第31話 勝つよりも、守りたいもの
一か月が経った。
劇的な変化はなかった。
売上が急に伸びたわけでもない。
利益率が大きく改善したわけでもない。
誰かが突然、別人のように仕事ができるようになったわけでもない。
ただ。
少しずつ、同じ方向へ動いているものがあった。
やり直しが減った。
確認の回数が減った。
現場だけで終わる判断が、少し増えた。
一週間だけ切り取れば、誤差と言われても仕方がない。
でも、一か月並べてみると、何も変わっていないとも言い切れなかった。
それ以上に、数字にはまだ出ていない変化があった。
「これ、どうします?」
以前なら、その言葉のあとには僕の名前が続いた。
今は違う。
「小峠さん、どう思います?」
「俺ならこうするけど、別にそれでもいいんじゃない?」
「じゃあ、こっちでやってみます」
そんな会話が、あちこちで聞こえるようになっていた。
僕のところまで来ない判断が増えた。
それを成果と呼んでいいのかは、まだ分からなかった。
でも、悪くないと思っていた。
月例会議の日。
資料をスクリーンに映した。
コンサルタントは、しばらく黙って画面を見ていた。
「で」
その一言で始まった。
「何が変わったんですか?」
「確認件数は減ってます。やり直しも少し下がっています」
「少し、ですよね」
「はい」
「利益へのインパクトは?」
「今のところ、大きくは出てません」
「人件費率は?」
「ほぼ変わってません」
コンサルタントは画面を見たまま言った。
「これ、誤差の範囲じゃないですか?」
「その可能性はあります」
「じゃあ、このやり方を続ける根拠は何ですか?」
以前なら、ここで焦ったと思う。
成果に見える数字を探した。
まだ出ていない効果まで説明した。
未来の改善を、少し大きめに予測した。
自分のやっていることが正しいと証明したかった。
でも今回は、そこまで焦らなかった。
「劇的には変わってません」
自分から言った。
コンサルタントが、こちらを見た。
「ですよね」
「はい」
「だったら、一度元に戻して、基準をもっと細かく設計した方がよくないですか?」
来ると思っていた。
「判断を現場に任せすぎると、品質がばらつきますよね」
「そうですね」
「経験のある人と新人では、判断の精度も違う」
「はい」
「だったら、誰がやっても同じ品質になるように、判断基準をもっと細かくした方がいい」
僕は少し黙った。
「それを、やってきたんです」
「はい?」
「ずっと、それをやってきました」
コンサルタントは何も言わなかった。
「誰がやっても同じになるように、判断基準を作った。迷わないようにルールを増やした。例外が出たら、その例外もルールにした」
「それ自体は間違ってないですよね」
「僕もそう思ってました」
少し間があった。
「でも、細かく決めれば決めるほど、みんな僕に聞きに来るようになったんです」
コンサルタントの表情が少し変わった。
「それは運用の問題じゃないですか」
「最初は僕もそう思いました」
「じゃあ――」
「でも、違ったんです」
僕は資料から目を離した。
「判断を全部仕組みに入れようとすると、その仕組みを作った人の判断に、全員が依存するんです」
部屋が静かになった。
「ルールに書いてあることはできる。でも、書いてないことが出ると止まる。止まったら、作った人に聞く」
自分で言いながら、少し前の現場を思い出していた。
僕の名前を呼ぶ声。
確認を求めるメッセージ。
僕がいないと進まない判断。
「属人化をなくしてるつもりで」
一度、言葉を切った。
「属人化の場所を移してただけだったんです」
コンサルタントは黙った。
「現場を人に依存させないために仕組みを作った。でも、その仕組みが僕に依存してた」
誰も口を挟まなかった。
「僕がいないと判断できない仕組みって」
そこで、自分でも少し可笑しくなった。
「それ、仕組みなんですかね」
コンサルタントは何も言わなかった。
勝った、とは思わなかった。
そもそも、勝ち負けの話ではなかった。
ただ、以前ならここで相手が黙ったことが怖かった。
自分の言ったことが、本当に正しかったのか。
言い過ぎたのではないか。
変なことを言ったのではないか。
帰り道まで考えていたと思う。
今回は、不思議とそうならなかった。
やがて会議は終わった。
コンサルタントが資料を閉じた。
誰かが椅子を引いた。
一人ずつ、部屋を出ていった。
僕は少しだけ席に残った。
スクリーンには、さっきまで見ていた数字が残っていた。
売上。
人件費。
やり直し件数。
確認件数。
どれも大切だった。
どれも、間違ってはいなかった。
利益が出なければ、会社は続かない。
数字を見ることをやめたいわけではない。
評価されなくてもいい、と開き直りたいわけでもない。
できれば、評価されたい。
結果も欲しい。
でも。
それだけではないものが、自分の中にでき始めている気がした。
最近、武士道について考えることが増えた。
新渡戸稲造は、何を考えていたのだろう。
オーランドの問題を前にしたとき。
フィンランドにも、正しさがあった。
スウェーデンにも、正しさがあった。
島の人たちにも、守りたいものがあった。
もし正しさだけを比べるなら、どこかで線を引けばいい。
こちらが正しい。
こちらが間違っている。
そう決めれば、話は早い。
でも、新渡戸が見ていたのは、その先だったのではないか。
線を引いたあと。
そこに残る人たち。
守られるもの。
失われるもの。
正しいかどうかだけではなく、
何を大切にしたいのか。
何を守りたいのか。
そして、相手にも同じように大切なものがあること。
それをどう扱えばいいのか。
まだ、うまく言葉にはできなかった。
机の上に、会議資料が残っていた。
数字だけを見れば、まだ大きな成果はない。
来月、悪くなるかもしれない。
このやり方が間違っている可能性だってある。
それでも。
元に戻そうとは思わなかった。
会議で僕の案が評価されたのかは、よく分からない。
以前なら、それが気になった。
今は、少し違った。
何を守りたいのか。
そちらの方が、気になっていた。




