第二十話 残された時間は十日
久方ぶりに訪れた、完璧な「平穏」だった。
体内で迎える『二十日目』——。
この巨大な魔王の胃袋に呑み込まれてから、ついに二十日が経過した。完全消化されるまでのタイムリミット三十日に対し、残された時間はあと十日。物語はいよいよ一桁台へのカウントダウンを前にした、最終盤の崖っぷちに差し掛かっていた。
防護扉で外界の猛烈な血流音と風圧が遮断された観測基地の内部は、嘘のように静まり返っていた。壁にしがみついて落下の恐怖に怯えることもなく、熱い血のしぶきに叩きつけられることもない。
過去の探索者たちが遺した毛布や乾草の上に体を横たえ、俺たちは泥のように眠りこくっていた。
「……うーん……あと五分……お母さん、朝ごはんはハンバーグにして……」
「だからあんたのお母さんじゃないって言ってるでしょーがっ!!」
バシィッ!
アオイの怒声と、タクマの「ぶへっ!?」という情けない悲鳴が静かな基地内に響き渡り、俺とケントはハッと目を覚ました。
見れば、寝ぼけてアオイの脚に抱きつこうとしたタクマが、アオイの容赦ない足蹴りを顔面に叩き込まれたところだった。鼻を押さえて涙目になるタクマと、寝癖を立てたまま拳を握りしめるアオイ。
「……ふぁぁ。朝から元気だな、二人とも」
「ユウマさん、おはようございます。……本当に、久しぶりにまとまった睡眠が取れました。身体の節々の痛みがかなり引いています」
ケントがメガネをかけ直し、すっきりとした表情で微笑んだ。
固い肉の壁にしみつくような仮眠ではなく、足を伸ばして眠れた効果は絶大だった。疲弊しきっていた身体に、確かな元気が戻ってくるのを感じる。
だが、安堵に浸っていられたのも束の間だった。
ドクン……! ドクグンッ……!!
観測基地の分厚い骨壁を透かして、腹の底を揺さぶる不気味な衝撃波が伝わってきた。
心臓の鼓動が、これまでと違って明らかに激しく、そして不規則に乱れ始めているのだ。それに伴い、外部の血流が狂ったように激しさを増し、重低音の咆哮を上げている。
「な、なんだ……!? 急に鼓動が早くなってねえか!?」
タクマが鼻を押さえたまま跳ね起きる。
「……魔王の体内で、確実に『異常』が進んでいます」
ケントが真剣な表情で壁に手を当てた。
「僕たちという『異物』が体質変性にも耐えて血管深部まで侵入してきたことで、魔王の防衛本能が過剰反応を起こしているのかもしれません。あるいは、三十日の消化周期が迫り、全身の生体活動そのものが変化しているのか……」
血管の流れが不安定になり、時折激しい逆流や吐出が起きている。この体内の変異は、俺たちに「これ以上の停滞は許されない」と突きつけているようだった。
「よし……時間を無駄にはできないな。最終経路の確認と、決戦の準備を始めよう」
俺の言葉に、みんなが頷いた。
作戦机の上に、昨日見つけた『心臓全域図』と、ケントの手帳、そして先導隊の航海日誌を並べる。
ケントがペンを握り、これまでの記録と照らし合わせながら最終ルートを指でなぞった。
「この観測基地を出ると、すぐに大動脈と大静脈が合流する『心臓基部』に達します。そこから分岐する無数の弁を通り、心臓の中央——『心室』の奥に鎮座する『核』へ到達するのが唯一の経路です。ここから先は一本道……迷う余地はありません」
「よし。次は道具と素材の整理だ」
俺たちはそれぞれのリュックの中身を作戦机の上に全てぶちまけた。
胃袋の漂着物の墓場で手に入れた頑丈なハーケンとロープ。
アオイが瓶に大切に保管していた発光胞子やアルカリ粘液、怪物の硬質化した甲殻の破片。
そしてタクマが持ち歩く頑丈な金属棒と、ケントが記録し続けた手帳。
「ロープの擦り切れをチェックして結び直そう。ハーケンも研ぎ直す」
「この粘液と甲殻の破片を使えば、心臓の強力な酸性血流に耐える簡易の防護塗料が作れそうよ。服や靴に塗っておきましょ」
アオイとタクマ、ケントが手際よく資材を仕分け、決戦に向けたメンテナンスを進めていく。限られたアイテムを極限まで活用し、万全の態勢を整えていく作業は、4人の緊張感を心地よく高めてくれた。
準備が終わり、俺たちは新しく整えられた荷物を背負い直した。
防護扉の前に立ち、俺は振り返ってみんなの顔を見つめた。
「残された時間は、あと十日。この扉を開けたら、もう後戻りはできない」
「へっ、最初から戻る気なんてねえよ! 前に進んで魔王のコアを叩き割るだけだ!」
タクマが金属棒を肩に担ぎ、不敵に笑う。
「そうよ。四人で一緒に帰るんだから。準備は完璧よ!」
アオイがアノラックのジッパーをきゅっと引き上げた。
「知識も、道具も、絆も……僕たちが二十日間で手に入れた全てを持って挑みましょう」
ケントが力強くメガネを押し上げた。
覚悟は決まった。
残り十日——俺たちは、激しい鼓動が轟く心臓の核心部へ向かって、観測基地の扉を押し開けた。




