第十四話 肺の奥の生存者
肺の奥深くに眠る廃墟の拠点。その煤けた囲炉裏の周辺で、俺たちは手記の分析と作戦の立案に没頭していた。
体内で迎える『十四日目』——。
外を吹き荒れる呼吸の風は相変わらず激しかったが、この頑丈なシェルターの内部は不思議なほど静かで、かつての生活の匂いが微かに残っていた。
「……ねえ、みんな。これ、見て」
隅の崩れかけた小部屋を調べていたアオイが、声を潜めて手招きをした。
俺たちが駆け寄ると、アオイは埃をかぶった古い木箱の裏側を指さしていた。そこには、新しく引っ掻いたような、真新しいチョークの跡が残されていた。
「これって……誰かが最近描いたもの……?」
「待ってください」
ケントが眼鏡を光らせ、その記号をじっと凝視する。
「この矢印の描き方、そして血管領域のバイパスを示すこの数値……先ほど読んだ航海日誌の筆跡とは違います。もっと新しい。まるで、最近になってここに誰かがいたような——」
ピシッ……と、背筋に冷たいものが走った。
ここは魔王の体内、それも胃袋を越えた肺の奥底だ。俺たち以外に、外の世界から飲み込まれた生存者が他にもいるというのか?
その時だった。
「――そこにいるのは、外の世界からの『侵入者』かい?」
「っ……!」
廃墟の入り口、暗がりの向こうから突然声をかけられ、俺たちは一斉に身構えた。
タクマが反射的に金属棒を構え、ユウマがアオイを背中に庇うようにして一歩前に出る。
ランタンの薄明かりの中に姿を現したのは、ボロボロの防護服をまとった一人の男だった。
年は三十代半ばくらいだろうか。痩せこけてはいるが、その目光りは鋭く、手には自作の銛のような武器が握られている。その背後には、同じように身を潜めていた数人の生存者たちの気配がうかがえた。
「……誰だ?」
俺は警戒を解かずに問いかけた。
男はふっと自嘲気味に笑い、武器を下ろして両手を軽く上げて見せた。
「警戒しなくていい。俺たちは敵じゃない。……ここがどこだか分かってて生き延びてる、数少ない仲間さ。俺はグレッグ。この肺のエリアに巣くって、もうどのくらいになるか……数えるのもやめた男だ」
「グレッグ……?」
ケントが目を見開く。
「まさか、あなたたちは……日誌にあった、かつての探索隊の生き残りですか!?」
「生き残り、ねえ……半分当たりで半分外れだな」
グレッグと名乗る男は、壁にもたれかかり、遠い目をした。
「『探索隊の生き残り』なんて、そんな大層なもんじゃねぇよ。俺は無様に負けて、この肺の片隅に落ちぶれちまってるだけの残党だからな」
「(……いや、そういう設定の自分語りを聞いてるんじゃないんだけどな……結局生き残りじゃん)」
語り始めたグレッグの横で、タクマが小声でボソッと呟いた。
「(しっ、静かに!)」
アオイが慌ててタクマの脇腹を肘で突く。
「俺たちは昔、大々的な組織としてこの化け物の腹に乗り込んだ。心臓を破壊して外へ脱出するってな。だが、お前たちが読んだはずの日誌の通り、血管の入り口で『白い悪夢』どもの大群に囲まれて、部隊はバラバラに引き裂かれた。仲間はほとんど死んだよ」
重く沈んだ空気が、廃墟の中に漂う。
「じゃあ、あなたたちはそのあと、ずっとこの肺の森で隠れて暮らしていたのか?」
タクマが尋ねると、グレッグは苦笑して首を振った。
「隠れてるだけじゃない。いつかあの血管を突破して、心臓へ辿り着いてやるって方法を探し続けてたのさ。だがな……何度挑んでもダメだった。あそことは違う、もっと奥の『網状毛細血管』って地帯があるんだが、あそこはもう門番が多すぎて、人間の手には負えない」
「毛細血管の門番……」
「そうだ。胃袋の酸や肺の風なんて可愛いもんさ。あそこは全身の免疫機能の要所だ。生き物が一歩でも踏み入れば、ありとあらゆる防衛細胞が一斉に群がって、一秒で骨まで溶かされる。お前たちのようなガキが挑むのは、犬死にに行くようなもんだ。引き返せ」
グレッグの言葉には、幾度もの絶望を味わってきた者だけが持つ、重い説得力があった。
だが、アオイは静かに首を横に振った。
「引き返すわけにはいかないの……。私たちが元の世界に帰るタイムリミットは、あと十六日しかないのよ」
「……十六日、か。無茶苦茶な野郎どもだ。だが、その目、昔の俺たちにそっくりだぜ」
「(……なんか、こいつの話し方、昔のハードボイルド映画みたいじゃないか?)」
タクマがボソッと小さな声で呟くと、アオイが即座に肘で小突きながら「うるさい」と一蹴した。
グレッグは俺たちのそんな些細なやり取りにも気づかない様子で、ポケットから使い古された一枚の小さな手描きの地図を取り出し、ユウマに差し出した。
「これをやる。俺たちが命がけで調べた、血管領域の手前の『裏ルート』だ。正面突破は絶対に無理だが、このリンパ管の隙間を使えば、防衛生物の目を盗んで網状器官の裏側に出られるかもしれない」
「これって……!」
俺は地図を受け取り、視線を走らせる。そこには、日誌には描かれていなかったバイパスの経路が緻密に記されていた。
「……でも、そんな裏ルートがあるなら、どうしてあなたたちは使わなかったんですか?」
ケントが地図を見つめたまま、素朴な疑問を口にした。
グレッグは苦笑し、己の痩せこけた腕とボロボロの防護服を見下ろす。
「通りたくても通れねぇんだよ。激しい体液の逆流に耐える体力も、長年毒気にやられた俺にはもう残っちゃいねぇ。……だが、まだ体が若くて動けるお前たちなら、ギリギリ抜けられるはずだ」
「僕たちの若さと体力を活かせば、押し切れるルート……ってことですね」
ケントが納得したように深く頷く。
「くれてやる代わりに頼みがある。……俺たちの果たせなかった夢を、その心臓まで持って行ってくれ。あの化け物に一泡吹かせてやってくれ」
「(ほら見ろアオイ! 『…俺たちの果たせなかった夢を』だってよ! 絶対古い洋画の見すぎだって!)」
「(静かにしなさいってばタクマ!)」
必死で声を殺しながら話すタクマの頭を、アオイがペシッと本気で引っ叩く。
二人の小競り合いを横目に、俺はしっかりと地図を握りしめ、グレッグに真っ直ぐな視線を返した。
「ああ、約束するよ」
かつて敗れ去った先人たちの意志が、世代を超えて今、俺たちに託されたのだ。
残された時間は、あと十六日。
肺の廃墟で新たな生存者との邂逅を果たし、俺たちはさらなる死地——血管領域へと続く秘密のルートを手に入れた。




