第十話:伊邪那美 しおり
鳴り響くシステムアラームの声と、美月の策によって麻痺した海斗の姿は、本来なら私を恐怖させるはずのものだった。だが、私の脳内では、これは私が書き上げた交響曲における、ほんの小さなバグ(欠陥)に過ぎなかった。
美月は安っぽい勝利感を湛えて私を見つめている。私の「筋肉」を封じれば、私が崩壊するとでも思ったのか。彼女は気づいていない。真のソシオパス(社会病質者)に筋肉など必要ないことを。我々《われわれ》が必要なのは、敵の心に宿る「疑念」だけだ。
私は背筋を伸ばして立った。啜り泣きは即座に止まった。脆そうに見せていた顔は一転して冷たくなり、表情筋は完全に脱力して無へと至る。――サイコパス的凝視(サイコパス・ステア)。
「お芝居はもう十分よ、橋姫夫人」
私の声が響き渡る。一点の曇りもなく、震えすら感じさせない鋭い声だ。
部屋全体が凍りついた。物言わぬ医師、江戸でさえ、目を細めて私を注視した。
「貴方たちがなぜここにいるか、分かっているの?」私は天井で蠢くセンサー針を無視して、ゆっくりと投票の柱の周囲を歩いた。「貴方たちが『病んでいる』からじゃないわ。自分たちが捕まらないほど賢いと過信したからよ。美月さん、貴方の毒が秘密だとでも思っているの? 三年間、旦那さんの紅茶に三酸化ヒ素を混ぜ続けたのは、単に彼の香りに飽きたからでしょう。貴方は偉大な殺人者なんかじゃない。物理的な対立を恐れる臆病者に過ぎないわ」
美月の顔から血の気が引いた。手に持ったコップが震えている。
私は蹲る影山蓮へと視線を移した。「そして貴方、蓮さん。カリスマ政治家? 貴方は脆弱な自己愛《愛》(フラジャイル・ナルシシズム)の塊よ。他者からの賞賛なしには、貴方は何者でもない。美月さんに近づいたのは、彼女を守るためじゃない。支配欲を潤すために、自分より格下の人間を求めただけ。でも見て……今、貴方はただの主婦の前で震えているわ」
「き、貴様……一体、何者だ!?」蓮が叫んだ。
私は答えなかった。天井にあるセンサーカメラを真っ直ぐに見据えた。
「システム」私は絶対的な権威を込めて命じた。「この強制再校正を停止しなさい。患者番号七番は故障してなどいない。単なる化学的麻痺よ。この無作為な処置を続ければ、貴方が収集する共感データは偏向し、無効になる。貴方が見たいのは無意味な虐殺ではなく、純粋な『悔悟』でしょう?」
奇跡的に、センサー針の動きが止まった。点滅していた赤いライトは、静止した黄色へと戻った。システムは私の論理を「聞き入れた」のだ。
私は再び全員を見回した。これこそがダーク・サイコロジーにおけるソーシャル・エンジニアリング。私はこの場の「機械の神」と対話できる唯一の存在へと、自分を位置づけたのだ。
「聞きなさい」私は囁いた。だが、その声は蛇の毒のように彼らの鼓膜を這い回る。「海斗が動けないのは美月が投票を支配したいから。朱里が盲目なのは慎が独占したいから。江戸が物言わぬのは貴方たちが真実を恐れたからよ。私が何もしなくても、貴方たちは勝手に壊し合っている。でも今、この機械の牙から貴方たちを守れるのは私だけよ」
私は美月に近づき、髪を撫でるように手を伸ばした。しかし、指先は彼女の目の直前で止まった。
「美月さん。もしシステムが貴方の再の妨害を検知したら、私は貴方を陥れる必要すらないわ。ただ、障害を持つ貴方の子供に、手を焼かせないためと称して毎日与えていた『服用量』について、システムに教えてあげるだけでいい。その話も、今ここでしましょうか?」
美月は崩れ落ちた。彼女は激しく喘ぎ、本物のパニック発作に襲われ始めた。高度なガスライティングの完遂だ。彼女の最も暗い秘密を絶対的な事実として告げることで、自分の安全すら疑わせる。
「貴方たちは皆、駒なのよ」私は愛らしく微笑んだ。盲目の朱里でさえも角で震え上がらせるような笑みだ。「さて、正しく投票を行いましょう。先程の眼球摘出は、一人分だけでは不十分だったわ。この部屋を『公平』にするためには、もう一対の眼球が必要よ」
私は慎を指差した。コードを書き換えられるからと、自分が最も賢いと自惚れていたハッカーを。
「慎くん」私は囁いた。「朱里ちゃんが自分だけを見るように、彼女の目を奪ったわね。なら、貴方も自分の目を捧げるのがロマンチックじゃない? 二人で永遠に同じ闇の中で生きていくのよ。それこそが、この場所が求める『共感』でしょう?」
「い、嫌だ……僕は……僕がこのシステムを支配しているんだ!」慎が半乱狂で叫ぶ。
「システムに怯えるハッカーなんて不要よ」私は静かに柱のボタンを押した。「必要なのは殉教者だわ。海斗おじさん、もし聞こえているなら……ボタンを押して。貴方が掲げる『正義』のために」
アドレナリンによって運動機能が僅かに回復し始めた海斗が、重い腕を動かした。彼は残された怒りを込めて、慎の名前のボタンを押し込んだ。
スクリーンが点灯する。慎の顔写真が表示され、両目にターゲットマークが重なった。
これこそが私の力。筋肉も外科器具も必要ない。ただ、貴方たちを罪悪感に陥れる何かを知っていればいい。そして、死ぬまでその罪を喰らわせ続けてあげる。




