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第36章:深紅の鎖と迷える子羊

 死烏の森は、俺が木々の境界を一歩踏み入れた瞬間、全てを飲み込んだ。


 ただ暗いのではない。――《間違っている》。

 頭上の天蓋があまりにも濃密で、地上に届く太陽光はほとんどなく、森全体を永遠の薄暮の世界に変えていた。黒い樹皮の木々が拷問された指のようにねじれ、風もないのに深紅の葉がざわめいている。空気は金属の味がし、古い血と腐敗した魔力の臭いで濃密だった。視界の端で影が蠢き、枝が折れる音は骨が砕けるように響いた。


 この場所は憑依されていた。感染していた。

 古代の邪悪な何かが大地そのものに爪を立て、決して離さない――そんな感覚が全身を覆う。


 永劫賢者が俺の傍らに顕現した。銀色の姿が圧倒的な暗闇の中で柔らかく輝く。エリシアの小さな魂が彼女の胸元に寄り添い、少女の目は不安に大きく見開かれていた。


『主よ、解析が完了しました』

 賢者の声は冷静だったが、重い響きを帯びていた。『森全体が極めて強力な暗黒エネルギーで飽和しています。これは自然な腐敗ではありません。意図的なものです。森の奥深くにある単一の源から広がる呪いであり、ゆっくりと、しかし確実に拡大し続けています。このままでは三ヶ月以内にエルデンリーチの外れにまで到達します。このエネルギー波形は深紅黒王の記述と完全に一致します。彼は単なる不死の君主ではありません。この腐敗の心臓部なのです』


 俺は【夜の嘆き】の柄を強く握りしめ、紅い瞳を細めてねじれた木々を睨んだ。


「つまり、ここにある全てがあいつと繋がっているのか。森も、失踪事件も、広がる呪いも……この地域全体を自分の領域に変えようとしている」


『その通りです。彼を排除することは単なるクエストではありません。エルデンリーチが新たな死の領域になるのを防ぐための、必要不可欠な行為です』


 俺は先へ進んだ。ブーツが霜の張った地面を軽く踏みしめる音が響く。

 奥へ進むほど状況は悪化した。木々が密集し、枝同士が血管のように絡み合う。幹の間に青白い幽光がちらつき、鬼火か捕らわれた魂か判別がつかない。空気はさらに冷たく、悪意に満ちていた。

 まるで地球時代に観ていた古いホラー映画のようだ。森に入った主人公に、次々と不幸が襲いかかる――あの感覚そのものだった。


 何かが俺を見ている。複数の何かが。

 その飢えが、肌に突き刺さるように感じられた。


 それでも俺は歩き続けた。翼は今は畳んで完全に収納している。濃密な天蓋の下では飛行など無意味だ。

 この力の源――深紅黒王――を見つけ、終わらせる。それだけが目的だった。


 その時、聞こえた。


 悲鳴だった。


 甲高く、恐怖に満ち、紛れもない子供の声。

 重苦しい静寂をナイフのように切り裂いた。


 迷わず、俺は全力で駆け出した。

 世界がぼやけるほどの速度でねじれた木々の間を疾走し、音を追う。

 もう一度、悲鳴が上がった。今度はより近く、痛みに歪んでいる。


 小さな空き地に出た。


 そこに、十歳にも満たない獣人の少女が地面に丸まっていた。柔らかい狐耳とふわふわの尻尾が、泥と血で汚れていた。服はボロボロの襤褸切れ。首には重い鉄の奴隷首輪が淡く輝き、途中で切れた鎖が藪の中に続いている。

 少女は激しく震えながら後ずさり、巨大な銀牙狼が彼女を囲むように回っていた。銀色の毛並みに黒い腐敗が混じり、赤い瞳が不自然な飢えを宿している。牙から涎が滴り、飛びかかる体勢に入っていた。


