私は『罪』という概念を一度も信じたことはない。私にとって、人間とは単なる炭素組織と神経回路、そして偶然にも言葉を解する生化学反応の集合体に過ぎない。しかし、今私の手首にあるこれは、悍ましくも技術的な最高傑作と言えた。
私はゆっくりと立ち上がり、わずかに乱れたシャツの襟を整えた。周囲では、彼らが未だに鞭打たれた獣のように床を這い回っている。政治家の影山蓮は、解剖学的には無傷なはずの腕を必死に押さえていた。
――人工的に誘発された心身症。
ブレスレットの金属表面に指先で触れる。冷たい。超音波トランスデューサーによる微細な振動を感じる。
「興味深いな」
私は呟いた。
「何が興味深いよ、江戸! 私たち、ここで死ぬのよ!」
朱里――私の哀れな妹が、嗚咽混じりに叫ぶ。彼女は先程の機械針による裂傷部位を抱えていた。
私は瞬きもせずに彼女を見据えた。
「医学的に言えば、手荒らな骨髄採取程度で死ぬことはない、朱里。だが、そうやって叫び続ければ、君の心拍数は頻脈の閾値に達し、部屋全体に『ミラーペイン』を誘発する。黙れ。さもなくば、私が今ここで麻酔なしの緊急気管切開を行ってやろうか」
彼女は絶句し、顔を蒼白にした。私が脅しを言っているのではないと理解したのだ。
私は施設の隅々《すみずみ》を観察しながら歩き始めた。ここは単なる地下壕ではない。ハイテクな外科展示場だ。
――分析:中枢神経系への介入。
このシステムは、脳の感覚中継拠点である視床をバイパスしている。体性感覚野に埋め込まれたチップは、おそらく医療市場には未投入の次世代ニューラル・リンク・プロトコルを使用している。朱里の苦痛信号は無線で中央サーバへ送られ、校正された後に、我々《われわれ》各自のチップへ再照射されているのだ。
これこそが『合成共感覚』。視覚刺激を、リアルな肉体的苦痛へと変換する。
しかし、いかなるシステムにもレイテンシ(遅延)は存在する。
壁の心拍モニターを注視する。影山が叫んだ際、ブレスレットのアラームが鳴るまでに約〇・四秒のラグがあった。つまり、苦痛が送り返される前に、中央サーバでのデータ暗号化プロセスが挟まっている。もし私が意図的に『神経原性ショック』を誘発できれば、神経が死んでいる、あるいは非反応であるとシステムを欺けるかもしれん。
「先生……助けて……」
足が止まる。橋姫美月――一見して脆そうな主婦が、私の白衣の裾を掴んでいた。その瞳は潤み、即時的な心的外傷後ストレスの兆候を見せている。
瞳孔を観察する。縮瞳。不自然なほどに収縮している。手は冷たいが、その指先からは私の知る微かな臭いがした。この部屋の消毒液ではない。
――三酸化ヒ素?
興味深い。彼女は犠牲者のように振る舞っているが、その手の化学臭は別の物語を語っている。彼女は忍耐強い毒殺魔だ。
「毒物の残渣がついた手で私に触れるな、橋姫夫人」
耳元で囁くと、彼女は喘ぎ、その表情は一瞬で脆弱なものから硬直したものへと変わった。
私は再び巨大スクリーンを見た。そこには今、人体の解剖図が表示されている。投票の次なる標的が現われた。赤いバツ印をつけられた、人間の舌。
――舌切除術。
影山蓮に視線を送る。舌は、大衆を欺くための政治家の最大の武器だ。この実験の『設計者』は、実に悪趣味な心理的ユーモアの持ち主らしい。
「全員、聞け」
無機質な部屋に私の声が響く。
「投票開始まで三十分ある。生き残りたければ、精神科の患者のように喚くのはやめて論理的に考えろ。さもなくば、機械的に舌を切り裂かれ、自分の血で窒息する感覚を『ミラーペイン』を通して全員で共有することになる」
彼らの瞳に純粋な恐怖が宿る。だが視界の端で、私は影山が美月へ歩み寄るのを捉えていた。『捕食者』は盾を求め、『毒殺魔』は庇護を求めている。
このゲームは共感などではない。本物のメスが肌に触れる前に、誰が最も速く他人の精神を解体できるかの競争だ。