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第32話 1921年のシンギュラリティ



 会議が終わったのは、もう夕方だった。


 長い一日だった。


 各国の代表が部屋を出ていく。


 椅子が引かれる音。


 紙を束ねる音。


 通訳たちが、小さな声で最後の確認をしている。


 僕は机の上に残った速記帳を閉じた。


 今日も、ずいぶん書いた。


 主権。


 自治。


 安全保障。


 言語。


 文化。


 同じ言葉を、何度書いたか分からない。


 誰かが「正義」と言えば、別の誰かも「正義」と言った。


 誰かが「歴史」と言えば、別の誰かも「歴史」を持ち出した。


 同じ言葉なのに、意味は少しずつ違っていた。


 だから、僕はできるだけそのまま書いた。


 誰が、何を言ったのか。


 どんな言葉を選んだのか。


 どこで言葉に詰まったのか。


 そこまで記録するのが、自分の仕事だと思っていた。


 顔を上げると、新渡戸先生がまだ席に残っていた。


 机の上の紙を、ぼんやり見ている。


「先生」


 声をかけると、こちらを見た。


「今日はもう終わりですよ」


「そうでしたか」


「そうでしたか、って」


 思わず笑った。


 新渡戸先生も少し笑った。


「考えていると、時間を忘れます」


「何を考えていたんですか」


 先生は机の紙を見た。


「今日は、あまり考えていなかったかもしれません」


「じゃあ何を?」


「眺めていました」


 よく分からない答えだった。


 いつものことだった。


「帰りますか」


「ええ」


 二人で建物を出た。


 外はまだ明るかった。


 夏のジュネーブは、夕方になっても空がなかなか暗くならない。


 通りを、自動車が走っていった。


 少し前までは、馬車の方が多かったという。


 今は日に日に、自動車を見ることが増えている。


 道の向こうには、電話局の建物が見えた。


 世界は変わっている。


 戦争でたくさんのものを失った。


 その一方で、技術は驚くほど速く進んでいた。


「先生」


「はい」


「これ以上、便利になるんでしょうか」


 新渡戸先生が僕を見た。


「便利、ですか」


「ええ」


 僕は通りを走る自動車を指した。


「僕が子どもの頃、こんなものが普通に走るなんて思ってませんでした」


「私もです」


「電話も」


「そうですね」


「電信も」


「ええ」


「この前、アメリカからの知らせが、ほとんど待たずに届いたでしょう」


「昔なら船を待ったでしょうね」


「何週間も」


「何か月かもしれません」


 僕は笑った。


「そのうち、世界中の人と、その場で話せるようになるかもしれませんね」


「電話で?」


「もっと簡単に」


「どんなふうに?」


「分かりません」


「それでは予想になっていませんね」


「先生だって分からないでしょう」


「もちろん」


 新渡戸先生はあっさり言った。


「なんだ」


「なんだ、とは」


「先生なら何か答えると思っていました」


「そう見えますか」


「見えます」


 先生は少し笑った。


「それなら、見せ方だけは上手なのかもしれません」


「ずるいな」


「そうでしょうか」


 また、そんな返しだった。


 僕も笑った。


 少し歩いた。


 湖の方から風が吹いてきた。


 街角のカフェでは、仕事を終えた人たちが新聞を読んでいる。


 新聞。


 僕はそれを見て、ふと思った。


「そのうち新聞もなくなるんですかね」


「あなたがそんなことを言いますか」


「記者だからですよ」


「困るでしょう」


「困ります」


「では、なくならないことにしましょう」


「先生に決める権限はありません」


「そうでした」


 また笑った。


 こういう話をするときの新渡戸先生は、会議の中とは少し違った。


 もっと適当だった。


 いや。


 適当という言葉は違うかもしれない。


 答えを急がない。


 その場に出てきた言葉を、しばらく転がしているように見える。


「でも」


 僕は言った。


「新聞がなくなっても、情報そのものはもっと早く届くようになるんでしょうね」


「おそらく」


「もっと大量に」


「そうでしょう」


「そのうち、人間じゃなくて機械が文章を書くようになったりして」


 新渡戸先生が立ち止まった。


「機械が?」


「ええ」


「それは面白い」


「面白いですか」


「あなたの仕事を奪うかもしれないのに」


「そこなんですよ」


 僕は笑った。


「でも、計算はもう機械がやるでしょう」


「ええ」


