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第64章 吸血鬼の怒り

 山はもう存在しなかった。


 残されたのは、砕けた氷と溶けた石、煙を上げる瓦礫が広がる巨大なクレーターだけだった。かつて荘厳だった「囁きの氷河」は引き裂かれ、その下にあった廃墟の神殿が露わになっていた。雪と灰が灰色の雨のように空から降り注いでいた。


 破壊の中心に、リリス・ノクターンが立っていた。


 長い白い髪が、風もないのに激しく舞い上がっていた。目は純粋な紅に燃え、理性の欠片も残っていない。牙は完全に伸びきり、青白い肌には暗い血管のような紋様が脈打っていた。身に着けていた優雅な黒い上着はボロボロに裂け、彼女のオーラが激しい深紅と黒の波となって体から溢れ出し、空気そのものを歪めていた。


 彼女はもう、制御を失っていた。


 彼女は怒りそのものだった。


 セラフィエル、ヴァラク、エルンディル、グレンダの四人はクレーターの縁に立ち、呆然とした沈黙の中でその姿を見つめていた。ヴァラクはまだ意識を失ったミラの体を抱きかかえていた。小さな狐人の少女の呼吸は浅く、セラフィエルの治癒を受けたにもかかわらず、深い爪の傷から血が止まらずに流れ続けていた。


「完全にやられたわね」とグレンダが声を詰まらせて呟いた。「これはただの暴走じゃない。本当の意味で『主権者の崩壊』よ」


 ヴァラクの燃えるような瞳が細められた。「このままにしておいたら、周りのすべてを破壊する。自分自身も含めてな」


 セラフィエルは槍を強く握りしめた。「彼女を殺すわけにはいかない。拘束しなければならない」


 エルンディルが顔を青ざめさせた。「暴走状態の主権者を拘束するだと? 言うは易く行うは難しだぞ」


 まるで彼らの声を聞いたかのように、リリスの頭が鋭くこちらに向いた。燃える紅の瞳が一行に固定される。そこに認識の色はなく、ただ純粋で獣のような攻撃性だけがあった。


 彼女が動いた。


 虚空歩行。


 彼女の姿が一瞬で消え、動きの残像を残してヴァラクの正面に再び現れた。爪を伸ばした手が、ミラめがけて真っ直ぐに突き出される。


 ヴァラクは即座に反応した。


 体をねじり、肩でその一撃を受け止めた。衝撃で雪の上を大きく滑ったが、彼はミラを決して手放さなかった。


「くそっ――! この子を狙ってるのかよ!」


 セラフィエルが飛び出し、非殺傷の突きでリリスの注意を逸らそうと槍を放った。リリスは不自然なまでに体をねじり、素手で槍を掴んだ。聖なる光が掌を焼いたが、彼女は痛みを感じていないようだった。恐るべき力でセラフィエルを引き寄せ、膝を腹に叩き込んだ。


 セラフィエルが血を吐きながら吹き飛ばされる。


 エルンディルが即座に詠唱を始めた。


「監獄の鎖!」


 黄金のルーンがリリスの周囲に形成され、動きを封じようとした。一瞬、鎖は彼女を捉えた。


 しかし彼女は咆哮した。


 オーラが再び爆発し、鎖はガラスのように砕け散った。衝撃波にエルンディルが吹き飛ばされる。


 グレンダが杖を掲げ、表情を厳しくした。


「完全に手加減はできないわ。でも殺すわけにもいかない。拘束に集中して!」


 その後の戦いは、絶望的で混沌としたものだった。


 リリスは自然の力そのもののように動いた。暴走状態での速度は劇的に向上していた。彼女は**虚空歩行**を繰り返し、姿を現しては消え、近づく者を次々と攻撃した。ヴァラクは純粋な力で真正面からぶつかり合い、衝撃波がクレーター全体に広がった。セラフィエルは聖なる結界や拘束呪文で動きを鈍らせようとしたが、リリスはそれを恐るべき容易さで引き裂いた。


 エルンディルとグレンダは距離を取って連携し、封印のルーンや拘束の結界を重ねがけした。しかし彼らがどうにか彼女を抑え込んでも、彼女は次の力の奔流で必ず解き放たれた。


