第十話 胃袋の先に広がる森
塞いだ軟骨の扉を背に、俺たちは細く湿った肉の隧道をひたすら登り続けた。
体内で迎える『十日目』——胃袋を包んでいたあの嫌な酸酸の熱気とドロリとした重苦しさは、登れば登るほど薄れていく。代わりに肌を刺すのは、驚くほど冷たく、どこか青く澄んだ湿り気を帯びた「風」だった。
「……なぁ、ユウマ。風が強いぞ。しかも、さっきから定期的に吹いたり引いたりしてねえか?」
先頭を行くタクマが、ボロボロになった体操服の裾をなびかせながら振り返る。
「吸気と呼気よ」
アオイが手記を抱え直し、荒い息を整えながら口を開いた。
「この化け物が外の世界で息を吸うたびに風が吹き込んで、吐き出すたびに風が引き返してるの。……私たちは今、文字通りこの怪物の『呼吸』の中にいるのよ」
「呼吸か……。スケールが大きすぎてピンと来ないな」
俺がそう呟いた直後、狭い隧道の出口が不意に明るくなった。
薄暗い暗闇に慣れていた目が、蒼白い微かな光に刺される。
「出口です! 出られますよ!」
ケントの歓声に押し背中を押されるようにして、俺たちは光の差す方へと飛び出した。
そして——そこに広がっていた光景に、全員が言葉を失って立ち尽くした。
「……嘘だろ……」
タクマの手に握られていた金属棒が、音を立てて肉の床に転がった。
目の前に広がっていたのは、胃袋の泥臭い世界とは完全に断絶された、巨大な『肉と脈の生体森林』だった。
見上げるほど高い天井は、遥か彼方の霧の奥に没して見えない。左右の壁も地平線の彼方まで広がり、まるで一つの異世界の大地に放り出されたかのようだった。
地面から天井に向かって立ち並んでいるのは、普通の木々ではない。太い幹のように聳え立つのは、網目状の血管を浮き立たせた巨大な「気管支」の幹だった。その枝の先には、蒼白くぼんやりと発光する球状の「肺胞」が、果実のように無数に実っている。
ゴーッ……ヒューッ……。
周期的な重低音とともに、頭上高くから巨大な風の波が吹き抜ける。そのたびに発光する気管支の森林が一斉にざわめき、蒼い光の粒子が粉雪のように空中へ舞い散った。
「すっげぇ……。ここ、本当に怪物のお腹の中なのか……?」
タクマがポカンと口を開け、息を呑んで天井を見上げる。
「手記の通りです……」
ケントが眼鏡を掛け直し、震える手で周囲の写真を撮るように視線を巡らせた。
「ここは肺(呼吸器系)の内部領域……! 外部から取り込まれた空気が循環し、酸素を全身の血液に送るための巨大な大空洞ですよ!」
「景色は綺麗だけど……なんだか不気味ね」
アオイが腕を抱きしめ、身体を小さく震わせた。
「胃袋と違って酸の池はないけど、この空気……冷たすぎるわ。それに、湿気がすごくて服が重くなってくる」
確かにアオイの言う通りだった。幻想的な蒼い光景とは裏腹に、肺の内部は強烈な寒暖差と高湿度の霧に包まれている。呼吸をするたびに胸の奥がキーンと冷えるような感覚があった。
「でも、確実に向かってる」
俺は一歩を踏み出し、蒼く光る巨木のような気管支の幹に手を触れた。
掌を通して、どくんどくんと力強い大脈動が伝わってくる。
「消化器官である胃袋を抜けた。この肺の森林を突破すれば、その先には全身に血液を送り出している『心臓』があるはずだ」
「おう! 目的地の首根っこが見えてきたってわけだな!」
タクマが転がった金属棒を拾い上げ、フッと不敵に笑った。
「へへっ、さっきまでの白いエビ虫どもと追いかけっこするよりは、この探検家気分のほうが幾分マシだぜ」
「油断は禁物ですよ、タクマ」
ケントが冷ややかな声をかける。
「手記にもあったでしょう。肺領域は環境こそ安定していますが、気流の乱れや、酸素を求めて生息する別の捕食者が存在する可能性があります。それに……」
ケントが自分の手首に巻きつけた手作りの日めくりカレンダーを指さした。
「今日で呑み込まれてから十日目。僕たちに残されたタイムリミットは、あと二十日です」
二十日。
その数字が放つ重みが、一瞬にして俺たちの気を引き締め直させた。
全体の三分の一の時間が、すでに経過したのだ。
胃袋を脱出したとはいえ、俺たちの命のカウントダウンは一刻一刻と刻まれ続けている。
「……分かってる。でも、俺たちは立ち止まらない」
俺は仲間たちの顔を見回した。
タクマも、アオイも、ケントも、怯えを抱えながらもその目には確かな覚悟の火が宿っていた。
「行こう。この肺の森を抜けて、怪物の心臓へ!」
霧と蒼い光が渦巻く未知の生体森林の中へ、俺たちは力強く足を踏み入れた。




