4,楽団長室にて
「――失礼。改めて、名乗らせてください。」
ホールに案内された私に、初老の男はそう切り出した。オーディションの熱が冷めやらぬまま、私は椅子に腰掛けたところだった。
「私はヴェルダ。この国――オルケスティ王国で、外交と財政を預かる大臣を務めています。」
――やはり、ただの審査員ではなかったか。
道理で、と私は内心で得心した。あの場に漂っていた緊張感、他の審査員たちの態度、そして何より、あの眼差しの重さ。ただの実務官では、あそこまでの熱量を宿してはいなかっただろう。
「大臣自らが、審査の場にいらっしゃるとは。……それだけ、この国にとって切実な問題だったということですね。」
「その通りです。」
ヴェルダは、深く頷いた。その顔には、先ほどまでの張り詰めた緊張は消え、代わりにどこか疲れの滲む、しかし穏やかな笑みが浮かんでいた。
「五年前、我が国の指揮者が隣国に招かれて去って以来、私はずっと後任を探し続けてきました。……正直に申し上げれば、半ば諦めかけていた時期もあります。」
「五年は、長いですね。」
「長かったですよ、本当に。……作物の実りは年々細り、民の暮らしも苦しくなる一方でした。それでも、優れた人材はことごとく他国へ流れていく。この国に、これ以上何を差し出せるというのか――そう思うことも、一度や二度ではありませんでした。」
ヴェルダの声には、五年分の重みが確かに滲んでいた。私はその言葉を、静かに受け止める。
「ですが、タクト殿。」
ヴェルダは、まっすぐにこちらを見据えた。
「あなたの演奏を聴いた瞬間、私は確信しました。……この国は、まだ終わっていない、と。むしろ、この時を待っていたのだ、と。」
その一言に込められた熱量は、決して大げさな社交辞令ではなかった。むしろ、必死に抑え込んでいたものが、堰を切ったように滲み出ている――そんな響きがあった。
「――1つ、伺ってもよろしいでしょうか。」
ヴェルダは、そこで少し声の調子を変えた。隠しきれない好奇心と、わずかな戸惑いが滲んでいた。
「あなたはまだお若い。しかし、我々は今信じられないほどの音楽を体感しました。あなたの確かな耳と、正確な指示、そして知識の深さは底が見えないくらいです。あなたほどの技術と知識を、一体いつどこで身につけられたのですか?……教会育ちの、身寄りのない方だと伺っていますが……?」
その問いは、当然出てくるものだった。私自身、この体で生きてきた18年の中で、いずれ誰かに聞かれるだろうと想定していた質問でもある。
「私を育ててくれた神父様が、その昔、諸国を巡る楽師をしていたそうです。」
私は静かに答えた。半分は事実で、半分は方便だった。セバスチャン様が本当にそうだったのかは、今となっては確かめようもないが、礼拝堂の奥にしまわれていた古い楽譜の束と、諸国の音楽理論をまとめた分厚い書物の存在だけは、紛れもない事実だった。
「教会には、神父様が若い頃に書き溜めたという楽譜や、音楽理論の書物が、山のように眠っていました。子供の頃から、それらを読み耽っていたのです。……他に、することもありませんでしたから。」
「……なるほど。それで、あれほどまでの知識を。」
ヴェルダは得心したように頷いたが、それでもどこか、まだ腑に落ちきらないような表情を浮かべていた。
「ですが、書物を読んだだけで、あれほどの演奏や指揮ができるようになるものでしょうか。……失礼、疑っているわけではないのです。ただ、あまりに規格外なもので。」
「――いえ、お気持ちは分かります。私自身、未だに戸惑うことがありますから。」
私は微笑みながら、正直にそう答えた。これは嘘ではない。
「ただ、来る日も来る日も、頭の中で音楽を鳴らしていたのです。誰も教えてくれる人はいませんでしたから、独学で、古いオルガンを使いながら。……気づけば、頭の中で鳴る理想の音と、指や腕の動きが、ある日繋がっていたのです。」
「独学で、あそこまで……」
ヴェルダは、しばらく黙り込んでいたが、やがて表情を緩めた。
「正直、まだ半信半疑ではあります。……ですが、あなたの演奏を聴いた私が、それを疑う道理もないでしょう。出自がどうであれ、あなたの音が本物であることに、変わりはありません。あなたは、神に見いだされたのかもしれませんね。」
「とんでもない。恐縮です。」
私は深く頭を下げた。
「――それでは、早速で恐縮ですが」
ヴェルダは懐から一枚の書類を取り出し、机の上に広げた。
「正式な辞令は、追って王宮からお渡しします。これは簡単ではありますが、合格通知のようなものです。さて、そうと決まればやる事は山積み!忙しくなりますぞぉ!……と言いたいところですが、まずは楽団に足を運んでいただきたい。団員たちにも、あなたのことを紹介せねばなりません。」
「はい、ぜひ!」
私は静かに頷いた。
