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第六話 胃液の湖を越えて

観測施設に残された記録と、集落の住人たちから集めた情報を突き合わせ、俺たちは胃袋の最奥に存在する「深部への通路」の場所を突き止めた。


 体内で迎える『六日目』——いよいよ集落を旅立つ日がやってきた。


「本当にあそこを通っていくのかい……?」


 集落の広場で、マリアさんが心配そうに暗闇の奥を指さす。

 その視線の先には、一面に広がる黄色い波が不気味にうねっていた。胃液の湖だ。


 深部へ続く肉壁の割れ目にたどり着くには、この広大な胃液の湖を渡らなければならない。

 だが、普通の船や木材では、水面に触れた瞬間にジュウジュウと音を立てて溶けてしまう。


「安心してください。僕たちの特製ボートなら完璧です!」


 タクマが胸を張って披露したのは、集落の男たちと徹夜で作った小型の筏(いかだ)だった。

 耐酸性を持つ巨大な甲殻類の殻を船体にし、強靭な植物繊維で縛り固め、さらに隙間を耐酸塗料代わりの粘液で埋めた力作だ。


「……見た目は完全に『巨大なエビの殻に乗り込む人間』だけどね」


 アオイが半目で筏を見つめながら呟く。


「いいだろ別に! 溶けないことが最優先なんだから! ほら、ケントも乗れよ!」


「壊れませんよね……? 途中で底が抜けて『エビの殻ごと人間スープ』とか嫌ですよ……?」


「不吉なこと言うな! ほらユウマ、出発だ!」


 集落の人々が集まり、俺たちに声をかけてくれる。

 乾かしたきのこや保存肉、頑丈な金属片で作ったナイフなど、貴重な物資をたくさん分けてくれた。


「気をつけてな、若いの」

 ルークが俺の肩をぽんと叩き、槍を握り直した。

「この先は、俺たちも足を踏み入れたことがねえ場所だ。何があっても生き残れよ」


「はい! ルークさんも、みんなも……ありがとう!」


 俺たちは集落の人々に見送られ、エビ殻の筏に乗り込んだ。

 オール代わりの甲殻類の脚を使って、慎重に胃液の湖へと漕ぎ出す。


 ザーッ……ザーッ……。


オールが黄色い湖面をかくたび、酸っぱい臭いと激しい湯気が立ち上る。

 振り返ると、集落のぼんやりとした明かりが、少しずつ遠ざかっていった。


「出発しちゃったね……」


 アオイが小さく呟く。

 慣れ親しんだ(と言っても四日ほどだが)安全な(安全でもないんだが)場所を離れる恐怖が、じわじわと胸をしめつける。


「後戻りはできない」

 俺はオールを握り直した。

「残された時間は、あと二十四日。立ち止まってる暇はないんだ」


「おうよ! 湖をサクッと渡って、魔王の心臓まで一直線だな!」


 タクマが威勢よく叫んだ、その時だった。


 ポコポコポコ……ッ。


 筏のすぐ隣の湖面から、激しい泡が湧き上がり始めた。


「……ねえタクマ。サクッと渡るって言った直後にフラグ立てるのやめてくれない?」


 アオイのひきつった声と同時に、湖底から巨大な「影」が、ゆっくりと浮上してきた。


 ポコポコポコ……ッ


 甲殻類の殻で作った筏のすぐ脇で、黄色い湖面が激しく泡立ち始めた。

 酸っぱい蒸気が一気に立ち込め、視界が白く煙る。


「うわああっ! なんだなんだ!? フラグ回収が早すぎるだろ!」


 タクマが悲鳴を上げながらオールを握り直す。


「だから言ったじゃない! 余計なこと言うから!」


 アオイが絶叫するのとほぼ同時に、湖面を割って巨大な怪物が姿を現した。


 それは、胃液の強酸に耐える分厚い鱗に覆われた、巨大なオタマジャクシと魚を掛け合わせたような異形の生物だった。眼球はなく、ヌメついた頭部には無数の触覚が生えている。


 バシャアアン!


 怪物がしなる巨大な尾ヒレで湖面を叩くと、胃液の飛沫が津波となって押し寄せてきた。


「伏せろ!」


 俺の叫びと同時に、全員が筏の底に身を投げ出す。

頭上を通り過ぎた胃液の飛沫が、筏の縁にわずかに触れ、ジュウウウッと嫌な音と蒸気を上げた。


「くそっ、耐酸コーティングが削れる! 何度も波をかぶったら溶かされるぞ!」


 ケントが悲鳴を上げながら眼鏡を押し直す。

怪物は濁った水中に潜ったかと思うと、音もなく筏の真下へと回り込んできた。


ドガアアン!


