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エピローグ

その噴射ふんしゃおん最初さいしょ盲目もうもく朱里あかりすすきにされるほどしずかなものだった。しかし、はなするどにがいアーモンドのにおいがただよはじめる。シアン化合物かごうぶつだ。


「ガスだ……」わたしこえまる。「この部屋へやにガスをながはじめたぞ!」


 かべ巨大きょだいなスクリーンがのようなあかまった。デジタル時計どけいあらわれ、百八十ひゃくはちじゅうびょうのカウントダウンをきざはじめる。そのしたには、それぞれのペアのまえふたつの大きな投票とうひょうパネルが点灯てんとうした。


最終さいしゅう投票とうひょう囚人しゅうじんのジレンマ』

 紗理さりこえひびく。いまゆがみのない、あまりにもあまく、しかし致命ちめい的なこえだ。


かくペアにはひとつずつ『裏切り』のボタンがあります。二人ふたりとも沈黙ちんもくまもれば、三分さんぷんにこのガスをって二人ふたりともにます。もし片方かたほうだけがボタンをせば、そのものには酸素さんそマスクがあたえられ、出口でぐちくでしょう。……ただし、相方パートナーには即座そくざじゅうばい濃度のうどのガスが注入ちゅうにゅうされます。二人ふたりともボタンをしたあいは、二人ふたりとも酸素さんそなしで絶命ぜつめいします」


 わたし橋姫はしひめ美月みつきた。このおんなはまだわたしにぎっているが、そのひとみには……もはやわたしへの『崇拝すうはい』など欠片かけらもなかった。彼女かのじょ自分じぶんまえにあるボタンを見つめている。


美月みつきさん……ぼくらなら乗りえられる」わたしくずれかけたカリスマの残滓ざんししぼし、ささやいた。「そのボタンをさないでくれ。ほか出口でぐちがあるはずだ」


ほか出口でぐち?」美月みつきみじかわらった。そのこえはガラスがくだけるおとのようだった。「れんさん、貴方あなた自分じぶんふるえさえめられないじゃない。わたしまばたきしたすきに、一番いちばんにボタンをすのは貴方あなたでしょう?」


 つめたいあせながれる。彼女かのじょとおりだ。わたしゆびは既にボタンをしたくてうずいていた。


 視界しかいはしでは、より純粋じゅんすい狂気きょうきひろげられていた。おなじく盲目もうもく阿久津あくましん投票とうひょうだい手探てさぐりでさがしている。朱里あかりかれかたきしめていたが、もう片方かたほうしんのボタンにばそうとうずくまっている。


しん……わたしを生きのこらせて」朱里あかりくるおしくう。「あいしてるってったじゃない! 証明しょうめいしてよ!」


あいしてるよ、朱里あかり……でも、ぼくうでなかきみぬところがたいんだ!」しん朱里あかりを振りはらおうとうなる。暗闇くらやみなかひとつの生存せいぞんボタンをめぐって、ふた人の盲人もうじんゆかで取っ組みい、たがいのくびしぼっている。


 残り百二十ひゃくにじゅうびょう


 はいおくあつくなりはじめた。ガスの濃度のうどが上がっている。かどほうでは江戸えど医師いしが立ち、軽蔑けいべつの眼差しで我々《われわれ》を見守みまもっていた。かれにペアはいない。ただ自分じぶん観察かんさつしゃか、あるいは紗理さり自分じぶんをそう簡単かんたんにはなせないと確信かくしんしているのか。


れんさん」美月みつきかおを近づけてきた。彼女かのじょき出すいきから、どくにおいが現実げんじつびてせまる。「なに一番いちばん滑稽こっけいかる? わたしおっとも、コーヒーを不凍液ふとうえきえるまえに、こうやって命乞いのちごいをしたわ。貴方あなたたちおとこって……おとずれるその瞬間しゅんかんまで、自分じぶん支配しはいしゃだとおもんでいるのね」


 彼女かのじょ電光石火でんこうせっかはやさでボタンへとうごいた。


「させるか!」わたし彼女かのじょに飛びかかった。


 我々《われわれ》はゆかころげ回り、たがいのかおむしり、なぐった。もはや政治せいじてきなイメージなどどうでもいい。わたしはただ呼吸こきゅうほっするけだものだった。彼女かのじょからだを組みせ、そのほそくび両手りょうてしぼめ上げる。


