5,50人の音
着任二日目の朝、私は練習棟の大扉を開けた。
昨日の顔合わせは、あくまで一部の代表者だけだったらしい。目の前に広がっていたのは、もっと大きな景色だった。
「タクト様、おはようございます」
声をかけてきたのは、折り目正しく一礼する……確か打楽器担当の…
「オルファさん、おはようございます。……随分、大所帯なのですね」
「はい。この楽団は、弦・木管・金管・打楽器、合わせて50名で構成されております。指揮者様が不在の間も、この人数だけは何とか維持してまいりました」
そう語る声には、誇りと同時に、5年間の苦労が滲んでいた。
――50人か。これは、骨が折れそうだ。
弦楽器の一角では、白髪の混じった年配の男性がコントラバスの弦を丁寧に確かめている。木管の列では、若い男性がファゴットのリードを湿らせ、恰幅の良い女性がオーボエを組み立てていた。金管の一角には、それぞれ違う体格の奏者たちが並び、後方の打楽器のでは、数人が様々な種類の楽器準備に余念がない。
――こんなに大所帯だったのか。5年間、よくこの人数を保ってきたな。
私は指揮台に向かう前に、パートを一つずつ回って挨拶をすることにした。
「皆さん、おはようございます。今日からお世話になります」
木管パートの近くを通りかかったとき、フルートを構えた小柄な娘が、パッとこちらを向いた。
「あ、おはようございます! フルート担当です! よろしくお願いします!」
快活な声だった。明るい亜麻色の髪を後ろでひとつに結び、前髪は眉の上で切り揃えられている。ちまちまとした小柄な体格ではあるが、強調されるべき所は立派に押し上げられている。
物怖じしない様子に、私は思わず口元が緩んだ。
「よろしくお願いします。……お名前を伺っても?」
「フェリシアです! あ、隣にいるのが姉のファニアで――」
「――フェリシア、私の紹介は自分でしますわ」
隣で答えたのは、フェリシアと瓜二つの顔立ちをした娘だった。その上背丈やスタイルまで……ゴホンゴホン。こちらは同じ亜麻色の髪を緩やかに巻き、片方だけ耳にかけている。
「クラリネット担当、ファニアと申します。……お見知りおきを」
同じ顔立ちのはずなのに、まとう空気はまるで違う。ゆっくりと流し目気味にこちらを見上げる仕草には、フェリシアにはない妖しさがあった。
「双子……ですか?凄くそっくりで……」
「はい! よく驚かれるんです」
「あら、フェリシア。そう浮かれては、はしたないですわよ」
窘めながらも、ファニアの口元にも小さな笑みが浮かんでいた。私は軽く会釈をして、金管パートの方へと足を進めた。
「あ……あの……」
消え入りそうな声が聞こえて振り向くと、金管の列の奥、他の誰よりも背が高い位置に、長く伸びた髪を持つ娘が立っていた。根元は雪のように白く、毛先に向かうにつれて澄んだ青へと変わっていく、珍しい色合いの髪が、彼女がもじもじと体を揺らすたびにふわりと揺れる。またそのボディーラインの艶かしいこと……オホン。なんだ?この楽団には見た目採用でも存在しているのか?そんな錯覚を起こす程、あらゆる種類の美少女が揃っている。
そんな邪なことを私が考えている間に、彼女の細い金縁の丸眼鏡の奥では大きな瞳が忙しなく泳いでいた。
「あ、あの、その、初めまして、です……! わ、私、その、トランペットを、担当しておりまして……」
名乗りかけたところで、手にしていた楽譜をぱさりと取り落とし、慌ててしゃがみ込んで拾い上げる。
「あ、す、すみません……! えっと、リオーゼ、と申します……! お、お見知りおきを……!」
真っ赤になりながら深々と頭を下げる姿に、私は思わず頬が緩んだ。
――お、これはまた、可愛らしい慌てぶりだな。
「リオーゼさん、ですね。よろしくお願いします」
「は、はい……! よろしくお願いします……! あ、あの、色々と噂は伺っております……! お、お手柔らかにお願いします……!」
視線が泳ぎ言葉の端々がぎこちない。だが、その不器用さの奥に何か真っ直ぐなものをその瞳からは感じた。
――照れ屋、なのかな。ただ、トランペットで……?
パート挨拶を終え、私は改めて指揮台に上がった。この50人それぞれの中に、まだ私が知らない事情が眠っているのだろうと、改めて実感しながら。
◆ ◆ ◆
「皆さん、おはようございます。では早速、こちらの曲を。……皆さん、譜面はお手元に?」
私が示した楽譜に、団員たちが一斉に目を通す。50人分の視線が、静かにこちらへ集まった。
「それでは、始めましょう」
振り下ろした瞬間、練習棟いっぱいに音が満ちた。
弦楽器のうねり、木管の柔らかな彩り、金管の輝き、打楽器の芯。50人分の音を、私は一斉に聞き分けていく。誰の音がわずかに強いか、誰のテンポが微かに走り気味か――その情報量に、内心で軽く舌を巻いた。
――うわ、これは骨が折れそうだ。でも、悪くない。むしろ……面白い!!
「ヴァイオリンの後方、もう少しだけ音を溶け込ませて!……そうです!」
「オーボエさん、良い音です。そのまま……」
「金管全体、今の所もう半瞬だけ入りを揃えて!!」
声をかけるたびに、団員たちの音が少しずつ噛み合っていく。フェリシアが弾かれたように顔を上げ、隣のファニアと目配せを交わす。リオーゼは自分の出番になるたび、緊張からか肩を跳ねさせながらも、懸命に音を紡いでいた。ヴィヴィは相変わらず、誰の音にも自然と寄り添うような弾き方をしている。
そして――曲が中盤に差し掛かった頃、私はふと、練習棟の空気そのものが、わずかに変わり始めていることに気づいた。
窓から差し込む光が、心なしか先ほどより澄んで見える。長年の埃で薄暗かった天井の梁の辺りに、ほんの微かな輝きの粒子が、音に合わせてふわりと漂っていた。壁に立てかけられていた古い譜面台の傷までもが、気のせいでなければ、ほんの少し目立たなくなっているような気がする。
――これが、合奏魔法の効力なのか……?
団員たちの誰も、まだそのことに気づいていない様子だった。だが確かに、音が重なるたびに、練習棟という空間そのものが、ほんの少しずつ息を吹き返しているような、そんな手応えがあった。
最後の一音が鳴り止んだとき、練習棟には、清々しい静寂と、先ほどよりも幾分か明るく澄んだ空気が満ちていた。
「……素晴らしいです、皆さん」
私が一礼すると、団員たちの間にどよめきにも似たざわめきが広がった。
「これが、本来のこの楽団の音なのか……」
年配のコントラバス奏者が、感慨深げに呟いていた。それから、ふと天井を見上げて、不思議そうに目を細める。
「……気のせいか? 何だか、部屋の中が、いつもより明るいような」
その呟きに、私は内心でそっと頷いた。
――やっぱり、気のせいじゃないんだな。
後で判明したことだが、その日を境に王都近辺では様々な建物からホコリが消え去り、空気感染による病が減り始め、湿度も改善されたことにより住み良い環境が整い始めたという。タクトを始めとした本人達は全く気づいてはいないが、それはまだほんの序章に過ぎなかった訳ではあるが。
確かに王都が好転した、誰にも知られることのない記念すべき日となったのだった。
全体の合奏を終えたタクトは団員たちが休憩に入る中、指揮台を降りながら、まだ言葉を交わせていない団員たちの顔を頭の中で数え直していた。




