7,涙の変奏曲
全体練習を終えた夕刻、私はヴィヴィと二人で小さな練習室にいた。
「今日から数回、この曲を中心に見ていきたいと思います」
私は持参した楽譜をヴィヴィに手渡した。
「『涙の変奏曲』、ですか。……初めて見る曲名です」
「私が、この国の古い旋律集から見つけてソロ用に手を加えたものです。……単独の主題が、何度も形を変えながら繰り返される曲で。最初は静かに、一人で始まる主題が、途中から他の楽器と絡み合いながら変化していきます。……ですが、最後にもう一度、冒頭とまったく同じ主題が、たった一人で戻ってくる。そういう構成なんです」
「一人で、始まって……一人で、終わる」
ヴィヴィは楽譜をなぞりながら、小さく呟いた。
「はい。……あなたに、この曲を弾いてほしいと思いました」
「――分かりました。まずは、最初から通して弾いてみます」
◆ ◆ ◆
弾き始めたヴィヴィの音は、いつも通り破綻のないものだった。私はピアノで伴奏を弾きながら、目を閉じて耳を澄ませる。
王都までの道中、口笛と草笛の鍛錬で研ぎ澄ませた耳は、前世からの耳の良さをさらに強化した形で、普通の人間には聞き取れないはずの音のごく微細な質感の違いまでも拾い上げてくれる。ヴィヴィの弓が弦を捉える瞬間、その音の奥底に、何か眠っているような、押し殺されたものの気配を感じた。
――これは、共鳴の光じゃないな。音そのものの"手触り"、とでも言うべきものか。音楽以前の、なにか別のことが……?
一曲を弾き終えたヴィヴィが、私の顔色を窺うように見つめてくる。
「……いかがでしたか」
「技術的には、何も言うことがありません。……ただ、少し、この国の魔法理論について、確認させてもらえますか」
ヴィヴィは少し意外そうな顔をした。
「魔法理論、ですか?」
「はい。……神父様のところにあった書物には、断片的なことしか書かれていませんでしたから。実際に演奏している方の話を、一度きちんと伺ってみたかったんです」
ヴィヴィは頷き、椅子に座り直す。
「――分かる範囲でよければ。私も専門家というわけではありませんが」
「まず、一つ確認したいのですが。……独奏で、共鳴の光のようなものが実際に発生することはあるんですか?」
ヴィヴィは少し首を傾げた。
「独奏では、基本的に起きません。……一人の魔力量では、目に見える形の現象を起こすには、あまりにも足りないんです。古い文献にも、"個人の揺らぎは、共鳴の種にすぎない"と書かれています」
「種、というのは?」
「一人の演奏者が生む揺らぎそのものは、実際には何の効果も持ちません。ですが、その揺らぎの"質"――どれだけ整っているか、どれだけ真っ直ぐか、というのは、合奏に加わったときに初めて意味を持ちます。良い種ほど、他の揺らぎと重なったとき、より大きく美しい共鳴を生む」
私は内心で頷いた。
――なるほど。だから私には、彼女の音の奥に眠っている"何か"は感じ取れても、それが実際に光として現れることはない、というわけか。
「では、複数の揺らぎが正しく重なったとき、その効果は、単純な足し算ではないんですね」
「はい。……古い文献では、"倍音のように"と表現されています。正しく重なった音は、単純に2倍、3倍になるのではなく、幾何級数的に増幅すると」
「――逆に言えば、揃わなかった音は、増幅されるどころか、むしろ互いに打ち消し合ってしまう、と」
「その通りです。……だからこそ、合奏において"束ねる"存在――指揮士が、決定的に重要になるんです」
ヴィヴィの声に、初めて熱がこもった。
「私たち演奏者は、自分の揺らぎを正確に保つことしかできません。ですが、隣の人の揺らぎが、自分と正確に重なっているかどうかは、演奏しながら把握するのは至難の業です。……そこで初めて、外側から全体を聴き、瞬時にずれを補正できる存在が必要になる」
「それが、指揮士」
「はい。……ですが、本物の指揮士は、本当に稀なんです。ただ拍を示すだけの指揮者は、それなりの数がいます。……でも、50人分の揺らぎを同時に聴き分け、髪の毛一本ほどのずれまで正確に把握して、その場で修正の指示を出せる人は……この大陸全体を見ても、片手で数えるほどしかいないと言われています」
その言葉に、私は改めて、自分がこの世界でどれほど特殊な立場に置かれているのかを実感していた。
――ああ、だから大国が、指揮士一人に厚遇を積むのか。
「そして、もう1つ」
ヴィヴィが続けた。
「本当に優れた共鳴が生まれたとき――つまり、演奏者全員の揺らぎが理想的な形で重なったとき、その効果は、単に"大きくなる"だけではないんです。効果の"質"そのものが、変わることがあると言われています。……例えば、通常の合奏で天候に働きかければ、一時的に小雨を降らせる程度の効果しか出ません。ですが、歴史上、ごく稀に記録されている"完全共鳴"と呼ばれる状態では、数ヶ月分の干ばつを一夜で癒し、更には土壌の改善や成長促進までも促す効果が付与されるとも……そういった記録も大昔ではありますが、過去にはあったようです。」
私は思わず、目の前のチェロを見つめた。
――技術が上がれば上がるほど、量が増えるだけじゃない。質そのものが変わる、か。それなら、私がこの楽団を鍛え上げる意味も、もっと大きなものになる。
◆ ◆ ◆
「――さて、理論の話はこのくらいにして」
私はピアノの前に座り直した。
「もう一度、この曲を弾いてみてください。今度は、あなたの音の奥にある"何か"を、私が聴いています」
「――はい」
ヴィヴィは再び弓を構えた。弾き始めた旋律に、私は再び意識を集中させる。
数小節が過ぎた頃、あの押し殺された気配が、また微かに顔を覗かせた。しかし途中まで来たところで、まるで自分で蓋をするように、沈んでしまう。
「――今の箇所、何かを抑え込みましたね」
弾き終えたヴィヴィに、私はそう指摘した。
「……気づいて、いなかったです。自分では」
「無意識なんだと思います。……この曲は、途中で他のパートと絡み合いながら大きくうねっていく部分があります。恐らく、そこであなたの音は、本来ならもっと豊かに膨らむはずなんです。ですが、今のあなたは、その手前でいつも、無意識に自分を抑えている」
「――どうしてでしょう……」
その問いは、私にというより、彼女自身に向けられているように聞こえた。
「……それは、これから一緒に、探していきましょう」
私はそう答えるに留めた。
「今日のところは、もう一度、同じ場所を弾いてみてください」
「――はい」
ヴィヴィは再び弓を構えた。だが、意識してしまったせいか、先ほどよりもさらに硬い音になってしまう。
「――すみません、今のは」
「大丈夫です。……焦らなくていいですよ。今日はまず、この曲に慣れることから始めましょう」
私はピアノの前に座り直し、ヴィヴィの旋律に、控えめな伴奏を添え始めた。彼女が一人で背負い込んでいるものを、少しでも分かち合えるように。
窓の外は、すっかり夕暮れに染まっていた。




