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第52章:逃げ出した主権者

 宿の中が、完全に静まり返っていた。


『霜の炉辺亭』の誰もが、俺に視線を注いでいた。吟遊詩人のリュートは止まり、マグが口元で止まったまま。暖炉の炎でさえ、音を潜めたかのように小さくパチパチと鳴っていた。


 俺の胸が激しく上下していた。目尻に熱い、怒りに満ちた涙が滲む。

 言葉は堰を切ったように溢れ出ていた。生々しく、ぐちゃぐちゃで、フィルターのかかっていないものだった。

 魔族や王、古代の悪に冷徹な態度で立ち向かってきた、優雅で威厳あるリリス・ノクターン――至高の吸血鬼の主権者――が、ついに皆の前で大きく崩れ落ちた。


 そしてそれは……恐ろしかった。


 息が上手くできない。宿の壁が近すぎる。視線が重すぎる。

 ヴァラクはまだ唇から血を流しながら馬鹿みたいに笑っていたが、俺は彼を見ることができなかった。誰の顔も見られなかった。


 もう何も言わず、俺は振り返って走り出した。


 扉が勢いよく開き、俺は凍てつく夜の外へ飛び出した。ブーツの下で雪が軋む音を立て、長い白髪が月の旗のように後ろになびく。

 冷たい風の中で涙が頰を伝い、すぐに凍りついた。どこへ向かっているのかもわからなかった。ただ、走っていた。


(なんであんなことを言ってしまったんだ? なんで全部吐き出してしまったんだ? 俺は強くあるべきだった。コントロールできているはずだった。俺はリリス・ノクターンだ……泣きじゃくるだけの、ぐちゃぐちゃな人間なんかじゃないのに……)


 翼が勝手に広がり、俺は夜空へと飛び上がった。風が耳元で咆哮するが、心臓の鼓動も、頭の中で叫ぶ声も掻き消せなかった。

 すべてを台無しにしてしまったという声が、俺を追いかけてきた。


 ---


 宿では、俺が消えた瞬間、混乱が爆発した。


 セラフィエルが雷光のように動いた。白と金の残像を残してヴァラクに激突する。上位魔族は後ろに吹き飛ばされ、二つのテーブルを破壊した後、セラフィエルに膝で胸を押さえつけられた。

 純粋な聖光の槍が彼の喉に突きつけられ、先端が致死的な輝きを放っている。


「説明しろ。今すぐ」

 彼女の声はもはや旋律ではなく、神の怒りに満ちていた。「お前に何を言った? 何をしてリリスをあそこまで逃げさせた!?」


 ヴァラクは咳き込みながらも、槍を喉に当てられたまま笑っていた。


「落ち着けよ、羽根頭。少し押しただけだ。あいつは吐き出す必要があったんだ。数ヶ月もあの堅苦しい貴族の仮面を被り続けて、息が詰まっていたんだろ」


 セラフィエルの瞳が燃え上がった。


「あなたが彼女を壊したのよ! 彼女は我らの主権者! 血族全体と、子供の魂の重みを背負っているのに、それを嘲って壊すなんて良い考えだと思ったの!?」


 ミラは今や大声で泣いていた。小さな手でマフラーを握りしめ、涙が頰を伝う。


「お姉ちゃん……私のせいで逃げたの? 私がうるさかったから……わかってたのに……」


 エレンディルがマグを叩きつけ、テーブルにヒビを入れた。


「この馬鹿魔族が! お前が何をしたか、本当にわかっているのか? リリスはすべてのかぎだ――魂の修復も、賢者の封印も、北の均衡も。こんな状態で一人で走り出したら――」


 賢者が一歩前に出て、銀色の姿をより強く輝かせた。抑えきれない怒りを湛えた紫の瞳でヴァラクを睨む。


「もう十分です。皆さん」


 五世代の重みを帯びた声が、宿全体を再び静かにさせた。セラフィエルの槍さえもわずかに揺れた。


 賢者はヴァラクに向き、冷たい声で言った。


「あなたはやりすぎました。今、リリスの魔力波形を感じ取れません。夜の奥深くへ行ったか、自分を完全に抑え込んでいるのでしょう。あなたの『押した』せいで彼女に何かあったら……」


 脅しを言葉のままに残した。


 それから賢者は部屋全体に向き、特にミラにだけ声を優しくした。


「ミラ、子供よ。これはあなたのせいではありません。リリスはあなたを愛しています。ただ……彼女は今、圧倒されているのです。長すぎる間、背負いすぎていました。私たちが彼女を見つけます」


 セラフィエルはゆっくりとヴァラクを解放したが、槍はまだ向けていた。


「もし彼女があなたのせいで傷ついたら、魔族よ。私は自らあなたを天界へ引きずっていき、裁きを受けさせます」


 ヴァラクは首をさすりながら体を起こした。初めて、彼の笑みが真剣なものに変わっていた。


「……彼女を逃がすつもりはなかった。ただ、仮面を外させたかっただけだ。あの娘は強いが、吸血鬼の優越感の下には人間がいる。息を吸いたかったんだろう」


 エレンディルが杖を掴んで立ち上がった。


「話はもういい。すぐ追いかけるぞ。今すぐだ。夜の北の地は、一人で彷徨う者を優しく扱わない」


 賢者が頷いた。


「私が先導します。彼女の魂は私と繋がっています。魔力を抑えていても、残響は感じ取れます」


 ミラは涙を拭い、驚くほどの決意を浮かべて立ち上がった。


「私も行く。お姉ちゃんが私を必要としてる」


 一行は素早く荷物をまとめ、雪の中へ飛び出した。

 宿の客たちは呆然と見送った。大天使、上位魔族、狐の少女、古い高位エルフ、そして顕現した第五世代賢者が、夜の闇の中へと消えていくのを。


 ---


 俺は闇の中を無我夢中で飛んでいた。涙が顔で凍りついていく。


 翼を強く打ち、風が耳元で叫ぶ。ウィスパーウィンド・ホロウの灯りが、遠い点になって下に小さくなっていく。

 胸が痛かった。傷ではなく、生々しく醜い真実をようやく吐き出した痛みだった。


(嫌だ。演じ続けるのも嫌だ。いつも強くあるのも嫌だ。エリシアもミラも賢者も、みんなの期待を背負いながら、自分はただの……白亜樹なんだ)


 俺は谷を見下ろす雪の尾根に激しく着地し、膝をついて自分を抱きしめた。涙が止まらなかった。拭うこともしなかった。


「疲れた……」

 空っぽの夜に向かって囁いた。「ただ生き延びたかっただけなのに。穏やかな人生が欲しかっただけなのに。どうして何もかもこんなに大変なんだ……?」


 風は沈黙で答えた。


 賢者の気配が魂に触れてきた。弱々しいが、しつこい。彼女は俺を探している。他のみんなも。


 でも今は、見つかりたくなかった。ただ……自分でありたかった。ぐちゃぐちゃで、怖がって、怒っていて、全部人間のままで。


 俺は雪の中で座り、翼で自分を包み込むようにして、涙が止まるまで泣き続けた。


 北の地は冷たかった。


 しかし、久しぶりに心の奥が少しだけ温かくなった気がした。


 ようやく仮面を落とせたから。


 そして、大切な人たちは……本当の俺を探しに来てくれるはずだった。

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