「うわあああぁぁっ!?」


 激しい突き上げが襲い、筏が大きく傾く。

足滑らせたタクマの身体が、黄色い湖面に向かって投げ出されそうになった。


「タクマ!」


 俺とアオイが咄嗟に手を伸ばし、落ちかけるタクマの襟首と両腕を力任せに掴み引っ張り戻す。


「助かっ……た……! 胃液にダイブとかマジで笑えないから!」


「泣き言はあと! 次が来るわよ!」


 アオイが指さす先で、怪物が再び湖面から頭を覗かせていた。眼球がない代わりに、頭部の触覚が細かく震えている。


「……待て、あいつ目が見えてないんじゃないか?」


 激しい揺れの中で、俺は冷ややかに怪物の動きを観察していた。


「目が見えない……? どういうことだ、ユウマ!」


「あいつ、俺たちがオールで水を掻く音や、筏が水面を叩く振動に反応して襲ってきてるんだ。だから真っ直ぐ俺たちに向かって突っ込んでくる!」


「音と振動に反応……なるほど! 視界のきかない強酸の湖に適応した進化ですね!」


 ケントが叫び、納得したように膝を打つ。


「納得してる場合か! どうするんだよ、湖の真ん中でオール漕ぐの止めたら立ち往生だぞ!?」


 タクマの言う通りだった。音を立てずにこの広大な湖を渡り切ることは不可能だ。

怪物はすでに口を大きく開け、鋭い牙を剥き出しにしてこちらへ突進してきている。


「逃げるのをやめるわけにはいかない……だったら、振動を逸らす!」


 俺は集落から譲り受けた物資の中にあった、頑丈な金属片と紐を引っ張り出した。


「ケント! 湖に浮かんでるあの漂流物の岩、あっちに向かってこれを投げられるか!?」


「任せてください! 物理の授業の放物運動や斜方投射の理論で遠投のフォームは予習済みです!」


「体育じゃなくて理科かよ! あとフォームだけで投球経験ゼロだろお前!」


 タクマのツッコミを背に受けながらも、ケントは受け取った金属片を全力で振りかぶり、離れた場所に浮かぶ巨大な骨の廃沫めがけて投げつけた。


カーン!


 金属片が奇跡的に岩に当たり、甲高い音が湖上に響き渡る。

湖面を伝わる振動に反応し、突進してきていた怪物が一瞬で向きを変えた。


バッシャアアン!!


 怪物は激しい勢いで骨の廃沫へと喰らいつき、そのまま湖底へと沈んでいく。


「よし、かかった! 今だ、全力で漕ぐぞ!」


「おうよおっ! 死に物狂いダッシュ!!」


 俺の合図で、全員が全速力でオールを動かした。

バシャバシャと激しい水音を立てながら、対岸の肉壁の割れ目を目指す。


 数秒後、騙されたことに気づいた怪物が再び湖面から飛び出し、怒りの咆哮を上げて追撃してきた。だが、すでに対岸は目の前だった。


「届いてくれぇぇぇっ!」


ドスッ!


 筏の先端が、対岸の浅瀬の肉壁に強く乗り上げた。


「飛び降りろ!」


 四人は足元が溶けないよう注意しながら、陸地へと転がり込む。

直後、背後で巨大な顎が空を切ってガチリと音を立て、怪物はそのまま胃液の湖へと滑り落ちていくのだった。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 浅瀬の固い床に大の字になって倒れ込み、四人は激しく肩を上下させた。

全身汗だくで、恐怖で膝がガクガクと震えている。


「死……死ぬかと……思いました……」


 ケントが眼鏡を外して涙目になりながら呟く。


「もう嫌………魚も……オタマジャクシも全部嫌……」


 アオイがぐったりと顔を覆った。


「たく……サクッと渡れるなんて二度と言わねえよ……」


 タクマが本気で反省したように天井を仰ぐ。

俺は起き上がり、無事だった特製筏と、背後に広がる広大な胃液の湖を振り返った。


 胃袋の中には、ただ胃液が溜まっているだけではない。この過酷な環境に適応し、異物を貪り食う独自の生物まで生息しているのだ。


「でも……なんとか越えられたな」


 俺の言葉に、みんながゆっくりと顔を上げた。

目の前には、胃袋のさらに奥へと続く暗い肉の通路が広がっている。


 残された時間は、あと二十四日。

僕たちは、捕食者の潜む胃液の湖を乗り越え、確実に次の一歩を踏み出していた。



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