第三話:影山 蓮
舌。彼らは私の舌を奪おうとしている。
その思考が、壊れたカセットテープのように脳内を巡り続ける。舌がなければ、私は権力を持たないただの肉塊に過ぎない。投票の標的を逸らさなければ。私には票が必要だ。私を信奉する『駒』が必要なのだ。
私の視線は橋姫美月に止まった。彼女は部屋の隅で蹲り、肩を震わせている。まるで富士山の麓で死を待つ兎のようだ。完璧だ。こういう女は操りやすい。彼女らは庇護に飢えている。
私は歩み寄り、表情を慈愛に満ちた父親のものへと作り変えた。スラム街の選挙活動で使い古した仮面だ。
「橋姫夫人……美月さん」
膝をつき、優しく囁きかける。彼女の肩に手を置き、その震えを掌に感じる。
「怖がることはない。彼らに指一本触れさせはしないよ」
美月が顔を上げた。潤んだ大きな瞳が、縋るように私を見つめる。
「でも……影山様……あの医者が……誰かを選ばなければならないと……私でなければ、誰が……」
「君ではない」
私は遮り、確信を持たせるように指先に力を込めた。
「聞きなさい。この施設は狂った論理で動いている。我々《われわれ》を共食いさせようとしているんだ。だが、団結すれば、本当に危険な奴らへ投票を向けることができる。あの冷酷な医者や、あそこにいる陰気なハッカーとかな」
美月が私に情緒的に『依存』し始めるのを感じる。ダーク・サイコロジーにおける基本技術、『ラブ・ボミング』だ。嵐の中で偽りの安息を与えれば、彼らは命さえも預けてくる。
「本当に……私を守ってくださるの?」
消え入りそうな、脆弱な声だった。
「この命に代えても」
嘘だ。メスが迫れば、私は躊躇なく彼女を前に突き出すだろう。
しかし、彼女の瞳を深く覗き込んだ時、奇妙な違和感を覚えた。彼女の瞳孔は恐怖で開いてはいなかった。むしろ逆だ。彼女は私のうなじが総毛立つような密度で私を見据えていた。
「影山様……」
美月が囁き、冷たい指先が不意に私の手の甲に触れた。
「貴方はとてもお強い。カリスマ性に溢れているわ。主人を思い出します……彼が『病気』になる前の……」
彼女が近づく。先程医者が指摘した微かな化学臭が、はっきりと鼻を突いた。甘く、まるで腐敗した花のような臭いだ。
「彼もまた、全てを支配できると信じていたわ」
美月の声が、突如として無機質なものに変わる。
「私が『弱い』から、何をしてもいいと思っていたの。でも、影山様、ご存じ? 強い人間ほど、自分が毒を飲んでいることに気づかないものなのよ。舌が青くなり、心臓が止まるその瞬間までね」
私は戦慄した。先程までの肩の温もりは、刺すような冷気へと変わっていた。
「何を……何を言っている?」
私は必死に仮面を維持しようと問い返す。
美月は微笑んだ。その目は笑っていない。
「協力するわ、蓮さん。私はここで貴方の従順な『妻』になりましょう。他の人たちが貴方の言葉を信じるように仕向けてあげる。でも、その代わり……決して私から目を離さないで。貴方が油断した時、私が与える苦痛の『投与量』は、ここにある誰のものよりも甘美なものになるはずだから」
これは兎ではない。黒後家蜘蛛だ。
私が彼女を操作しようとした瞬間、彼女は私に『ガスライティング』を仕掛けてきたのだ。私の立場がいかに脆弱であるかを突きつけ、自信を粉砕した。今や、私は彼女のリーダーだからではなく、彼女が私の背後で何を仕掛けるかという恐怖ゆえに、彼女と結託せざるを得ない。
『投票終了まで、残り五分』
システムの声が響き、我々《われわれ》の間の緊張を断ち切った。
私は立ち上がり、呼吸を整えようと試みる。手首のブレスレットが黄色く点滅している。不安のシグナルだ。部屋を見渡せば、この暗い地下壕の中で、他の『対』も形成され始めていた。
インフルエンサーの朱里はハッカーのシンと親密そうに囁き合い、元警官のカイトは泣きじゃくる女子大生のしおりを庇うように立っている。
我々《われわれ》は皆、犠牲者の振りをした捕食者だ。そして最初の外科的処置は……我々《われわれ》の神経に一生焼き付くような惨劇の幕開けとなるだろう。
「誰を選ぶの、蓮さん?」
美月が隣に立ち、尋ねる。その声は先程の悍ましい会話などなかったかのように、再び穏やかで従順なものに戻っていた。
私は唾を飲み込んだ。舌が強張っている。
「あの医者だ。まずは彼らの『脳』を潰さなければならない」
無意識のうちに、私の手が震えていた。システムへの恐怖ではない。隣にいるこの女が……この富士病院にある、いかなる外科手術ロボットよりも危険かもしれないと悟ったからだ。




