第十三話:影山 蓮
その噴射音は最初、盲目の朱里の啜り泣きに消されるほど静かなものだった。しかし、鼻を突く鋭い苦いアーモンドの臭いが漂い始める。シアン化合物だ。
「ガスだ……」私の声が詰まる。「この部屋にガスを流し始めたぞ!」
壁の巨大なスクリーンが血のような赤に染まった。デジタル時計が現われ、百八十秒のカウントダウンを刻み始める。その下には、それぞれのペアの前に二つの大きな投票パネルが点灯した。
『最終投票:囚人のジレンマ』
紗理の声が響く。今や歪みのない、あまりにも甘く、しかし致命的な声だ。
「各ペアには一つずつ『裏切り』のボタンがあります。二人とも沈黙を守れば、三分後にこのガスを吸って二人とも死にます。もし片方だけがボタンを押せば、その者には酸素マスクが与えられ、出口が開くでしょう。……ただし、相方には即座に十倍の濃度のガスが注入されます。二人ともボタンを押した場合は、二人とも酸素なしで絶命します」
私は橋姫美月を見た。この女はまだ私の手を握っているが、その瞳には……もはや私への『崇拝』など欠片もなかった。彼女は自分の前にあるボタンを見つめている。
「美月さん……僕らなら乗り越えられる」私は崩れかけたカリスマの残滓を絞り出し、囁いた。「そのボタンを押さないでくれ。他に出口があるはずだ」
「他の出口?」美月は短く笑った。その声はガラスが砕ける音のようだった。「蓮さん、貴方、自分の手の震えさえ止められないじゃない。私が瞬きした隙に、一番にボタンを押すのは貴方でしょう?」
冷たい汗が流れる。彼女の言う通りだ。私の指は既にボタンを押したくて疼いていた。
視界の端では、より純粋な狂気が繰り広げられていた。同じく盲目の阿久津慎が投票台を手探りで探している。朱里は彼を固く抱きしめていたが、もう片方の手は慎のボタンに手を伸ばそうと蠢まっている。
「慎……私を生き残らせて」朱里が狂おしく乞う。「愛してるって言ったじゃない! 証明してよ!」
「愛してるよ、朱里……でも、僕の腕の中で君が死ぬところが見たいんだ!」慎は朱里の手を振り払おうと唸る。暗闇の中、一つの生存ボタンを巡って、二人の盲人が床で取っ組み合い、互いの首を絞め合っている。
残り百二十秒。
肺の奥が熱くなり始めた。ガスの濃度が上がっている。角の方では江戸医師が立ち、軽蔑の眼差しで我々《われわれ》を見守っていた。彼にペアはいない。ただ自分の死を待つ観察者か、あるいは紗理が自分をそう簡単には死なせないと確信しているのか。
「蓮さん」美月が顔を近づけてきた。彼女の吐き出す息から、毒の臭いが現実味を帯びて迫る。「何が一番滑稽か分かる? 私の夫も、コーヒーを不凍液に替える前に、こうやって命乞いをしたわ。貴方たち男って……死が訪れるその瞬間まで、自分が支配者だと思い込んでいるのね」
彼女の手が電光石火の速さでボタンへと動いた。
「させるか!」私は彼女に飛びかかった。
我々《われわれ》は床を転げ回り、互いの顔を掻き毟り、殴り合った。もはや政治的なイメージなどどうでもいい。私はただ呼吸を欲する獣だった。彼女の体を組み伏せ、その細い首を両手で絞め上げる。
「死ね、このアマ! 生き残るのは私だ! この国には私が必要なんだ!」狂ったように叫ぶ。
残り六十秒。
視界の端で、元警官の海斗が、怯える振りをするしおり(紗理)を抱きしめたまま静かに座っているのが見えた。海斗は何のボタンも押していない。彼は諦めたのだ。贖罪として、ガスが肺を満たすのを受け入れている。自分が抱きしめている少女こそが、ガスの栓を回している悪魔だとも知らずに。
残り三十秒。
「蓮……いいわ……」突如、美月が体の力を抜いた。彼女は微笑んだ。あまりにも恐ろしい笑みだった。「押しなさい。そして、自分が最も吐き気がするほど卑劣な人殺しだという記憶を抱いて生きていきなさい」
私に迷いはなかった。ボタンに手を伸ばす。
――カチリ。
パネルのライトが緑に変わった。天井から酸素《酸素》マスクが私の目の前に落ちてくる。私は即座にそれを装着し、貪るように新鮮な空気を吸い込んだ。
しかし、美月に目を向けると、彼女は悲鳴を上げていなかった。それどころか、彼女は爪の間から小さな針を取り出し、マスクを抑えている私の腕に突き刺したのだ。
「私が死ぬなら……貴方も無傷では出さないわよ、おじ様」彼女が囁き、その直後、十倍のガスによって彼女の体が激しく痙攣した。
出口の重い扉が僅かに開いた。私は残された力を振り絞り、青黒く変色した美月の死体を後にした。だが、出口の敷居を越えた瞬間、そこに立ちはだかる紗理の姿が見えた。彼女は小さなリモコンを手に持っていた。
「おめでとう、政治家先生」紗理は私の血の滲む指を踏みつけながら言った。「貴方の勝ちよ。でも一つ忘れているわ。……外は今、富士の猛吹雪が吹き荒れている。そして貴方の体には、今しがた美月さんの麻痺毒が回り始めたところ。氷点下十度の世界で、足も動かせずにあとどれくらい持つかしら?」
彼女は重厚な鉄の扉を凄まじい轟音とともに閉めた。新たなる死の淵で、私は凍てつく闇の中に取り残された。