ね、このアマ! 生きのこるのはわたしだ! このくににはわたし必要ひつようなんだ!」くるったようにさけぶ。


 残り六十ろくじゅうびょう


 視界しかいはしで、もと警官けいかん海斗かいとが、おびえるりをするしおり(紗理さり)をきしめたまましずかにすわっているのがえた。海斗かいとなにのボタンもしていない。かれあきらめたのだ。贖罪しょくざいとして、ガスがはいたすのを受けれている。自分じぶんきしめている少女しょうじょこそが、ガスのせんまわしている悪魔あくまだともらずに。


 残り三十さんじゅうびょう


れん……いいわ……」突如とつじょ美月みつきからだの力をいた。彼女かのじょ微笑ほほえんだ。あまりにもおそろしい笑みだった。「押しなさい。そして、自分じぶんもっとき気がするほど卑劣ひれつ人殺ひとごろしだという記憶きおくいだいて生きていきなさい」


 わたしまよいはなかった。ボタンにばす。


――カチリ。


 パネルのライトがみどりに変わった。天井てんじょうから酸素《酸素》マスクがわたしの目のまえに落ちてくる。わたし即座そくざにそれを装着そうちゃくし、むさぼるように新鮮しんせん空気くうきい込んだ。


 しかし、美月みつきけると、彼女かのじょ悲鳴ひめいを上げていなかった。それどころか、彼女かのじょつめあいだからちいさなはりを取り出し、マスクをおさえているわたしうでに突きしたのだ。


わたしぬなら……貴方あなた無傷むきずではさないわよ、おじさま彼女かのじょささやき、その直後ちょくごじゅうばいのガスによって彼女かのじょからだはげしく痙攣けいれんした。


出口でぐちおもとびらわずかにいた。わたしのこされた力を振りしぼり、青黒あおぐろ変色へんしょくした美月みつき死体したいを後にした。だが、出口でぐち敷居しきいえた瞬間しゅんかん、そこに立ちはだかる紗理さり姿すがたえた。彼女かのじょちいさなリモコンを手にっていた。


「おめでとう、政治家せいじか先生せんせい紗理さりわたしにじゆびみつけながらった。「貴方あなたの勝ちよ。でもひとわすれているわ。……そといま富士ふじ猛吹雪もうふぶきが吹きれている。そして貴方あなたからだには、いましがた美月みつきさんの麻痺まひどくまわはじめたところ。氷点下ひょうてんかじゅう世界せかいで、あしうごかせずにあとどれくらいつかしら?」


 彼女かのじょ重厚じゅうこうてつとびらを凄まじい轟音ごうおんとともにめた。あらたなるふちで、わたしてつくやみなかに取りのこされた。



 最初さいしょ爆発ばくはつおんが、地下ちかごうのコンクリートの基礎きそつたわってきた。その振動しんどうわたしの骨のずいまでひびいた。うすれゆくシアンガスの残滓ざんしに、灰色はいいろけむりざりはじめる。ゆかには、朱里あかりしん遺体いたい永遠えいえん静寂せいじゃくなかかさなりっていた。――憎悪ぞうお抱擁ほうようなか絶命ぜつめいした、ふた人のもうもく恋人こいびとたち。


 わたし椅子いすすわったまま、医学いがくセミナーの開始かいしつかのようにしずかにたたずんでいた。こえせないが、視線しせんはゆっくりと鋼鉄こうてつとびらそそがれていた。


 紗理さりはいってきた。彼女かのじょの足取りはかるやかで、まるでのないつみおもさを背負せおっているとはおもえないほどだった。彼女かのじょにはもうリモコンも武器ぶきもない。ただ、彼女かのじょ自身じしんだけがそこにいた。


しずかね、江戸えどにいちゃん」紗理さりわたしの返りれた手術しゅじゅつだいこしろした。「れん罵声ばせい朱里あかりの泣きごえもないと、ここは……いえみたい。おとう様があのまわしい神経しんけい執着しゅうちゃくしなければ、わたしたちがにしていたはずのいえ


