第十七話 血流に潜む巨大な影
心臓の脈動に合わせて前進と停止を繰り返しながら、俺たちは赤く波打つ血管の壁面を、下流(心臓方向)に向かって少しずつ下っていた。
体内で迎える『十七日目』——。
『ドクン!』という落雷のような鼓動とともに上流から押し寄せる灼熱の激流を、壁に打ち込んだハーケンで耐え忍び、流れが弱まるわずか数秒の合間に次の足場へと躍り出る。その作業の繰り返しは、精神的にも肉体的にも限界を削り取っていくものだった。
「ハァ……ハァ……! ユウマ、次の脈動まで……あと何秒だ!?」
先頭を這うタクマが、汗と赤いしぶきに濡れた顔を拭いながら叫ぶ。
「あと五秒だ! 全員、ロープを張って壁にしがみつけ!」
俺の声に合わせ、アオイとケントがハーケンを肉壁の筋肉層へと深く突き立てる。
直後、腹の底を揺さぶる超低音が響き、頭上から真っ赤な濁流が滝のような勢いで襲いかかってきた。
ドバババババッ……!!
「くっ……うあああっ!」
腕にかかる凄まじい水圧、いや血圧。ロープが限界まで引っ張られ、ギチギチと悲鳴を上げる。
耐える。ひたすら歯を喰いしばって耐える。数秒の地獄をやり過ごすと、ふっと圧力が抜け、頭上からの奔流が下流へと落ち切っていった。
「ふぅ……! なんとか……持ちこたえたわね……」
アオイが荒い息を吐きながら、濡れた髪をかき上げる。
だが、安堵したのも束の間だった。
「……みなさん、足元の川面を見てください! 血流の中に……何かいます!」
一番後ろを守っていたケントが、引きつった声で叫んだ。
俺たちが慌ててすぐ下の赤い大河を覗き込むと、透明度の低い血流の奥深くに、巨大な黒い影が蠢いているのが見えた。
影の大きさは、大型バスほどもあるだろうか。
魚でもなければ、虫でもない。半透明の分厚いゼリー状の肉体に、無数の触手を蠢かせた異形の巨躯。その中心には、不気味に赤く光る巨大なコアが揺らめいていた。
「な、なんだよあいつ……! 船みたいなデカさだぞ!?」
タクマが固まる。
「血管の清掃・防衛を司る、巨大マクロファージの変異体です……!」
ケントが手帳を落としそうになりながら叫ぶ。
「肺にいた奴らとは桁が違います! 血管に紛れ込んだ巨大な異物……つまり僕たちを丸呑みにして消化するために、血流に乗って浮上してきています!」
ギシャアアアアッ……!!
血流を割って、巨大な影が姿を現した。
粘着質の液体を撒き散らしながら、無数の巨大な触手が壁にへばりつく俺たちに向かって一斉に伸びてくる!
「くそっ! 来るぞ!」
タクマが金属棒を振り下ろし、迫る触手の一本を激しく叩き落とす。ガチィン! と重い手応えが響くが、ゴムのような肉体は傷ひとつ負わず、逆にタクマの腕を絡め取ろうと蠢いた。
「刃物が通りにくいのよ! 弾かれちゃう!」
アオイがナイフで切りつけるが、敵の表面を覆う厚い粘液に滑り、有効打を与えられない。
だが、不意を突かれたのはケントだった。
「うわっ……!?」
血流の割れ目から伸びてきた巨大な触手が、ケントの胴体を直接絡め取り、濁流の底へと引きずり込もうと締め上げる。
「ケント!」
一番前にいた俺は、腰に結んだロープを通じて伝わる激しい引っ張り合いの衝撃に耐えながら、踏ん張って身体を支えた。
「アオイ、タクマ! ケントのロープを引け!」
俺たちの号令に合わせ、アオイとタクマが必死の形相でケントの繋がるロープをたぐり寄せ、さらにアオイがナイフで触手の根元を叩いてどうにか引き剥がした。
まずい。壁にしがみついている俺たちは機動力がゼロだ。このまま触手に捕まれば、ロープごと引きちぎられて血の池に引きずり込まれる!
