3,オーディション
審査員席には、5人の男女が座っていた。
端の若い書記官らしき男は、手元の書類を弄びながら、明らかに時間を持て余している様子だった。その隣の恰幅の良い老人は、腕を組んだまま、値踏みするような目をこちらに向けている。
だが、中央に座る初老の男だけは、違った。
白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけ、質素だが仕立ての良い服を纏っている。年齢は60前後だろうか。背筋を伸ばし真っ直ぐにこちらを見据えるその目には、疲労の色が濃く滲みながらも、それでもまだ何かを諦めていない、静かな光が宿っていた。
――ただの審査員には、見えないな。
その佇まいだけで、何となくそう感じた。だが、名乗られてもいない以上、詮索する筋合いはない。
「では、始めてください。まずはピアノの独奏を。」
初老の男の声は、静かだが芯のある声だった。
「はい。よろしくお願いいたします。」
私は丁寧に一礼すると、鍵盤の前に静かに腰を下ろした。
用意されていたピアノは、お世辞にも良い状態とは言えなかった。あちこちの弦が緩み、鍵盤の戻りも悪い。だが、そんなことは些細な問題だった。
――さて。久しぶりの本番だ。
小さく息を吸い込み、私は指を鍵盤に乗せた。
最初の一音を鳴らす。
――ポーーーーーーーーーン…………――――――。
空間に響いた、たった1音。しかしその瞬間、審査員席の空気が一変した。世界が止まったかのように。
楽器が鳴るのと、楽器を鳴らすのとでは意味合いがまったく違う。これまで退屈そうにしていたピアノも、今この瞬間、タクトによって幾久しい時を経て”鳴らされた”のだ。
続く和声の運び方1つ取っても、この世界の音楽理論とは根本的に異なる語法だ。前世で培った現代の和声感覚――複雑に絡み合う転調、意図的に外した不協和音をあえて美しく響かせる構成。それをこの世界の古びたピアノで、慣れない体でたどたどしくも確かに紡いでいく。
弾きながら、私はふと審査員たちの顔を盗み見た。
書記官の男は、手元の書類を弄ぶのをやめ、口を半開きにしてこちらを見ている。恰幅の良い老人も、腕を組んだまま身を乗り出していた。
初老の男だけは、微動だにせず、ただじっと耳を澄ませている。だがその指先が、膝の上でかすかに震えていることに、私は気づいていた。
――よし。
最後の和音を、この会場の残響まで計算に入れて響かせ、私は静かに指を離した。
沈黙が落ちる。数秒――いや、体感ではもっと長く感じられた。
「……失礼。今のは、一体どこの流派の……」
書記官が我に返ったように尋ねかけたが、初老の男が静かに手で制した。
「――いや。今はいい。続きを」
その声は微かに掠れていた。
◆ ◆ ◆
「即興合奏の実技です。国が用意した宮廷楽団と、リハーサルをしたのち通していただきます」
初老の男がそう告げると、扉の奥から十数人の楽団員が入ってきた。弦楽器、管楽器、それに打楽器――彼らの佇まいを見て、私は内心で少し意外に思った。
――思ったより、しっかりしている。
緊張こそ滲んでいるものの、それは実力不足からくるものではなく、むしろ先程のピアノ演奏を聴いて「久しぶりに、まともな指揮のもとで演奏できるかもしれない」という期待と不安が入り混じったものに近い。楽器を構える所作1つ、弓の持ち方1つを見ても、長く腕を磨いてきた者たちの佇まいだった。
「初めまして。今日はよろしくお願いします。」
私が丁寧に頭を下げると、楽団員たちは少し戸惑ったように顔を見合わせた。
「あ、こちらこそ……よろしくお願いします。」
ヴァイオリンを抱えた若いコンサートマスターと思わせる男が、控えめに頭を下げ返す。
「緊張なさらなくて大丈夫です。……というより、皆さんの実力を、私はまだ何も知りません。皆さんも同じく私のことを。なので今日はどうか、いつも通りの音を聞かせてください」
その一言に、楽団員たちの表情から、わずかに硬さが抜けた気がした。
視線を巡らせた先、チェロを構えた一人の女性が、他の団員たちよりも少しだけ落ち着いた様子で、こちらを静かに見つめていることに気づいた。何かを見定めるような、あるいは値踏みするような、それでいてどこか温かさを含んだ視線。
――彼女は、少し違うな。
そんな印象を胸の隅にしまい込みながら、私は視線を楽譜へと戻した。
「では――始めましょう。」
クララから渡された楽譜を、指揮台に備え付けられている譜面台に広げる。
――果たして、巧くいくかどうか。
拍子が頻繁に変わり、それぞれのパートが微妙にずれたタイミングで入ってくる、癖の強い曲だった。だが、集められた楽団員たちの佇まいを見る限り、初見でもある程度は形になるだろうという確信もあった。
「では、簡単に確認させてください。……この3小節目、フルートの入りは、通常より半拍ほど手前から息を吸っておく方が、後の展開が楽になるかと思います」
私は楽譜の該当箇所を指しながら、テンポと強弱、そして各パートが意識すべき"間"について、丁寧に伝えていった。前世で数え切れないほど繰り返してきた、リハーサル前の指示出しだ。ただの説明のはずなのに、口を開くたびに、体の奥から込み上げてくるものがあった。
――ああ。この時間が、恋しかった。
「さて、なにはともあれ。まずはやってみましょう!私に、皆さんの音を委ねてください」
私は右手を静かに掲げた。
楽団員たちの視線が、一斉にこちらへ集まる。その瞬間の空気の張り詰め方に、私は思わず胸の高鳴りを覚えた。
振り下ろす。