 わたし白衣はくいのポケットにのこされていた最後さいごのペンとかみり出した。おだやかな動作どうさで、こうしるした。

自分じぶんが何もかんじられないことを証明しょうめいするために、すべてをこわしたのか?』


 紗理さりはその文字もじを読み、みじかわらった。その笑いごえは、あまりにもうつろにひびいた。


「いいえ、おにいちゃん。すべてをこわしたのは、貴方あなたたちこそが何も『かんじていない』ことを証明しょうめいするためよ」紗理さりを乗り出し、わたしかおのすぐすうインチさきまでかおを近づけた。「貴方あなたたちは肉体にくたいいたみはかんじるけれど、他者たしゃこころいたみは無視むししてきた。わたし肉体にくたいいたみはかんじないけれど、医学いがく廃棄はいきぶつのように捨てられた絶望ぜつぼうを、生涯しょうがいとおしてかんつづけてきたのよ」


 再び爆発ばくはつ部屋へやらした。天井てんじょう亀裂きれつが走り、白いちり人工じんこうゆきのように我々《われわれ》の頭上ずじょうい落ちる。


「ここを爆破ばくはするわ、江戸えどにいちゃん」紗理さりささやいた。「犬神いぬがみはここで終わらせるべきよ。貴方あなたも、わたしも、そしてこのすべての研究けんきゅうデータも。わたしたちは、進化しんか過程かていが生み出した『間違い』の残骸ざんがいなの」


 わたし紗理さりひとみを見つめた。はじめて、彼女かのじょひと人の患者かんじゃでも、実験じっけんたいでもなく、ひと人の『いもうと』としてた。わたしはもう一行いちぎょう書きした。

『なぜげない? 貴方あなたはもう自由じゆうだ』


 紗理さり絶句ぜっくした。彼女かのじょひとみ一瞬いっしゅんだけれた。――おそらく、彼女かのじょ生涯しょうがいゆいいつせた情緒じょうちょてき反応はんのうだった。

自由じゆう影山かげやまれん犬神いぬがみ朱里あかりのような人間にんげん蔓延はびこ世界せかいへ? いいえ、おにいちゃん。貴方あなたたちの世界せかい人間にんげんとしてきるより、わたし自分じぶんつくり上げたちいさな地獄じごくかみでいるほうがいいわ」


紗理さりは、ちち形見かたみである銀色ぎんいろちいさなライターを取り出した。ともす。ちいさなほのおが、崩壊ほうかいし始めた地下ちかごうやみなからめいた。


「さよなら、天才てンさいのおにいちゃん」紗理さりわたしひたいやさしくくちづけた。「わたし貴方あなた世界せかい解体かいたいしているあいだ唯一ゆいいつ悲鳴ひめいを上げなかった貴方あなた感謝かんしゃするわ」


 紗理さりは立ち上がり、富士山ふじさん地上ちじょうへとつながる非常ひじょうようエレベーターの通路つうろへとあゆった。二度にどと振り返ることはなかった。


 わたし椅子いすあずけ、目をじた。機械きかいしつからひろがるつぎ爆発ばくはつねつを感じる。凄まじい激痛げきつうが、最後さいご挨拶あいさつかわすかのようにわたし神経しんけいおとずれる。だが、不思議ふしぎなことに、今回こんばんはそれを医学いがくてき分析ぶんせきする必要ひつようを感じなかった。


 かつてわたしらした長野ながのみねでも、この富士ふじふもとでも、上空じょうくうではゆきすべてをおおくすだろう。ソシオパス(社会しゃかい病質びょうしつしゃ)も、裏切り《うらぎり》ものも、毒殺どくさつも、その足跡あしあとっていく。


 時限じげん爆弾ばくだんはりがゼロにたっした。


 わたし世界せかい純白じゅんぱくひかりなかはじけた。もはや『ミラーペイン』はない。共鳴きょうめいもない。そこには、わたしがメスのこう側にずっと探しもとめていた、静寂せいじゃくだけがあった。

 


エピローグ :


ふゆのコートをまとったひと人の少女しょうじょが、青木ヶあおきがはら樹海じゅかいふちに立っていた。彼女かのじょ背後はいごでは、そこからくろけむりが立ちのぼっていたが、それもすぐに吹雪ふぶきによってされていく。彼女かのじょこわれた金属きんぞくのブレスレットを谷底たにぞこへと投げ捨てると、とおくでまたたまちあかりかってあゆはじめた。


 教訓きょうくんいまもなおひびわたっている。――「共感きょうかん」を強制きょうせいすることはできない。それは、より組織そしきてきな、あたらしいかたちの「憎悪ぞうお」へと変質へんしつするだけなのだ。


——完——


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