6,廊下での出来事
休憩の合図とともに、練習棟の空気が一気に和らいだ。団員たちは思い思いに水を飲んだり、楽器の手入れをしたり、雑談に興じたりしている。私も指揮台を降り、水を取りに練習棟の廊下へと出た。
◆ ◆ ◆
「――タクト様! お、お待ちしておりました!」
廊下の角から勢いよく飛び出してきたのは、オルファだった。先ほどの折り目正しい様子とは打って変わって、目を輝かせている。肩より少し下まである淡い赤髪にパーマがかかり、フワフワと浮いている。胸元は……ヴィヴィと同じくらいか……?ゴホンゴホン。それと、何故クラシックメイド服のような格好なのだろう……?
「オルファさん、どうかしましたか」
「先ほどの指揮、拝見しておりました……! あの、ヴァイオリンの後方に出された指示、あれは通常、経験を積んだ指揮者でも見落としがちな箇所でして……! 私、記録に残しておいてもよろしいでしょうか!?」
「き、記録、ですか?」
「はい! この楽団のスコアには、代々の指揮者様がどのような指示を出したか、書き留める習わしがございまして……! タクト様の指示は、どれも本当に、素晴らしくて……!」
興奮気味にまくし立てるオルファの目には、尊敬を通り越して、ほとんど憧憬にも近い光が宿っていた。手にしたメモ帳には、既に何やらびっしりと書き込みがされている。
「それに、先ほどの合奏の最中、部屋の空気が変わったのにお気づきでしたか……! あれほど分かりやすく共鳴反応が現れたのは、私の記憶にある限り初めてです……!」
「オルファさんも、気づいていたんですね」
「もちろんです! ……あ、す、すみません、また熱くなってしまいました」
我に返ったように咳払いをするオルファに、私は思わず笑みがこぼれた。
「いえ、嬉しかったですよ。……また、色々と教えてください」
「――はい! 喜んで!」
勢いよく頷いたオルファは、水差しを取りに、軽い足取りで廊下の奥へと去っていった。
◆ ◆ ◆
休憩時間の終わりが近づく頃、私は練習棟のロビーの隅で、一人静かに水を飲んでいるヴィヴィの姿を見つけた。
「ヴィヴィさん」
「――あ、タクトさん」
声をかけると、ヴィヴィは少し驚いたように顔を上げ、それからいつもの柔らかな微笑みを浮かべた。
「先ほどの合奏、お疲れ様でした。……ヴィヴィさんのチェロ、本当に安定していますね。誰の音にも自然に寄り添っていて」
「ありがとうございます。……よく、そう言われます」
その返し方に、私は昨日感じた引っかかりを、また思い出した。褒め言葉のはずなのに、彼女の声にはどこか、乾いた響きがあった。
「――ヴィヴィさんは、他の人に合わせるのが、本当に得意なんですね」
「ええ、そうですね。……昔から、そう育ってきたので」
「昔から?」
軽く尋ね返すと、ヴィヴィは一瞬だけ、何かに気づいたように口をつぐんだ。それから、誤魔化すように小さく笑う。
「――いえ、何でもありません。それより、タクトさんは、これから団員一人一人の練習を見ていかれるおつもりなんでしたっけ?」
「はい。そのつもりです」
そう、先程の合奏もある程度の全員の力量を見るためで、その後はパートごとや個人を中心に見ながら纏めていくつもりで、その説明も合奏終わりにしていた。
「……そうですか」
ヴィヴィはそう言って、静かに水を飲み干した。その横顔に、何か言いたげな、それでいて言葉にならない色が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。
――やっぱり彼女、何か抱えてるな。
「――ヴィヴィさん。もしよろしければ、次の個人レッスンは、あなたから始めさせてもらえませんか」
その提案に、ヴィヴィは驚いたように目を見開いた。
「……私、から、ですか?」
「はい。……何となく、ですが。あなたと、もう少し話してみたいと思ったので」
少しの沈黙の後、ヴィヴィは小さく、けれど確かに頷いた。
「――分かりました。……よろしくお願いします、タクトさん」
その声に、ほんの少しだけ、これまでにない緊張の色が滲んでいるのを、私は感じ取っていた。
休憩の終わりを告げる鐘が、練習棟に静かに響き渡った。




