第六話
被害者の男性を、ロディに任せたあと。
「……ん?」
ベアトリーチェがクルス子爵家のタウンハウスに戻ると、玄関扉を開けた瞬間に違和感を覚えた。
いつもと違って屋敷全体がバタついている。
「何かあったのか?」
ベアトリーチェは眉をひそめて、外套を預かろうと駆け寄ってきた使用人に尋ねた。
「は、はい。それが――」
「ああ、ビーチェ、戻ったんだね。丁度良かった、君も一緒に行くかい?」
「え?」
使用人が口を開こうとしたところに、タイミング良くベアトリーチェの兄レオンが急ぎ足で現れた。レオンは遠出用の服を着ており、執事が後ろから外套と帽子を持って足早に追いかけてくる。
「行くって、どこへですか? 何があったのです?」
「領地から連絡があってね。お祖父様が危篤という連絡を受けた」
「お祖父様が……?」
両親が突然亡くなり、若くして子爵家当主の座に就かざるを得なかったレオンをずっと支えてきたのが、領地で静養していたベアトリーチェたちの祖父だった。
祖父が後見人となって子爵領を預かってくれていたからこそ、ベアトリーチェたち兄妹は王都に残り、レオンは貴族学園に、ベアトリーチェは騎士学校に通って学びを得ることができたのだ。
「私はこれから馬車で出るが、ビーチェはどうする?」
「もちろん、ご一緒します。――あ、ですが、その前に騎士団に一筆書かねばなりません」
「それなら問題ないよ」
レオンが執事に目配せをすると、執事は恭しく頷く。
「お二方をお見送りいたしましたら、すぐに手配いたします」
執事はレオンに帽子を渡し、代わりに懐から騎士団宛ての手紙を取り出しベアトリーチェに見せた。
どうやら、気の利く兄が、ベアトリーチェの代わりに手紙を用意しておいてくれたらしい。
「ありがとうございます。では、剣だけ取って参ります」
ベアトリーチェは急ぎ自室に向かい、壁に立てかけてあった剣を持つと、急ぎ馬車へと乗り込んだ。
「兄様、お待たせしました」
「うん。じゃあ、出発しよう」
レオンが御者に合図をすると、馬車はすぐに動き始めた。
「ビーチェ。護衛の騎士もいるんだし、今は昔と違って街道も安全だから、剣は要らないんじゃないか?」
「いいえ。不測の事態が起きることもあります。私は、もう二度と、私の力不足で大切な人を死なせたくないのです」
「……ビーチェ……君は、まだ……」
レオンは哀しそうな瞳をベアトリーチェに向ける。ベアトリーチェの表情は固く引き締められたまま、揺るがない。
「兄様。今の私だったら――父様と母様を、救えたでしょうか」
ベアトリーチェは、座席に立てかけられている自身の愛剣をじっと見つめる。
グリップの革はベアトリーチェの手の形に馴染んですり減り、鞘の部分には数えきれぬほどの小さな傷が付いていた。
「……うん。きっとね」
答えなくても良いものを、レオンは優しい声色でそう言ってくれた。
ベアトリーチェは小さく自嘲し、握り込んでいた自分の手のひらを開いて眺める。
固くなった皮とマメの痕が残る手は、小刻みに震えていた。
*
途中で馬を替えながら、いくつかの夜を越えて、ベアトリーチェたちは子爵領へたどり着いた。
レオンの言った通り、以前に比べて街道は格段に安全になっていて、トラブルらしいトラブルは起こらなかった。
ベアトリーチェたちが到着した時、祖父の容態は比較的落ち着いていた。
起き上がることはできなかったが、意識は信じられないほど明瞭で、祖父はベアトリーチェたちとの再会を喜んだ。
穏やかに、懐かしむように三人で会話をして――その翌日、祖父は静かに息を引き取った。
ベアトリーチェとレオンは大切な祖父との別れを悲しみ、祈りを捧げ、しばらく子爵領にて喪に服することになった。
予定よりも長い滞在となってしまったため、ベアトリーチェは騎士団長のアラン宛に、改めて直筆の手紙を送った。
アランからの返事はなかったが、ベアトリーチェの状況を知ったらしいロディから、美しく整った文字の手紙が送られてきた。
『ビーチェさんがいなくて寂しいですが、騎士団のことは心配なさらず、ゆっくり見送って差し上げて下さい』
祖父の死を悼む言葉と、ベアトリーチェのことをいたわる言葉が丁寧に綴られていた。
さらに、手紙には剣の柄頭に取り付けられる小さなお守りが同封されていて、ベアトリーチェは久しぶりに、少しだけ微笑んだ。
一方、レオンは、悲しみに沈む間もないほど忙しそうにしていた。
