第七話
数日にわたって降り続ける雨の中。
ベアトリーチェは、一人王都に帰り着いた。
ひと月ぶりに戻ってきた子爵家のタウンハウスは、灯が消えたように静かだった。
数少なくなった使用人に湯を沸かしてもらって、ゆっくりと身体を温める。
いくら温まっても、身体の震えはなかなか止まらなかった。
その夜、ベアトリーチェは夢を見た。
幼い頃、領地から離れて、家族で旅行に行ったときの夢。
山を越え、森を抜け、大きな湖へと向かう途中の街道――その整備が行き届いておらず、ベアトリーチェ、兄のレオン、そして両親が乗った馬車が、泥濘に車輪を取られてしまった。
車体を持ち上げて道に車輪を戻すため、ベアトリーチェたちは馬車の外に出る。
後続の馬車に乗っていた使用人たちが車体を持ち上げようとしていたところに、不吉な音が鳴り響いた。
ひゅうう、と誰かが指笛を鳴らすような音。
その音と同時に現れたのは、人相の悪い男たち……野盗の集団だった。
主の一家を守ろうと、二名の護衛も使用人たちも剣を取り戦うが、野盗の人数はこちらの倍以上。
護衛たちが次々と倒れていく中、家族だけでも守ろうと、父が剣を手に馬車の外へと飛び出した。
同時に、ベアトリーチェも母の腕からするりと抜け出し、馬車の外へ出る。
ベアトリーチェは地面に落ちていた剣を拾うと、果敢にも襲撃者たちにその剣先を向けた。
父と兄も貴族の必須技能として、基本的な剣術は身につけていた。
そしてベアトリーチェも、父が戯れに教えた剣術に才能を開花させ、教師を雇って兄のレオンと共に本格的に剣を教わっていたのである。
だから、自分も少しは戦える――そう思っていたベアトリーチェだったが、身体の大きい野盗たちには、まるっきり歯が立たなかった。
ベアトリーチェを止めようと追って馬車から出てきたレオンは、野盗の一人に殴られ気絶。さらに母が慌ててレオンを庇い、その背に刃を受けてしまった。
母が斬られるところを目の当たりにしたベアトリーチェは動揺し、隙ができてしまう。そこに別の野盗が、すかさず得物を振りかぶった。
ベアトリーチェを間一髪救ったのは父だった。しかし父も脇腹に刃傷を受け、ベアトリーチェの目の前でごふりと血を吐いて倒れて――。
気がついた時には、ベアトリーチェとレオンは、使用人が上げた狼煙に気づいてやってきた、街道警備の騎士たちに保護されていた。
しかし。
その中に、父と母の姿はなかった。
ベアトリーチェは、泣いた。
涙が涸れるぐらい、身体中の水分が失われてしまうぐらい、泣いた。
痺れの奥に剣の感触がいまだ残る柔らかな手のひらを、爪が食い込むほどに握りしめて。
そして。
ベアトリーチェは、今よりもっと強くなることを――大切な人を守れるように、誰よりも強くなることを誓った。
*
ベアトリーチェは、夜明けよりも大分前に目を覚ました。
夜着が汗で濡れている。身体は重だるく、目の奥が熱い。
頭も喉も、鈍く痛む。雨に濡れたせいか、熱を出してしまったらしい。
「……弱いな、私は」
剣術大会で好成績を残しても、王族や騎士団長に目を掛けてもらっても、市井で人気の騎士になっても――中身はいまだ、大切なものを失うことを恐れて震える子供だ。
「世の中には、剣では守れぬものが、いくらでもあるのだな」
このままでは、子爵領は確実に転落していく。
兄や皆にばかり多大な負担を負わせておいて、ベアトリーチェが何もしない訳にはいかない。
「……もう、私には、これしか思いつかない」
ベアトリーチェは、自分の机の上に堆く積まれた釣書の山に目をやった。
――家のための婚姻。
貴族令嬢らしい教育は最低限しか受けてこなかったが、女性として生まれたからには、ベアトリーチェにも、婚姻によって家を救う方法が残されていた。
だが、それを選択してしまえば、ベアトリーチェはもう騎士として働くことは叶わなくなるだろう。
ベアトリーチェは、テーブルの上のランプに火を入れ、震える指先で釣書の山を捲っていく。
頭痛のせいでまともに情報を拾うことができないが、パラパラと眺める限り、格上の家からの縁談も多数届いていた。
半分ほど眺めたところで、ふう、と長く重い息を吐き出す。
「選別は、熱が下がってから……それより、一度騎士団に行かないと……」
ベアトリーチェは、壁に立てかけてある愛剣に目を遣る。
剣の柄頭から紐で下げられた、馬蹄の形の小さなお守りが、何かを主張するようにゆらゆらと揺れていた。
「ふぅ……」
熱っぽい息を吐き出してそっと目を閉じると、脳裏に、ロディの優美な笑顔が映し出される。
条件次第ではあるが、もしも結婚が決まったら、騎士団はおそらく辞めざるを得ないだろう。
「新人教育、中途半端になってしまったな……」
ロディの教育が途中で終わってしまうのは申し訳ないが、彼は優秀な騎士だ。
今後は誰かが新しい仕事を彼に教え、ゆくゆくはベアトリーチェに代わって、皆に愛される騎士になることだろう。
ベアトリーチェはのろのろと椅子から立ち上がる。
自分で湯を沸かして布で身体を清め、騎士服に着替えると、日が昇り始める前に屋敷を出たのだった。
*
夜と朝のあいだ、空が薄明くなり始める灰色の時間。