最初の一音が重なった瞬間、私は耳の奥で、無数の情報が一斉に流れ込んでくるのを感じた。
――ヴァイオリンの第一音、ほんのわずかに、弓の圧が強い。半拍どころではない、ほんの数瞬先んじて音の輪郭が立ち上がっている。チェロは正確だ。フルートの息の入りが、想定よりわずかに浅い。打楽器の一打目、テンポそのものは正確だが、余韻の消え際にほんの微かな揺らぎがある。
どれも、素人目には決して気づけないほどの、ごく些細なずれだった。むしろ、これだけの精度で初見の曲を合わせてくること自体、彼らの実力の高さを物語っている。だからこそ、私はその些細なずれの1つ1つを、決して見逃さなかった。
「――ヴァイオリン、そのまま。少しだけ、弓の圧を緩めて。……そうです、そのままの美しさを保ってください」
指揮を続けながら、私は静かに、しかし的確に声をかけていく。ヴァイオリンの男が、はっとしたように微かに眉を動かし、次のフレーズで見事に音の輪郭を柔らげてきた。
「フルート、そこはもう少しだけ、早めに息を。……そうです、今のです」
フルート奏者が、驚いたように目を見開きながらも、指示通りに息継ぎのタイミングを微調整する。
「打楽器の方、素晴らしいテンポです。ただ、余韻の消え際だけ、もう少しだけ長く残していただけますか」
打楽器奏者が、はっとしたように背筋を伸ばし、次の一打で確かにその余韻を伸ばしてみせた。
誰も、大きく間違ってなどいなかった。ただ、髪の毛一本ほどの精度の違いが、それぞれの内に眠っていただけだ。私はただ、その眠っていた精度を、一つ一つ丁寧に引き出していっただけに過ぎない。
音が、少しずつ、寸分の狂いもない1つの流れへと束ねられていく。
チェロの女性だけは、最初から乱れらしい乱れがほとんどなかった。それでも、私が他の奏者に指示を出すたび、彼女はまるでその意図を先読みするかのように、わずかに自分の音色を寄せてくる。合わせるということの本質を、他の誰よりも理解しているような弾き方だった。
――彼女は、後で少し話を聞いてみたいですね。
そんなことを思いながら、私は指揮を続けた。
そして――終盤の一小節。
全員の音が、髪一筋の狂いもなく完全に重なった瞬間、会場の空気そのものが、ふっと震えたのが分かった。
目に見えるはずのない何かが、確かにその場に満ちていた。淡い光の粒子のようなものが、演奏者たちの周囲に一瞬だけ立ち上り、すぐに溶けるように消えていく。
「――ッ!?」
審査員席から、驚愕の声が上がった。恰幅の良い老人が、椅子から半分腰を浮かせている。
最後の一音が鳴り止み、静寂が戻る。
「……ありがとうございました」
私は静かに一礼した。それから楽団員たちを振り返る。
「皆さん、素晴らしい演奏でした。……ありがとうございました」
楽団員たちは呆然とした表情のまま、それでもどこか誇らしげに、互いに顔を見合わせて頷き合っていた。チェロの女性だけが、こちらをじっと見つめたまま、小さく口の端を上げていたのを、私は視界の端で捉えていた。
◆ ◆ ◆
初老の男が、ゆっくりと立ち上がった。その動きには、明らかに先ほどまでとは違う、抑えきれない何かが滲んでいた。
「……今の共鳴反応を、数値で確認したい。計測官、記録は」
「は、はい!ただいま――」
控えていた計測官が、震える声で数値を読み上げた。その数字を聞いた瞬間、審査員席がどよめいた。
「……馬鹿な。この国で、いや……未だかつて……まさかこんな数値が出るなど……」
恰幅の良い老人が、呆然と呟く。
初老の男は、しばらくの間何も言わずに計測機を見つめていた。だがその目には疑念や困惑ではなく、もっと切実な、まるで長い渇きの果てにようやく水を見つけた者のような、縋るような光が宿っていた。
「……信じられません。いやしかし――信じたい、というのが本音です。」
それから暫くして、控室で待っていた私の元に一人の係員が寄ってきた。先程の会場へ来るようにと。
私がホールに入ったところで、初老の男は椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。その足取りは、どこか震えているようにも見えた。
「私は長年、この国のためにこの役目を務めてきました。……何人もの候補者を見てきました。ですが、これほどの才を目の当たりにしたのは、初めてです。」
「――ありがとうございます。」
「いや、礼を言うのは私の方です。……あなたのような人が、まさかこの国に現れてくれるとは。」
初老の男は、そこで一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「タクト殿、か。……この国が今、どれほどの窮地にあるか、あなたはご存知でしょうか?」
「噂程度には。」
「そうですか。……ならば、単刀直入にお聞きします。」
初老の男は、まっすぐにこちらを見据えた。その眼差しに込められた熱量は、隠しようもないほどはっきりとしていた。
「この国の、宮廷楽団を――率いていただけないでしょうか?」
私は、その言葉の重みを噛みしめるように、一度深く頷いた。
「はい。私で宜しければ喜んで、務めさせていただきます。」
その返事に、初老の男はまるで長年背負ってきた重荷をようやく下ろせたかのように、深く、深く息を吐いた。その目元には、微かに光るものがあった。
「――ありがとうございます、本当に。」
ホールの覗窓の外から、こちらの様子を窺っていたのであろうクララと、一瞬だけ目が合った気がした。その口元が、小さく綻んでいるように見えたのは、きっと気のせいではないはずだ。




