第十五話 魔王の異変
グレッグから託された裏ルートの地図を手に、俺たちは肺の最深部——血管へと繋がる『網状毛細血管』の境界領域を目指して進んでいた。
体内で迎える『十五日目』——。
三十日のタイムリミットの、ちょうど半分。折返し地点となるこの日、魔王の体内に明確で不気味な「変化」が起き始めていた。
「……ッ、なんだ!? 地震か!?」
先頭を走っていたタクマが、足元の肉床が激しく波打ったことで体勢を崩し、思わず膝をついた。
グラグラと足元が揺れるだけではない。頭上に聳え立つ巨大な気管支の幹や発光肺胞が、まるで悲鳴を上げるように軋んだ音を立て、荒々しく揺れ動いている。
「地震ではありません! 魔王の体内そのものが揺れているんです!」
ケントが倒れそうになる眼鏡を慌てて押さえながら叫ぶ。
「空気の流れが……! これまでの『三分周期』のバイリズムが完全に崩れています!」
ケントの言葉通りだった。
これまで正確無比に刻まれていた呼気と吸気のリズムが、狂ったように乱れていた。
急激に冷たい暴風が吹き抜けたかと思えば、数秒後に猛烈な吸引力が全方位から襲いかかり、またすぐに不自然な静寂が訪れる。まるで、魔王自身が激しい苦痛に悶え、荒い息を吐き散らしているかのようだ。
「きゃああっ!?」
突如として真横から吹き荒れた爆風に、アオイの身体が軽く浮き上がった。
「アオイ!」
俺は力任せに腕を伸ばし、アオイの手首をガチッと掴み引き寄せる。そのまま俺たちは近くの太い血管の隆起へとしがみついた。
「ハぁ……ハぁ……! ありがとう、ユウマ……。でも、一体どうなってるの!? 急にこんな風の吹き方、今まで一度もなかったじゃない!」
「わからん! だが、おかしな変化は風だけじゃないぞ!」
タクマが視線を上げた先——肺の森のあちこちから、あの乳白色の甲殻を持つ「防衛生物」たちが、ぞろぞろと這い出してきていた。
それも、今までとは数が違う。十匹や二十匹ではない。数百、数千という白い波となって、壁の肉隙という肉隙から溢れ出しているのだ。彼らの中心にある赤い単眼器官は、危険を知らせるように激しく点滅を繰り返し、洞内に甲高い警戒音を響かせていた。
「おいおい……! あいつら、俺たちを追ってきたのか!?」
タクマが金属棒を構え直す。
「いいえ……僕たちだけを探している動きではありません!」
ケントが周囲の白い群れの動きを冷静に分析しながら叫ぶ。
「彼らは体内全体を警戒し、すべての『異物』を排除しようとパニックを起こしています! ……間違いない、魔王は俺たち人間が体内に侵入し、深部まで進んできていることを本格的に『認識』したんだ!」
「認識した……!? つまり、怪物の免疫システムが本気で俺たちを排除しにかかってきたってことか!?」
「その通りです! 熱を出して病原菌を撃退しようとする人間の身体と同じ状態です! これから先、体内のあらゆる防御機構が以前より凶暴化・活発化しますよ!」
ゴオオオオオッ……!!
魔王の荒い吐息とともに、今度は灼熱を帯びた生暖かい風が森を駆け抜けた。
環境そのものが侵入者を死に追いやるべく変質を始めている。
「長居は無用だ! グレッグさんからもらった地図の『リンパバイパス』の入り口へ急ぐぞ!」
俺は叫び、乱れる気流の隙間を突いて走り出した。
呼吸の周期が崩れたことは、恐ろしい脅威であると同時に、小さな勝機でもあった。
風が不定期に止む一瞬、そして強烈な吸引風が奥へと引きずり込むタイミング——俺たちは狂った呼吸の波を力任せに乗りこなし、追撃してくる白い防衛生物の群れをギリギリでかわしながら、暗い肉壁の裂け目へと向かって突き進んだ。
「あったわ! あの脈動する細い管が、リンパバイパスの入り口よ!」
アオイが指さした先に、他よりも一段と赤黒く明滅する細い管の亀裂が見えた。
「飛び込めぇぇぇっ!!」
タクマを先頭に、俺たちは滑り込むようにしてその狭い管の中へと飛び込んだ。
ドスンッ! ガシャアン!
後ろから追撃してきた数匹の防衛生物が管の入口に激突し、甲殻の砕ける音が響く。
俺たちは狭いリンパ管の滑り台を猛スピードで滑り落ち、白い魔物の群れと狂った呼吸の森を、間一髪で振り切った。
「ハァ……ハァ……! 脱出……したのか……?」
傾斜が緩やかになった暗い肉のチューブの中で、タクマが荒い息を吐きながら身を起こす。
追撃の音は聞こえない。だが、その通路の奥からは、今までの胃袋や肺とは比べものにならないほど重く、力強い「ドクン……ドクン……」という巨大な地響きのような鼓動が脈打っていた。
「……ふぅ。どうやら入口を塞いでくれたみたいね。あいつら、ここまでは追ってこられないわ」
アオイが管の入口に積み上がった軟骨の破片を確認し、安堵の息を漏らす。
「助かった……。だが、全員かなり体力を消耗している。この狭いバイパスの窪みで、今夜は身体を休めよう」
俺の提案に、みんな異論はなかった。
管の壁は生温かくヌルりとしていたが、狂った風が吹き荒れる外の肺森林に比べれば、遥かに安全な遮蔽空間だった。
荷物を降ろし、残りの干し肉を分け合って口に運ぶ。
「……今日で十五日目か。ちょうど半分だな」
タクマがボロボロになった自分の靴底を見つめながらぽつりと呟いた。
「ええ。タイムリミットは、あと十五日……。胃袋を抜けて、肺を乗り越えて、僕たちはここまで来ました」
ケントが膝の上で手帳を開き、ここまでのルートをなぞる。
「後半戦は、いよいよ血の流れる『血管』です。魔王の免疫本気モードと、心臓へのカウントダウンが同時に始まりますよ」
俺が静かに言葉を繋ぐと、アオイが壁に背をもたれかけ、小さく微笑んだ。
「大丈夫よ。四人でここまで来られたんだもの。あと半分、絶対に乗り切って全員で外へ帰りましょう」
管の奥から響く「ドクン……ドクン……」という重厚な鼓動を子守唄代わりに、俺たちは背中を寄せ合い、十五日目の夜の眠りについた。
魔王の異変。過熱する免疫システム。
残された時間は、ちょうど半分——あと十五日。
俺たちは心臓へと続く最終領域の境界で、来るべき明日に備えて静かに目を閉じた。




