参議院会館の革張りの椅子に比べれば、この冷たい床は何とも不快だった。
胃を掻き回されるような吐き気と共に目を覚ます。オゾンと消毒液の臭いが肺の奥まで侵入してくる。目の前では、見知らぬ七人の男女が昏睡から目を覚まし始めていた。呻く者、泣き叫ぶ者、そして蝋人形のように沈黙を守る者――あの眼鏡をかけた男、確か医療ニュースで見た犬神江戸とかいう医者だったか。
「貴様ら、何者だ! 俺を誰だと思っている!」
怒鳴り散らす。壇上で聴衆を魅了するはずの声が、今は裏返り、無様に震えていた。
返答はない。ただ、我々《われわれ》を圧迫するように白い壁から機械音が響くだけだ。
自分の手首に目を落とす。金属製のブレスレットが緩やかに点滅していた。青。青。青。無理やり引き抜こうとしたが、忌まわしいほど固い。パニックが加速する。他人を支配することに慣れきった俺にとって、自分の肉体の制御を奪われるのは最大の屈辱だった。
「無駄な抵抗はよせ、政治家先生」
犬神医師の声が静寂を切り裂く。鋭く、冷徹な響きだ。
「全員を苦しめるだけだ」
「どういう意味だ、ええい!」
言い返そうとした瞬間、壁の巨大なスクリーンが点灯した。
グラフが表示される。八人の名前。八本の心拍波形。その下には巨大な数字が記されていた。
『共感度:0%』
『第一手順:共鳴確認』
機械的な声が再び響く。
突如、壁から自動アームが飛び出し、若い女――渋谷の看板でよく見かけるインフルエンサーの犬神朱里の傍に迫った。アームの先には、LEDの光を反射して鈍く光る長い注射針が握られている。
「嫌! 来ないで! 助けて!」
朱里がヒステリックに叫び、逃《に逃》げようとする。だが、床が突如として磁力を帯び、彼女の靴をその場に釘付けにした。
俺は内心で嘲笑した。いいぞ、あの馬鹿な小娘を最初の実験台にすればいい。
針がゆっくりと、朱里の二の腕に突き刺さる。ただの注射ではない。それは、麻酔なしで骨髄を採取する機械的な処置だった。朱里が絶叫する。鼓膜を刺すような悲鳴が部屋に充満した。
――メキ、メキッ!!
その瞬間、俺の世界が爆発した。
「あ、がぁああああああああ!!!」
膝から崩れ落ちる。想像を絶する激痛が左腕を貫いた。熱く焼けたドリルで骨を穿たれ、内側の神経組織を微塵に粉砕されるような感覚。だが、俺の腕は無傷だ。血も流れていなければ、針すら刺さっていない。
他の参加者を見やる。全員が悶え苦しんでいた。元警官の海斗は、痛みから逃れるように頭を床に打ち付け、主婦の美月はその場で嘔吐していた。
だが、何より恐ろしいのはこれだ。俺が感じている痛みは、朱里の悲鳴よりも遥かに凄まじい。手首のブレスレットが、禍々《まがまが》しい赤に染まっている。
『共鳴終了』
スピーカーから、囁くような声が届く。
『影山蓮様。貴方は犬神朱里様の痛みの二〇〇%を体感しました。肥大した自己愛が自然な共感信号を遮断しているためです。貴方の肉体は、他者の苦痛を物理的に「学習」することを強制されます』
高級なスーツを冷たい汗で濡らし、俺は喘いだ。血に塗れて力なく横たわる朱里を睨みつける。人生で初めて、他者を道具ではなく……消し去るべき苦痛の根源として認識した。
部屋の隅に、あの大人しそうな女子大生――伊邪那美詩織が見えた。彼女は激しく泣きじゃくり、深いトラウマを負ったように見える。
だが、一瞬――ほんの一瞬だけ。彼女の澄んだ瞳が、あまりにも『虚無』な眼差しで俺を射抜いたような気がした。
「誰だ……」
残された気力で絞り出す。
「こんなことをしたのは、誰なんだ……!」
スクリーンが切り替わる。俺の過去の写真が次々《つぎつぎ》と映し出された。貧困層の居住区を破壊した長野のインフラ事業。私腹を肥やすために資材費を削った結果、土砂に埋もれた遺体たち。
『正義に声は不要です、政治家先生』
文字が画面に踊る。
『正義に必要なのは、対価としての痛みだけだ』
第一回投票が始まろうとしていた。
直感した。すぐさまこの場の人間を操らなければ、次に富士の麓で生きたまま解体されるのは、この俺だ。