 狼が跳躍した。


 俺はさらに速かった。


 銀牙狼の間に、暗黒の瞬きとともに現れた。

【夜の嘆き】を流れるような動作で抜き、横薙ぎに一閃。

 刃が腐敗した獣の首を綺麗に断ち切った。頭部が宙を飛び、黒い血を噴きながら胴体が崩れ落ちる。死んだことすら気づかぬままに。


 再び静寂が訪れた。少女の荒い息遣いだけが響いている。


 俺は剣を鞘に納め、ゆっくりと彼女に向き直った。動作をできる限り優しくした。

 少女は歯をガチガチと鳴らして震えていた。黄金色の大きな瞳が恐怖でいっぱいに俺を捉える。腕と顔には痣が広がり、半分飢餓状態だった。


 俺は彼女の目線に合わせてしゃがみ込み、王族らしい威厳をできる限り和らげた。


「大丈夫……もう怖くないよ。怪物は倒した。ここで一人で何をしていたんだ?」


 狐耳の少女は俺をじっと見つめ、涙が溢れ出した。

 声はか細く、途切れ途切れだった。


「ご、ご主人様が……捨てたの……私なんて役立たずだって……使い捨てのゴミだって……もう重い荷物も運べないから、ここに置いて死ねって……」


 俺の血が煮えたぎった。


 人間とはこれほどまでに非情なのか。

 こんな呪われた森に、鎖を付けた子供を――小さな女の子を――怪物に食わせるために捨てるなど。

 クロウ男爵への怒りが再び熱く鋭く蘇った。

 他にもどれだけの者が、同じように苦しめられてきたというのか。


 俺はゆっくりと手を差し伸べ、掌を開いた。


「大丈夫だ。俺は傷つけない。俺の名はリリス・ノクターン。これからは俺が面倒を見る。お前はもう安全だ」


 少女の目が大きく見開かれた。汚れた頰を新たな涙が伝う。

 一瞬だけ躊躇した後、彼女は飛びつくように俺のジャケットに顔を埋め、激しく泣きじゃくった。


 首元の奴隷首輪が突然、明るい赤に輝いた。ルーンが浮かび上がり、俺のエネルギー波形に合わせて柔らかな深紅色へと変わっていく。


 永劫賢者の声が、優しく俺の心に響いた。


『奴隷首輪があなたを新しい主人と認識しました。所有権が移りました。現在は首輪の魔術によって彼女はあなたの保護下にあります。首輪を外すか破壊するまで、この拘束は続きます』


 俺は少女の狐耳を優しく撫で、泣きやむまで抱きしめた。

 久しく感じていなかった胸の痛みが、じんわりと広がった。


「名前は?」


「……み、ミラ……」

 嗚咽の合間に彼女は囁いた。「役立たずの……狐のミラ……」


「お前は役立たずなんかじゃない」

 俺は強く言い、彼女をより近くに抱き寄せた。「もう違う。お前は俺のものだ」


 ミラはさらに激しく泣き、俺にしがみついた。

 まるで世界で唯一の安全な存在であるかのように。


 俺は長い間、呪われた森の真ん中で震える少女を抱きしめ続けた。

 死んだ銀牙狼の骸は近くで既に腐敗した霧へと溶け始めていた。

 森の暗黒エネルギーが四方から押し寄せてくるが、森に入って初めて、クエストを超えた明確な目的を感じていた。


 俺はただ不死の王を殺しに来たのではない。


 この苛烈な世界に残されたわずかな光を守るために、ここにいるのだ。


 ミラが泣き疲れて俺の胸で眠りに落ちた後、俺は慎重に彼女を抱き上げ、森の入口に残してきた馬車へと運んだ。

 賢者が傍らを歩き、エリシアの魂が優しい好奇の目で小さな狐娘を見つめている。


『彼女にはきちんとした世話が必要です、主よ。食事と温もりと安全を。首輪は適切な儀式で後で外せますが、今はこれが彼女の命を守ってくれます』


 俺は頷き、腕の中のミラの体重を調整した。


「町で一泊して、しっかり補給する。その後、城へ向かう。深紅黒王はまだ待っている……そして今、俺にはあいつを倒すさらなる理由ができた」


 森は俺たちを見送るように暗い気配を濃くした。

 だが俺は振り返らなかった。


 ミラが腕の中で小さく身じろぎし、寝言のように呟いた。


「……ありがとう……リリス……」


 俺は数日ぶりに、本物の微笑みを浮かべた。


「どういたしまして、小さな子羊」


 北への旅は、少しだけ複雑になった。


 しかしヴァロリアを後にして以来、初めて――

 俺は本当に正しいことをしていると感じていた。

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