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第33話 もうひとつの武士道だった



 朝、コーヒーを淹れた。


 少し濃かった。


 いつもと同じ量の豆を入れたつもりだったけれど、お湯が少なかったのかもしれない。


 まあいいか。


 そのまま飲んだ。


 窓の外は晴れていた。


 テーブルの上には、昨日持ち帰った資料が置いたままになっている。


 開く。


 数字が並んでいる。


 売上。


 人件費。


 原価。


 稼働率。


 少し前までなら、数字を見ればその先にやることが見えた。


 悪い数字を探して、原因を探して、直す。


 足りないものを埋める。


 余計なものを削る。


 そうやって仕事をしてきた。


 今も、それは変わらない。


 数字は大切だ。


 利益も必要だ。


 続かなければ、守れるものも守れない。


 ただ。


 数字を見ながら、その先にいる人の顔を思い浮かべることが増えた。


 前より少しだけ。



 スマートフォンが鳴った。


 現場からだった。


『昨日の件、こちらで対応しました。写真送ります』


 画像が数枚届いた。


 問題はなさそうだった。


『ありがとうございます』


 と返した。


 少しして、


『一応、今日のやり方もこれで進めようと思います』


 と来た。


 以前なら、その場で細かく確認したと思う。


 どの手順で。


 誰が。


 何時に。


 もしこうなったらどうする。


 もしああなったら。


 指が一瞬止まった。


『了解です。何かあれば教えてください』


 それだけ返した。



 しばらくして、またスマートフォンが鳴った。


 今度は別の人だった。


『これ、どちらで進めるのがいいですか?』


 写真が二枚ついていた。


 二つのやり方。


 どちらでも致命的な問題はない。


 でも、少しだけ結果が違う。


 画面を見たまま、考えた。


 答えはあった。


 たぶん、こっちだ。


 そう思った。


 それでも、


『どっちがいいと思います?』


 と返した。


 少しして、


『自分は二枚目の方がいいと思います』


 と来た。


『なんで?』


『一枚目の方が早いですけど、明日の人がやりづらいと思うので』


 なるほど。


 僕は一枚目だと思っていた。


『じゃあ二枚目でいきましょう』


 送信した。


 スマートフォンを置いた。


 ちょっと笑った。


 自分で決めてもらおうとして、結局こっちが教えられている。


 まあ、そんなものなのかもしれない。



 午前中、何人かと話した。


 誰かが困っていた。


 誰かが怒っていた。


 誰かは、自分の判断が正しかったのか気にしていた。


 僕は前より、すぐに答えなくなった。


 立派な理由があるわけではない。


 答えた方が早い場面も多い。


 というか、ほとんどそうだ。


 それでも、ときどき待つ。


 相手が話し終わるまで。


 自分の頭の中で結論が出ていても。


 待っていると、その先にもう一言出てくることがある。


 その一言で、最初に考えていた答えが変わることもある。


 昔の僕なら、それを効率が悪いと思っただろう。


 今も、少し思う。



 昼を過ぎた頃、会議があった。


 新しい案件の話だった。


 条件は悪くない。


 利益も出る。


 受ける理由はいくつもあった。


 一方で、現場に負担がかかる。


 無理ではない。


 でも、余白はかなり減る。


「どうしますか?」


 聞かれた。


 僕は資料を見た。


 条件だけなら、受ける。


 数字だけなら、受ける。


 その方が正しいようにも見える。


 でも、引っかかるものがあった。


 会議が終わったあと、パソコンを開いた。



 AIの画面を開く。


 ずっと使ってきた。


 分からないことがあれば聞いた。


 文章を考えるときも。


 仕組みを作るときも。


 数字を見るときも。


 迷ったときも。


 ずいぶん助けられた。


 たぶん、これからも使う。



 入力欄に文字を打った。


『この案件を受けるべきか判断してください』


 そこまで打って、止まった。


 カーソルが点滅している。


 全部消した。



 もう一度、打った。


『この判断で、僕が見落としている立場はありますか?』



 送信した。


 すぐに答えが返ってきた。


 会社。


 顧客。


 現場で働く人。


 これから入ってくる人。


 既存の取引先。


 家族。


 将来の自分。


 いくつかの視点が並んでいた。


 どれも、言われればそうだと思う。


 考えていたものもあった。


 考えていなかったものもあった。


 少し前なら、そのあともう一度聞いたかもしれない。


『では、最適な判断は何ですか?』


 でも、今日は聞かなかった。



 画面を眺めた。


 正しい答え。


 ずっと、それを探していた気がする。


 仕事を始めた頃も。


 人をまとめるようになってからも。


 仕組みを作り始めてからも。


 AIを使うようになってからも。


 正しいものを見つければ、迷わなくて済むと思っていた。


 でも、たぶん違った。


 答えがあっても、決めなければならないことは残る。



 ふと、あの島のことを思い出した。


 遠い北の海。


 フィンランドとスウェーデンの間に浮かぶ島。


 誰が正しいのか。


 何を守るのか。


 百年以上前の人たちも、きっと簡単には決められなかった。


 新渡戸稲造が、本当は何を考えていたのか。


 僕には分からない。


 たくさん本を読めば、もっと分かるのかもしれない。


 資料を調べれば、もっと正確に知ることもできる。


 でも。


 全部分かったところで、最後のところまでは代わりに決めてもらえない。


 それはたぶん、昔も今も同じだ。



 武士道。


 その言葉についても、ずいぶん考えた。


 でも、最初に何を知りたかったのかは、もうよく覚えていない。


 ただ、問い続けていた。


 そうしたら、ここまで来た。



 最初から、伝えたいことがあったわけではない。


 たぶん。


 探しているうちに、


 ああ、僕はこういうことを考えていたのか、


 と気づいただけだ。



 明日になれば、また別のことを決める。


 その次の日も、たぶん。



 パソコンの画面には、まだAIの回答が表示されていた。


 もう一度、上から読んだ。


 急がずに。


 最後まで。



 返ってきた答えを最後まで読んだ。


 それから画面を閉じた。


 あとは、僕が決めることだった。



 夕方になった。


 窓の外の光が、少しずつ橙色になっていた。


 玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま」


 妻だった。


「おかえり」


 買い物袋を持っている。


「今日、寒くない?」


「朝よりは」


「そう?」


 妻は袋をキッチンに置いた。


 僕は椅子に座ったまま、その背中を見ていた。


 何か言おうと思った。


 でも、何を言おうとしていたのか、一瞬分からなくなった。



「ねえ」


「ん?」


 妻が振り返った。



「今度、旅行でも行こうか」



 少しだけ間があった。



「どこへ?」



 僕は考えた。


 考えるほどのことでもなかった。



「北欧にさ」



 なぜか、少し懐かしい気がした。



「魚がうまい島があるんだ。古い教会と、綺麗な海があってね」



 妻は少し笑った。



「ふふ、じゃあ行ってみよっか」



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