「待て……! あいつの動きを見ろ!」
俺は必死に頭を巡らせ、怪物と血流の関係に目を凝らした。
巨体ゆえに、あいつ自身も心臓の脈動がもたらす『激流』の影響を強く受けている。
心臓が脈打つ瞬間、上流から押し寄せる強烈な血圧に押され、あいつは一時的に壁への固定を失って姿勢を崩していたのだ。
「ケント! 次の心拍まであと何秒だ!?」
「えっ!? あ、あと三秒です!」
「みんな、あの怪物が激流に押される瞬間に合わせるんだ! 壁を強く蹴って、横の肉棚へ跳び移るぞ!」
「跳ぶって……この壁にしがみついたまま、あのデカい奴の横を擦り抜けるのか!?」
タクマが目を剥く。
「あいつは激流の瞬間、血圧にあおられて踏ん張りが利かなくなる! 横に回避するならその一瞬しかない!」
俺はロープを短く巻き取り、全員を鼓舞した。
「三……二……一……今だ、跳べっ!!」
ドクン……ッ!!
爆音とともに心臓が脈打ち、上流から津波のような滝が押し寄せた瞬間、俺たちは一斉に壁を強く蹴って横へと跳んだ。
同時に、巨大な怪物の巨体が凄まじい水圧……いや血圧を真っ向から受け、ガクリと大きく体勢を崩して俺たちのいた壁面へ倒れ込んでくる。
寸前のところで怪物の巨躯を横目にかわし、俺たちは隣の肉棚へしがみついた。
「お前はそのまま流されてろッ!!」
体勢を崩したすれ違いざま、タクマが渾身の力で壁の硬い軟骨破片を、無防備になった怪物のコアに向かって投げつけた。
ドカッ!
核に直撃を受けた怪物は悲鳴のような音波を上げ、体勢を立て直せないまま、上からの猛烈な奔流に呑み込まれて血管の遥か下流へと押し流されて消えていった。
「ハぁ……ハぁ……! や……やったか!?」
次の足場にしがみつき、タクマが下流を見下ろす。
巨大な影は二度と浮き上がってこなかった。
「ふぅ……間一髪でしたね。血流の周期を敵攻撃のタイミングにぶつけるなんて……冷や冷やしましたよ」
ケントが胸を撫でおろし、メガネを掛け直す。
だが、息を整えた俺たちの前に、すぐさま次の問題が重く伸しかかってきた。
全身ビショ濡れで体力を使い果たした俺たちは、今夜どこで眠ればいいのか、という切実なサバイバル問題だ。
「……なぁ、ユウマ。俺たち、今夜はまさかこの壁にハーケンでぶら下がったまま寝るわけじゃないよな?」
タクマが半泣きのような顔で、足下の赤い濁流を見つめる。
「絶対嫌、私はそんな睡眠!」
アオイが即座に首をぶんぶんと振る。
「どこかに血流の届かない安全な窪みか、横穴があればいいんだが……」
俺がランタンの灯りで周囲を照らすと、少し下流の壁面に、太い静脈弁が覆いかぶさるようにして出来た『肉のひさし』を発見した。血流が激しく流れ落ちるときでも、そのひさしの内側には液体が届きそうにない。
「あそこだ! あの肉のひさしの裏側なら、血に流されずに横になれる!」
「よっしゃあ! ベッド発見!」
タクマが歓声を上げ、最後の力を振り絞ってハーケンを打ち込みながらそのポケットへ滑り込んだ。
俺たちも続いて中へ逃げ込む。予想通り、ひさしが激しい血のしぶきを遮ってくれ、四人がちょうど肩を寄せ合って座れるスペースが確保されていた。
「ふぅ……生きた心地がしない一日だったわね」
アオイが濡れた上着を脱いで絞りながら、ハァと大きなため息をつく。
「でも、怪物の襲撃もしのげて、寝床も確保できました。十七日目もなんとか生存です」
ケントが手帳に無事を記録しながら、力無く笑った。
「よし、今夜はロープでお互いをこの壁の根っこに縛り付けた状態で寝るぞ。タクマ、アオイを蹴っ飛ばして落とすなよ」
「失礼な! 俺の寝相は世界一静かだっつの! ……ぐぅ」
「もう寝てるし、こいつ……」
アオイの呆れ声とタクマの秒速の寝息に、俺とケントは思わず顔を見合わせて小さく吹き出した。
地響きのような「ドクン……ドクン……」という心音と強烈な鉄臭さに包まれながら、俺たちは生ぬるい肉のポケットで互いのロープを固く結びつけ、泥のような眠りについた。
残された時間は、あと十三日。
血管の死闘をひとつ乗り越え、俺たちは着実に心臓への距離を縮めていた。




