6 カレヴァのカリキュラム
初夏特有の爽やかな風が、葉陰を揺らしている。
屋敷の裏の林を渡っていく。
古高 柊生は、書き取りの羽ペンをインク壺に挿した。
「書き終わりましたか?」
尋ねてきたのは赤毛の短い巻き髪が特徴的なカレヴァ=レコラだ。
彼は、エンゲルブレクト=グランフェルト侯爵の要望を受け、柊生の語学をはじめとした基礎知識、及びマナーについての教育を担当している。
チューター(家庭教師)なのだ。
「はい。なんとか……」
「どれ、見てみましょう」
柊生の書き取った文字はあまりに文字なのか、ただいたずらにペンを走らせたものかわからないものだった。
「あれ? 書き物ってあまりしないのですか」
柊生は頭を掻いた。
「はい……」
(論文を書くとき、普通にパソコン使ってるからなあ。手書き。そもそもしないもんなあ)
だが、おそらく電気自体がないようなこの世界ではパソコンのことを言っても、何も伝わらないだろう。
「フフ。だけど、柊生さんは、筆記もうまくなれると思います」
数日が経ち、カレヴァの要点を絞った教え方で、少しずつ日常会話ができるようになってきてはいる。
それでも、難しい言葉はまだまだだ。
「それにしても、柊生さんの飲み込みもすごいですが、やっぱり、僕の教え方がいいんでしょうね」
「はいはい」
だが、それは確かだ。
日常会話すらままならなかったのに、今では簡単な言葉なら、聞き取れ、片言ながらも話せるようにはなってきたのだ。
(これが、本当の天才なんだろうな)
現地語を聞き、自分の言葉に瞬時に変換して、わかりやすいように伝え、自分でもその言語を刷り込んでいく。
「カレヴァ。俺に、グラインディー王立言語を教えてくれてありがとう」
「いいえ。柊生さんの学習意欲が本当に素晴らしいからね」
二人は、顔を見合わせて笑い合った。
「どうだい? 二人とも、どれくらい話せるようになった?」
と、そこへ侯爵、エンゲルブレクトが現れた。
金の髪がさらりと初夏の午後の風に揺れる。
「ええ。お互いにいい感じで学習できていると思います」
ピクリと面白そうにエンゲルブレクトの眉が動いた。
「ふむ。それはどんな感じかね」
『侯爵、これが日本語です』とカレヴァが少したどたどしい日本語を話す。
そして、
「エンゲル。俺は、ここまで話せるようになったよ」と柊生がグラインディー王立言語を発話する。
目を丸く見開き、エンゲルブレクトは驚いた。
「本当に驚いたな。まだ教わり始めて十日くらいだろう?」
エンゲルブレクトが思わず拍手をする。
「というか、そういえば、シュウ、君は年齢はいくつなんだろう」
柊生とカレヴァが顔を見合わせる。
すでにふきだしかかっているカレヴァのことを、柊生は少し睨んだ。
「三十八です」
エンゲルブレクトの美貌が、一気に作画崩壊したような状態になった。
「ははは。面白い。もう、冗談まで言えるようになったんだ」
カレヴァはそこで、完全に噴き出した。
そんなカレヴァを、柊生は恨めしそうに睨んだ。
ひとしきり笑った後、笑い声が混じった声でカレヴァが続けた。
「侯爵様。彼は、真実、三十八歳のようですよ」
「は? まさか……」
「えっと。俺が生まれたのは、真実、三十八年前だね。証明のしようがないが」
驚愕の表情を浮かべたまま、エンゲルブレクトは深々と礼をとった。
「え? どうしたの!」
「すまない。私は、貴殿のことを子ども扱いしていた」
「いえいえ、気にしないで。ところで、エンゲルはいくつなの?」
「二十五歳だ」
今度は柊生が、腰を抜かすほど驚いた。
『え、だって、どう見ても俺より上!』
「なんて言ったんだ?」エンゲルはカレヴァに尋ねる。
「おそらくは、自分よりも上だと言ってると思います」
「失敬な」
そう言いながらもエンゲルブレクト自身噴き出している。
「あははは。不敬だな!」
『だって、貫禄ありすぎだろう! 俺、これじゃペーペーみたいじゃないか!』
まだ柊生は、日本語のまま呟いている。
紙に柊生のつぶやきを次々書きつけていくカレヴァを、見たこともない表情でエンゲルブレクトが見つめている。
「はあ、さすが、カレヴァだな」
「ありがとうございます。これが僕のライフワークなので」
それを聞いて頬を緩ませたエンゲルブレクト。
「いいね。君たちは、命を懸けるものが、それぞれにあるんだね。私は、そんな君たちに寄り添えるよう努力するよ」
「エンゲルブレクト様……」
カレヴァが胸を打たれて、目を潤ませる。
その横で、意味が通じなかったのか、柊生が首を傾げた。
*
さらに数日が過ぎた。
柊生の身を包んでいるのは、新しく仕立てられた衣服だ。
きっちりしているようで、身体の駆動範囲に合わせた仕立てだ。
