当は今すぐ泣き叫びたいほど悲しかったのに、友達の前では「ま、安物だったしね!」とおどけて笑っていたあの日。
みんなが「美咲は強いね」と笑う中、放課後、真っ暗になるまでグラウンドの隅を探し回って、泥だらけのストラップを無言で差し出してくれたのは、誰だったか。
(なんで……覚えてるの……?)
美咲の顔から完全に余裕の笑みが消え失せたのを見透かしたように、悠真は慈しむような眼差しで、さらに言葉を重ねた。
「あとさ。強がってるくせに、本当は寂しがり屋で……雷が鳴ると、いまだに机の下に潜り込みそうになるところ」
「ちょ、ちょっと待って……!」
「まだあるけど。全部言う?」
「も、もういい! もういいわよっ!」
美咲は耳の先まで一気に真っ赤に染め上げ、両手を狂ったように振り回しながら叫んだ。
何なの。どうして。
誰にも見せてこなかった、自分の一番柔らかくて、一番格好悪い部分ばかりを、どうしてそんなに愛おしそうな声で数え上げるのよ。
制服の胸の奥で、心臓が警鐘のように早鐘を打っている。ドクドクと脈打つ音が頭蓋骨に響いて、頭がおかしくなりそうだった。
けれど、ここで引いてしまえば、自分が彼の言葉を本気にして動揺したことがバレてしまう。それだけは、絶対に嫌だった。美咲は震える唇を必死に引き結び、涙目になりながら悠真を睨みつけた。
「そ、そんなの……口先だけなら、何とでも言えるじゃない! 本当に好きなら、証拠を見せなさいよ!」
口走った瞬間、自分でも「しまった」と思った。
けれど、吐き出した言葉はもう取り消せない。
その言葉が落ちた瞬間――悠真の瞳から、それまでのどこか困ったような、からかいを含んだ光がすっと消え失せた。
ガタッ。
重い音を立てて、悠真の椅子が後ろに引かれた。
悠真が、ゆっくりと立ち上がる。
夕日を背負った彼の長身の影が、座ったままの美咲の身体をすっぽりと飲み込んだ。普段は見上げる機会の少ない彼の広い肩幅と、引き締まった胸板が、威圧的なまでの存在感をもって迫ってくる。
悠真が一歩、間合いを詰めた。
「……じゃあ」
「え?」
美咲が息を呑んで顔を上げた、刹那だった。
ふわりと視界が傾き、美咲の細い背中に、悠真の大きな両腕が回された。
ぐっと強い力で引き寄せられ、美咲の顔は、彼の制服の胸元へと深く埋め込まれていた。
「――っ!?」
美咲の頭の中のヒューズが、音を立てて弾け飛んだ。
鼻腔を満たすのは、幼い頃から嗅ぎ慣れていたはずの、悠真の家の柔軟剤の匂い。けれどそこに、微かに混ざり合う男子特有の汗の匂いと、熱い皮膚の匂い。
押し当てられた頬のすぐ向こう側から、ドクン、ドクン、ドクンと、耳が痛くなるほどの激しい鼓動が伝わってくる。それは美咲自身の心臓の音なのか、それとも悠真のものなのか、判別がつかないほどに速く、重かった。
背中に回された彼の腕は、絶対に逃がさないと言わんばかりに力強いのに、同時に壊れやすいガラス細工を抱き留めるような、震えるほどの慎重さが滲んでいた。
(うそ……悠真の身体、こんなに、固かったっけ……?)
毎日くだらない憎まれ口を叩き合っていたはずの幼なじみが、突然、まったく見知らぬ「一人の男」に変貌してしまったような錯覚。
周囲の友人たちの悲鳴めいた黄色い大歓声も、下校を告げる遠い校内放送のチャイムも、すべてがすりガラスの向こう側の出来事のように遠ざかっていく。世界には、自分たち二人の熱と、狂ったような鼓動しか存在しないみたいだった。
――数秒の、永遠のような空白。
限界まで熱を溜め込んだ美咲の脳が、ついに大爆発を起こした。
「な、な、な――何すんのよバカーーーーーーッ!!」
火事場の馬鹿力で悠真の胸板を両手で突き飛ばし、美咲は弾かれたように跳び退いた。
床に散らばった教科書も、机の横にかけた通学鞄すらも視界に入らない。沸騰したヤカンのように真っ赤になった顔を両手で覆い隠しながら、美咲は脱兎の勢いで教室の引き戸へと突進した。
ガラガラ、バタンッ!
凄まじい音を残して、美咲の姿が廊下の向こうへと消え去る。
嵐が去った後の教室には、言葉を失った友人たちの気まずい沈黙だけが残された。
突き飛ばされた勢いで机に腰をぶつけた悠真は、痛がる素振りも見せず、ただぽつんとその場に立ち尽くしていた。
そして、まだ美咲の柔らかな体温と、甘いシャンプーの香りが微かに残る自分の両の手のひらを、呆然と見つめた。
「……っつ、やっちゃったな……」
掠れた自嘲の声が、夕暮れの教室に落ちる。
悠真は前髪を乱暴にかきむしり、深いため息とともに天を仰いだ。
ずっと、ずっと好きだった。
初めて言葉を交わした泥遊びの午後から、いつの間にか少女の顔つきになっていく彼女を隣で見つめ続けてきた十数年間。いつから恋になったのかさえ分からないほど、彼女への想いは悠真の血肉となって根を張っていた。
けれど、気持ちを伝えて拒絶されれば、この心地よい「幼なじみ」という特等席すら失ってしまう。そう恐れるあまり、悠真はいつだって憎まれ口と冗談の鎧を着込んで、自分の心に鍵をかけてきたのだ。
今日だって、いつも通り軽くかわして終わらせるはずだった。
それなのに、あいつがあまりにも無防備に腕にしがみついてくるから。そして「証拠を見せろ」なんて無邪気に煽るから、十数年分のアホみたいに重い感情の堤防が、一瞬で決壊してしまったのだ。
(……完全に、嫌われたな)
突き飛ばされた瞬間に見た、美咲のあの恐怖と混乱に引き裂かれたような瞳が、網膜に焼き付いて離れない。
今すぐ廊下に飛び出して追いかけたい衝動を、悠真は奥歯を砕けんばかりに噛みしめて押し殺した。今追いかければ、彼女をもっと追い詰め、完全に壊してしまう。
悠真は重たい足取りで席に戻ると、机の上に残された美咲の通学鞄を、壊れ物を扱うようにそっと抱き上げた。