もちろん、レオンも家令も祖父の仕事をきちんと把握してはいたものの、関係各所への連絡や引き継ぎに追われている。
領地に関する書類を検めたり、王都や関係者に宛てて何通も手紙をやり取りし、或いは直接確認に出向いたり。
さらに悪いことに、引き継ぎを進めていくにつれ、領地の資金繰りが少しずつ悪化していることも判明したのである。
ここ数年、祖父が弱ってきていたところを、何者かにつけ込まれていた可能性が高いのだとか。
日を追うごとに兄に疲れがたまっていく様子が、ベアトリーチェにも手に取るように分かった。
「兄様、少し休まれてはいかがですか? あまり眠れていないでしょう?」
「そんな訳にもいかないんだよ。お祖父様や父上が残していったものを、これからは私が一人で守らなくちゃならないんだから」
「兄様……」
レオンはベアトリーチェと同じ血を引くだけあって、一度決めたら必ずやり遂げようと思い詰める、頑固な性格をしている。
だが――このままでは、心労と睡眠不足で倒れてしまいかねない。
「あの、私に出来ることがあったら――」
「いい。これは私と家令と、執事たちの仕事だ。どうせ君には、領地のことは分からないだろう」
「……っ、はい……申し訳ございません」
レオンは、ベアトリーチェと目も合わせてくれない。ベアトリーチェは、厳しい言葉に、顔を俯かせた。
確かにレオンの言うとおり、貴族学園に通っていなかったベアトリーチェには、領地経営のことは何一つ分からないのだ。
ベアトリーチェが俯いていると、レオンはようやく、自分の言葉が妹を傷つけたことに気がついたらしい。
彼はベアトリーチェの表情を見て、ハッとしたように息を呑み、ばつの悪い顔で謝罪をした。
「……すまなかった。ビーチェは、喪が明けたらすぐに王都に戻りなさい。王都には、君にしか出来ない仕事が、たくさんあるんだろう? 君を待っている人だって、たくさんいるはずだよ」
「――、承知しました。仰せの通りにいたします」
ベアトリーチェは、凛とした声を作り、胸に手を当て深く腰を折った。淑女のカーテシーではなく、騎士の礼である。
「……ごめん」
レオンが再び謝罪する声を背中に受けながら、ベアトリーチェは執務室から出て行った。
喪が明けた日の早朝。
ベアトリーチェは、レオンと顔を合わせることなく、子爵領を出立したのだった。
「私は……結局、甘えていただけだったのだな」
今にも泣き出しそうな曇天の中。
馬車ではなく、一人で馬を駆りながら、ベアトリーチェは呟く。
「騎士になりたいからといって、領地の勉強や社交を疎かにして良い訳がなかったんだ」
チャンスはこれまで何度もあった。
――例えば、騎士学校ではなく貴族学園に通い、その中で剣術の授業を選択する形にしていれば。
そうすれば、多少は領地のことも経営のことも学べたし、社交界での顔も広くなっていたかもしれない。
友人の中から、兄の窮地を助けてくれようという人が現れていたかもしれない。
――例えば、元婚約者のカルロスにきちんと寄り添い、結婚していれば。
カルロスだって、貴族教育を受けてきた人間だ。
今この時、彼がレオンを支え、助けになってくれていたかもしれない。
――例えば、カルロスに婚約破棄されたあと、机に積まれた釣書の山をきちんと見ていれば。
その中に好条件で縁談に応じてくれた人がいたかもしれない。
豊かな資金や人脈が、レオンの助けになっていたかもしれない。
「だが……今、私に出来ることは何もない」
それらのチャンスを全てふいにしてきたのは、他でもない。ベアトリーチェ本人なのだ。
「――大切な人も守れなくて、何が騎士だ。私は……何のために……」
あまりの悔しさに、不甲斐なさに。
ベアトリーチェの視界には、薄い膜が張っていた。
「剣だけでは、兄様を助けられない。領地経営の補助……資金調達……、王都に戻る私に、何か出来ることがあるとしたら――」
ベアトリーチェは、腰に差した愛剣の柄に、そっと手を触れる。ロディが贈ってくれた馬蹄の形の小さなお守りが、優しく指先を掠めた。
じくじくと痛んでいた胸の奥が、さらにぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。
「覚悟を……決めないとな」
ぽつりぽつりと降り出した雨が、ベアトリーチェの頬を静かに濡らしていった。