着心地が悪いなど、あるわけがない。
まだわからない言葉がありながらも、日常会話のほとんどを柊生は話せるようになっていた。
「そうだ。シュウ。君はどんな身分だったんだい?」
エンゲルブレクトが興味深く柊生に尋ねた。
「身分か。俺の居た国では身分の区別っていうのはなかったな」
「へえ。平民しかいないということ?」
「うん。もしかしたら、細かくはあったかもしれないけれど、それも、大昔の話だし」
エンゲルブレクトが大きくうなずいた。
「シュウ、君は、植物が本当に好きだよね」
「ええ。俺は、植物を調べてその植生など。そうだなあ、その種がどんなふうに広まったのかまで調べる植物学者です」
「ほほお。だから、食事に出る植物や飾られている花も気になっているんだね」
力強く柊生は頷く。
「このファーナムの地は、俺の国の北海道という土地の植生に似ているようで。とても、純粋に興味があるんだよ。出来たら、調べたいなってつい考える……」
「いいよ。調べても」
「え?」
「だって、きっと、君はファーナムの地からは、きっと出ないだろうしさ」
「まあ、確かに。でも、俺、どこからどこまでがファーナムかはわからないよ?」
「ああ、その見分け方に関してはカレヴァにカリキュラムを増やしてもらうという手立てをとろう」
「だけど」
「いいんだ。君の飲み込みはものすごく早いらしいし、私も君の学習能力の高さに舌を巻くくらいだ」
「エンゲル……」
「それに、君だって心酔できることが無いとつらいだろう?」
柊生は、深々と一礼をした。
「だけど、周囲には夜盗だって出る。その護身術とかも習ってもらうよ」
「何から何まで。ありがとう」
「いいんだ。年はだいぶ違っているけれど、君は私の友達だと思っているから」
「エンゲル……。本当にありがとう」
と、そこへ、小用を済ませたカレヴァが戻ってきた。
「カレヴァ、少しいいかな。シュウだが、手配出来次第、護身術も習わせることにするから」
「え? 護衛にするんでしょうか? 彼は非力ですよ?」
カレヴァは、それを聞いて目を丸くする。
「ああ、違う違う。彼は植物学を学んでいたようなんだ。この周辺の植生も調べたいという事らしい。でも、今ではきっと、誰かに襲われたとき、抵抗できないで死ぬだろうから」
「ああ! そうですね! それならば、僕がその役目もできますけど。いかがでしょうか?」
「ほう。きみが?」
カレヴァは胸を張った。
「ええ。未開の地に足を運ぶんです。僕自身が強くなければ、なめられて終わりじゃないですか」
「「なるほど」」
エンゲルと柊生の声がそろった。
「それならば、君に頼むよ。カレヴァ、彼を強くしてやってくれ」
「! いや、俺、結構いい歳のおっさんなんだけど……」
カレヴァが少し意地の悪い笑顔を見せる。
「大丈夫! 死なない程度にするから!」
カレヴァ特有の若干狂気を含んだような視線に、柊生はうなだれた。
「ううう」
「うん! カレヴァ、シュウをよろしく頼むよ」
「お任せください!」
翌日から、カレヴァによる熱血剣術指導が始まった。
その次の日には、案の定、筋肉痛で動けなくなった柊生がいた。
*
「おはようございます。シュウさん」
さらに数週間が経った。
屋敷裏の下草を這いつくばって観察している柊生に早くに慣れたのは、この世界に落ちてきたときに初対面となったビルギッタ=テグネールだ。
ああ、いつもの奇行だなとあまり深くは考えていないようだ。
「おはようございます。ビルギッタ。ここさ、俺、芝だとばかり思ってたんだけど、違うんだよなあ。これ、スゲの仲間だわ。しかも複数のスゲの仲間が混じってる……。マジで貴重……」
ビルギッタは、かなり引き気味で思わず、手に持っていた洗い立ての洗濯物籠をぎゅっと抱きしめた。
「へ、へえ。よかったですね……」
「ああ! 本当に! こんな珍しい植生、本当に初めて見るよ!」
柊生は興奮しきりだ。
ため息をついて、持っていた洗濯物を物干しに干し始めたビルギッタ。
籠の中身がすべて干し終わったビルギッタは、ほんの少しだけ柊生の執心に興味を持った。
「這いつくばって、見なきゃいけないほどそんなに面白いんですか?」
がばっ! スゲの葉を頬につけたまま、突然、柊生は身を起こした。
「面白いよ! だって、生えている場所によって、その植物の葉の色、香り、すべてが変わるんだ。見てごらんよ、ここのスゲとここのスゲは全く別の種類だ」
「えー。全く同じようにしか見えないですよ」
「いやいやいや。ほら、よく見て!」
柊生による植物講義は、カレヴァやビルギッタと同じメイド仲間のマンナニーナ=ミンッキネンが呼びに来るまで、続いたのだった。