 彼らは圧倒されつつあった。


 この状態のリリスは強すぎた。彼女の生まれつきの才能、喰らった魂の力、そして完全な抑制の喪失が重なり、誰一人安全に抑え込める領域を越えていた。


 ヴァラクが胸に直撃を受けて岩に叩きつけられた。血を吐きながらも、彼は歯を食いしばって立ち上がった。


「時間が経つほど強くなってるぞ!」


 セラフィエルが彼の隣に着地し、荒い息を繰り返した。頰に傷が走っている。


「このままでは続かない。この調子だと、彼女は私たちを殺すか……それとも自分自身を殺してしまう」


 グレンダが、ヴァラクが守護結界の後ろに置いたミラの無意識の姿に視線を向けた。


「この子を起こせれば……もしかしたら彼女の声がリリスに届くかもしれない。二人の間の魂の絆は強い。それが私たちの唯一の希望よ」


 エルンディルが重々しく頷いた。「やれ。私たちが時間を稼ぐ」


 セラフィエル、ヴァラク、エルンディルが必死の牽制戦を繰り広げる中、グレンダはミラの元へ駆け寄った。彼女は小さな狐人の少女の傷に手を当て、全力で治癒魔法を注ぎ込んだ。


「しっかりして、子よ……目を覚ましなさい。あなたのお姉ちゃんがあなたを必要としているのよ」


 ミラの呼吸は弱々しかった。小さな体が、グレンダの魔法が効くにつれてわずかに痙攣した。緊張の数秒後、彼女の金色の瞳がゆっくりと開いた。


「……お姉ちゃん……?」


 グレンダが彼女を抱き起こした。「ミラ。よく聞きなさい。リリスは制御を失ったの。暴走しているのよ。私たちはあなたに彼女に届いてほしいの。できる?」


 ミラは戦場を見やった。そこで彼女は見た。目が紅く輝き、怒りに歪んだ顔で大切な人々を攻撃しているリリスの姿を。少女の目にすぐに涙が溢れた。


「お姉ちゃん……やめて……お願い……」


 その声は小さかったが、確かに届いた。


 リリスは、ヴァラクに振りかざした手を途中で止めた。頭がミラの声の方へ鋭く向けられる。


 一瞬、紅い瞳の中に何かが揺れた。


 ミラは痛みを堪えながら立ち上がり、よろめきながら一歩前に出た。


「お姉ちゃん、リリス……大丈夫だよ……私は大丈夫……みんなを傷つけないで……お願い、戻ってきて……」


 暴走が揺らぎ始めた。


 リリスの体が激しく震えた。周囲を覆っていた圧倒的なオーラが、消えかける炎のように揺らめいた。怒りの嵐の中で、小さく必死な何かが表面に浮かび上がろうとしていた。


 ……ミラ……?


 セイジの声が、彼女の魂に直接響いた。冷静だが、切迫した調子で。


『マスター。彼女の声に耳を傾けて。彼女は無事だ。私たちも無事だ。戻ってきて』


 リリスは、壊れたような、獣のような声を漏らした。半分は叫び、半分は嗚咽だった。


 紅い光が徐々に薄れていく。


 彼女の体が揺らいだ。


 そして、すべての力が一気に崩れ落ちた。


 リリスの瞳が裏返り、膝をついて雪に倒れ込んだ。圧倒的なオーラが完全に消え、残されたのはただの疲労と沈黙だけだった。


 ヴァラクが、彼女が地面に叩きつけられる前に抱きとめた。


 セラフィエルが槍を下げ、荒い息を繰り返した。


 グレンダが長い安堵の吐息を漏らした。


 ミラは傷ついた体で必死に走り、リリスの無意識の体にしがみついて大声で泣き崩れた。


「お姉ちゃん……お姉ちゃん、起きて……ごめんね……私が傷ついたせいで……」


 ヴァラクが慎重にリリスを雪の上に横たえた。珍しく真剣な表情で他の面々を見回した。


「……意識を失ってる。だが、状態は安定している」


 エルンディルは無意識の主権者を見つめ、それから崩壊した山、そして再びリリスへと視線を移した。


「……今すぐ移動するぞ。これだけの騒ぎだ。何かが目を覚ます前に」


 セラフィエルが頷き、優しくミラを抱き上げた。小さな狐人はリリスの手を離そうとしなかった。


 一行がクレーターから離れ、リリスと回収した道具を運びながら歩き始めると、雪は変わらず静かに降り続けていた。


 リリス・ノクターンは生き延びた。


 彼女は皆を守った。


 しかし、その代償は高かった。


 そして彼女の無意識の奥底で、暴走の記憶と、ミラを失いかけた恐怖は、これから長い間、彼女の中に残り続けることになるだろう。

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