◆ ◆ ◆
ホールの裏手にある古い練習棟へと案内される道すがら、ヴェルダはぽつりぽつりと、この国の楽団の現状を語ってくれた。
「指揮者を欠いてから五年、団員たちも随分と苦労してきました。……腕は決して悪くないのです。ただ、束ねる者がいない。それだけで、これほどまでに音は輝きを失うものかと、私自身、痛感させられました。」
「束ねる、というのは、簡単なことではないでしょうしね。」
「まさに。……あなたのような方が現れてくださって、本当に良かった。」
練習棟の奥まったところにある大練習室の扉を開けると、そこには先ほど即興合奏で音を合わせた面々が、緊張した面持ちで並んでいた。
「皆さん、手をいったん止めて注目を。先程のオーディションを経て、本日付で我が国の宮廷楽団を率いていただくことになった、タクト殿です。」
ヴェルダがそう紹介すると、団員たちの間に、小さなどよめきが起きた。
「よろしくお願いします。」
私が丁寧に一礼すると、団員たちも次々と頭を下げ返してきた。その中に、先ほど演奏中に目に留まった、チェロを抱えた女性の姿があった。
ヴェルダから先程の話も交えた簡単な紹介をされた後、少しずつ団員から声が漏れ聞こえる。
「教会育ちで、独学だったと伺いましたが……」
ヴァイオリンの若い男が、遠慮がちに呟いた。周囲の団員たちの表情にも、驚きと、まだ拭いきれない戸惑いが浮かんでいる。
「独学で、あそこまでの指揮ができるものなのですね……」
「正直、我々を委ねて良いのか……まだ半分も信じられていません。ですが」
列の中から一歩前に出た、チェロを抱えた女性が、静かに言葉を継いだ。
「先ほどの合奏で、私たちの誰も気づいていなかったずれを、次々と言い当てられました。あれが紛い物であるはずがありません。……出自がどうであれ、年数がどうであれ。私は素直に、あの耳と技術に敬服します」
凛とした声だった。他の団員たちも、その言葉に何かを納得したように、小さく頷き合っている。
「――ありがとうございます。ええと」
「ヴィヴィと申します。主席チェロ奏者を務めております」
前髪を斜めに切り揃えたショートボブが、動くたびにさらりと揺れる。同年代だろうか、私よりも頭1つ分ほど低い、小柄な体つきだった。にもかかわらず、抱えたチェロがまるで彼女の体の一部であるかのように、ごく自然に馴染んで見える。
柔らかな物腰で、他の団員たちのように過度に緊張している様子もない。むしろ、この状況をどこか興味深そうに見つめているような、落ち着いた雰囲気があった。
「ヴィヴィさん、ですね。先ほどの演奏、素晴らしかったです」
「ありがとうございます。……ですが、指摘していただいた箇所、正直、自分でも気づいていませんでした。あれほど的確に見抜かれるとは、思ってもみませんでしたので」
そう言って、ヴィヴィは小さく微笑んだ。人当たりの良い、それでいて芯のある笑い方だった。
「タクトさんの指揮指導、今後ともよろしくお願いいたします。」
「はい、もちろん。……こちらこそ。」
私がそう答えると、ヴィヴィは嬉しそうに頷いた。会釈をして一歩下がる拍子に、豊かな胸元がふわりと揺れ、私は思わず視線を逸らした。中流階級の生まれと聞いていたが、育ちの良さを感じさせる仕草の端々に、それでいてどこか親しみやすい柔らかさが同居している。
――なるほど。彼女もまた、只者ではないな。
そんなことを思いながら、私は他の団員たちにも順に視線を向けていった。彼らの表情からも、先ほどまでの戸惑いは薄れ、代わりに何か期待めいた色が浮かび始めているのが分かった。
◆ ◆ ◆
「――さて、皆さん」
一通りの紹介が済んだところで、私は団員たちを見渡した。
「五年間、指揮者不在のままこの楽団を支え続けてくださったこと、心から敬意を表します。……ですが、これからは、私も皆さんと共に音を作らせていただきます。」
「……そんな、勿体ないお言葉です。」
ヴァイオリンの若い男が、恐縮したように呟いた。
「勿体なくなどありません。……実のところ、自分自身について不安がとても大きかったのも事実です。ですが、これから皆さんの音と、全力で向き合っていきたいと思います。右も左もわかりませんが、どうか、よろしくお願いします。」
深く一礼すると、練習棟の中に、小さな拍手が起きた。控えめではあったが、確かな温かさを持った拍手だった。
ヴェルダが、その様子を目を細めて見つめていた。
「――これで、少しは肩の荷が下りました……」
そう呟く声には、五年分の疲労が、ようやく癒えていくような響きがあった。
私は、団員たちの顔を一人一人見渡しながら、静かに決意を固めていた。
――さて。ここからが、本番だ。
この国と、この楽団と、そしてこの体に宿った若さと共に、一体どこまで行けるのか。
柄にもなく、胸が高鳴るのを感じていた。