ベアトリーチェは騎士団の詰め所に到着した。
そっと入り口の扉を押し開けると、夜勤の騎士たちに混じって、騎士団長のアランの姿があった。
「おはようございます」
「ん? もうそんな時間か――って、ベア? 帰ってきてたのか」
「はい。夜分に戻って参りました」
ベアトリーチェの方へ歩み寄ってきたアランにそう答えたが、何故か、アランの表情はみるみる険しくなっていく。
「……おい。外に出ろ」
「え――あの、私、何か」
「いいから」
そう言ってアランに強引に背中を押され、ベアトリーチェは詰め所から追い出されてしまった。
詰め所の外は、相も変わらず灰色の世界だ。
もう少ししたら、空の色も建物の色も白みを帯びて、鮮やかに色づいていくのだろうか。
そんな中、アランの瞳だけが燃えるように金色の輝きを放っている。
――そういえばロディの琥珀色の瞳にも、こんな風に金色の光が混じることがあった。
対峙しているのはアランなのに、何故かそんな風に思考が飛んでしまうほど、頭の奥がぼんやりと痛んで働かない。
「おい、ベア。どういうつもりだ」
「ええと、おっしゃっている意味が……」
「お前、熱あるだろ。どうして来た」
ベアトリーチェは、アランの言葉に押し黙った。
「体調管理は騎士の基本。具合が悪い時に戦闘になったら、大きな事故につながる。お前もそれはよく分かってんだろ?」
「……はい」
「…………はぁ、分かってるよ。それでもここに来たってことは、お前さん……何かあるんだろ?」
アランの言葉に、ベアトリーチェはぐっと息を詰めた。
その反応を見て、アランはやれやれと肩をすくめる。
「あれか。子爵領の問題か。俺も公爵家を通して、軽くだが状況は把握している。……お前さんのことだから、早まっておかしなことでも考えてるんじゃないか? 例えば、そうだな……婚姻とか」
「……っ。流石のご慧眼、感服いたします」
この騎士団長は、本当に何でもお見通しらしい。
ベアトリーチェの状況を知っていたからこそ、他の騎士のいる詰め所から離れたのだろう。
「それでしたら、もうお分かりでしょう。私はもう騎士を続けることが出来ません。引き継ぎを終えたら、退団いたします。それから……新人教育の件……」
「――ロディのことなら、教育はもう必要ない。あいつなら、もうここには来ないからな」
「――え?」
アランの言葉に、ベアトリーチェは、雷に撃たれたような衝撃を受けた。
――ロディが、もうここには来ない。
それがどういう意味か、ぼんやりと靄がかったベアトリーチェの思考では、全くもって理解できなかった。
「……どういう、ことですか? ロディは、騎士団を辞めたのですか?」
アランはベアトリーチェの質問に答えず、目をつぶって、ふんと鼻息を吐いた。
「ロディのことはともかく、お前が騎士を辞めるのは、俺は反対だ」
アランは瞼を上げ、鋭い視線でベアトリーチェを見据える。
王家に近しい血に現れるという金色の瞳からは、ベアトリーチェを本気で案じていることが伝わってきた。
「いいか、女騎士ベアトリーチェの損失は、騎士団にとっても王国にとっても、決して望ましいことではない。そして、クルス子爵家を救うには、資金や人的資源の調達以外にも方法がある。騎士にしかできない方法がな」
「騎士にしかできない方法……?」
「それから、今のお前さんには矛盾している言葉に感じるだろうが、俺は結婚自体を止めるつもりはねえ。――いいか、最善に至る道は一つだ。よく考えろよ。で、今日は帰って寝ろ。たっぷり寝て、メシを食って、とにかく心身の状態を元に戻すのが先決だ」
アランに「さあ、分かったら帰れ」と促され、ベアトリーチェは帰路についたのだった。
色々なことで頭の中がぐるぐるして、なんだか気持ちが悪い。
確かに、睡眠と休養が必要かもしれない。
昇り来る朝日はやけに明るくて、目を刺すようだ。
時折金色がちらつく、琥珀色の輝きが何故だかやけに恋しい。
「もう……会えないのだな」
そう口に出せば、目の奥の熱が、痛みさえも持ち始める。
「……守れない約束なら、最初からするなよ」
ベアトリーチェは、ずず、と鼻を啜って、子爵家への道をゆっくり戻ったのだった。
*
モヤモヤとした気持ちを抱えたままタウンハウスへ戻り、一度睡眠を取ったベアトリーチェだったが、夜になって速達で送られてきた手紙を見て、目を丸くすることとなった。
ベアトリーチェのもとに届いたのは、今朝方も散々眺めていたもの。この国で釣書を送る際に、一般的に使用されている形式の封書だ。
「これは……釣書? この宛名書きの筆跡はまさか……、だが、この封蝋は」
美しく整った、読みやすい筆致で書かれた宛名。
それは、ベアトリーチェが子爵領にいる間に受け取った、ロディからの手紙と一致するものだ。
だが――そこに捺されていたのは、王国で一番王族に近い家の家紋。
差出人は記されていないが、それはヴァレンタイン公爵家の封蝋に間違いなかった。
「ヴァレンタイン公爵家からの……縁談? まさか、な」
ベアトリーチェは、はやる鼓動に指先を震わせながら、手紙の封をゆっくりと開いていった。