「工場では機械が人の代わりに働いている」


「そうですね」


「だったら、文章だってそのうち」


「書けるかもしれませんね」


 先生は思ったより簡単に受け入れた。


「否定しないんですね」


「なぜ否定するんです」


「文章ですよ」


「ええ」


「人間が考えたことを、言葉にするんですよ」


「だから?」


 聞き返されて、僕は少し詰まった。


 自分で言っておきながら、理由が分からなかった。


「……なんとなく、人間にしかできない気がして」


「そうでしょうか」


 先生は歩き出した。


「今、人間にしかできないことが、百年後も人間にしかできないとは限りません」


「百年後」


「ずいぶん先ですね」


「先生が言ったんでしょう」


「そうでした」


 僕は想像してみた。


 百年後。


 もっと高い建物。


 もっと速い乗り物。


 もっと小さな電話。


 ひょっとしたら電話すらなくなっているかもしれない。


「じゃあ」


 僕は言った。


「百年後には、人が困ったことを機械に聞いたら、答えを教えてくれるようになるかもしれませんね」


「たとえば?」


「そうですね……」


 少し考えた。


「仕事がうまくいかない、とか」


「はい」


「誰かと喧嘩した、とか」


「はい」


「国と国が争っている、とか」


 新渡戸先生が僕を見た。


「ずいぶん大きくなりましたね」


「機械なら全部知ってるかもしれません」


「世界中のことを?」


「世界中の本を読んで」


「それは大変ですね」


「機械だからできます」


「なるほど」


「過去の戦争も、法律も、哲学も、全部覚えている」


「それなら、ずいぶん頼りになりそうですね」


 僕は少し意外だった。


 もっと何か、難しいことを言うと思っていた。


「そういう機械があったら、先生も使いますか」


「もちろん」


 即答だった。


「迷わないんですね」


「便利なのでしょう?」


「たぶん」


「なら、使います」


「どうすればいいかも聞く?」


「聞くと思います」


「全部?」


「聞けるなら」


 僕は笑った。


「ずいぶん素直ですね」


「便利なものを、わざわざ不便に使う必要はないでしょう」


「それもそうか」


 少し歩いた。


 湖が見えてきた。


 水面に、夕方の光が残っている。


「それなら」


 僕は言った。


「人は、悩まなくて済むようになるんでしょうか」


 新渡戸先生は答えなかった。


 僕たちはしばらく歩いた。


「ヨハン」


「はい」


「その機械は、何を答えるのでしょう」


「何を?」


「たとえば、あなたが二つの仕事のどちらを選ぶか迷っているとします」


「はい」


「一つは給料が高い」


「はい」


「もう一つは、あなたがやりたい仕事です」


「ありますね、そういうの」


「機械はどちらを勧めるでしょう」


「条件を全部聞いて、一番いい方を選ぶんじゃないですか」


「一番いい、とは?」


 また来た。


 こういう人だった。


「給料とか、将来性とか」


「あなたが好きかどうかは?」


「それも入れればいい」


「家族は?」


「入れる」


「住む場所は?」


「それも」


「誇りは?」


 僕は黙った。


「誇り?」


「その仕事をしている自分を、あなたがどう思うか」


「それも……入れればいいんじゃないですか」


「では、何をどれくらい大切にするかも、機械に決めてもらいますか」


 そこで僕は止まった。


 新渡戸先生も止まった。


 少し先を、人が歩いている。


 夫婦だろうか。


 子どもがその間を走っている。


「それは」


 僕は言った。


「自分で決めるんじゃないですか」


「そうですね」


「でも、それが決まっていれば、機械が答えてくれる」


「おそらく」


「なら、やっぱり便利です」


「ええ」


「でも」


 自分で言って、少し分からなくなった。


「結局、自分が何を大切にするかは、自分で決める?」


「そうなるでしょうね」


「だったら、そこが一番難しいじゃないですか」


 新渡戸先生は笑った。


「そうかもしれません」


「それじゃあ、百年経っても人は悩んでますよ」


「でしょうね」


「便利になってるのに」


「便利になることと、迷わなくなることは、同じではないのでしょう」


 僕は湖を見た。


 風が少し強くなった。


「オーランドも、同じですか」


 思わず口にした。


 新渡戸先生は僕を見た。


「どうでしょう」


「フィンランドが正しいのか。スウェーデンが正しいのか」


「はい」


「一番正しい答えを教えてくれる機械があったら、すぐ終わるんでしょうか」


 新渡戸先生はすぐには答えなかった。


 しばらく湖を見ていた。


「その機械は、島の人々が何を失いたくないかも知っているのでしょうか」


「全部知っている機械なんでしょう」


「では、フィンランドも、スウェーデンも、それぞれが何を恐れているか知っている」


「はい」


「なら、よい助言はしてくれるでしょうね」


「答えは?」


「さあ」


「さあ?」


「それでも最後に、誰かが選ばなければならないでしょう」


「機械が一番正しい答えを出しているのに?」


「正しい、という言葉が一つなら」


 僕は少し考えた。


 新渡戸先生は続けた。


「国にとっての正しさ」


「はい」


「島にとっての正しさ」


「はい」


「今日を生きる人にとっての正しさ」


「……はい」


「その先を生きる人にとっての正しさ」


 僕は何も言えなかった。


「すべて同じなら、簡単なのでしょうね」


「でも、違う」


「違うことがあります」


「じゃあ、どうするんです」


 先生は少し笑った。


「それを今、考えているところでしょう」


 僕も笑った。


「結局そこに戻るんですね」


「残念ながら」


「先生は、答えを知っているのかと思っていました」


「何の答えでしょう」


「こういうこと全部です」


 新渡戸先生は少し笑った。


「それは、ずいぶん困りますね」


「なぜです?」


「私が知っていることになってしまう」


 僕は吹き出した。


「じゃあ、知らないんですか」


「知らないことの方が多いでしょう」


「会議では、そう見えませんよ」


「それなら、やはり見せ方だけは上手なのかもしれません」


「ずるいな」


「そうでしょうか」


 たぶん、本当にそう思っていた。


 だから余計に可笑しかった。



 少し歩いたあと、僕はもう一度聞いた。


「先生」


「はい」


「もし百年後、本当にそんな機械ができたら」


「はい」


「人間には、何が残るんでしょう」


 今度は、少し長く沈黙があった。


 新渡戸先生は歩きながら、前を見ていた。


「自分が何を大切にしているのかを知ること」


 ゆっくり言った。


「それから?」


「相手にも、大切にしているものがあると知ること」


「それから?」


「その上で、決めること」


「正しい方を?」


 新渡戸先生は少し考えた。


「自分が引き受けられる方を、でしょうか」


 僕はその言葉を頭の中で繰り返した。


 引き受けられる方。


「正しさじゃないんですね」


「正しさは大切です」


「でも、それだけじゃない」


「ええ」


「じゃあ、何で決めるんです」


 先生は少し困ったように笑った。


「それを言葉にするのは、難しいですね」


「先生にも難しいことがあるんですね」


「たくさんあります」


「安心しました」


「なぜです?」


「人間だったので」


 先生は声を出して笑った。



 日が落ち始めていた。


 街の明かりが、少しずつ灯り始める。


 電灯。


 少し前までなかった光。


 人間は、これからもたくさんのものを作るのだろう。


 もっと速い乗り物。


 もっと便利な通信。


 もっと賢い機械。


 百年後。


 本当に、人の悩みに答えてくれる機械ができているのかもしれない。


「先生」


「はい」


「さっきの話」


「どれでしょう」


「自分が大切にしているものを知って、相手にも大切なものがあると知って、それでも最後は自分で決めるっていう話」


「はい」


「それが、武士道ですか」


 新渡戸先生は、少し歩調を緩めた。


 すぐには答えなかった。


 やがて、


「どうでしょう」


 と言った。


「また、それですか」


「便利な言葉でしょう」


「ずるい言葉です」


「そうかもしれません」


 僕は笑った。


 先生も少し笑った。


「ただ」


 新渡戸先生は言った。


「私は、そういう人間でありたいとは思います」


 それだけだった。



 駅へ向かう道で、僕はふと思い出した。


「そうだ」


「はい」


「その未来の機械が、先生より賢かったらどうします?」


 新渡戸先生は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「それなら、ぜひ相談してみたいですね」


「決めてもらうんですか?」


「いいえ」


 先生は首を振った。


「決めるのは、私の仕事でしょう」


 電灯が一つ、点いた。


 その下を、僕たちは歩いていった。



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