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第30話 It Never Entered My Mind

 ジャズにすごく詳しい、というわけではない。


 それでも、ブラッド・メルドーの来日公演だけは、ほとんど欠かさず聴きに行っている。


 妻と結婚する前からだった。


 まだ恋人同士だった頃、二人で初めて彼のピアノを聴いた。


 あれから、いろんなものが変わった。


 妻との関係も変わった。


 暮らしも変わった。


 僕自身も、昔とはずいぶん違う。


 ブラッド・メルドーの演奏だって、同じではない。


 弾く曲も、編成も、そのときどきで変わる。


 それでも、僕が毎回また聴きたくなる理由は、あまり変わっていなかった。


 彼の演奏を聴いていると、ときどき、この先どうなるのか分からなくなる。


 美しい旋律が続いていたと思ったら、不意に足元がなくなる。


 どこへ向かっているのか分からない。


 このまま帰ってこないのではないかと思う。


 少し怖くなる。


 けれど、しばらくすると、何事もなかったように見覚えのある場所へ戻ってくる。


 そこで、少し安心する。


 安心したと思ったら、また知らないところへ連れていかれる。


 昔から、そうだった。


 弾いている曲は変わっている。


 聴いている僕たちも変わっている。


 それでも、知らない場所へ連れていかれて、最後にはなぜか満足して帰ってくる。


 その感じだけは、あまり変わらなかった。


 美しさ。


 儚さ。


 その奥にある、ほんの少しの恐怖。


 そして、帰ってきたときの安堵。


 本のページを、一枚ずつめくっているときに似ているのかもしれない。


 次のページに何が書かれているのかは、まだ分からない。


 分からないから、めくる。


 結末を先に知りたいわけではない。


 ただ、この先に何があるのかを知りたい。


「最初に聴いたのって、いつだっけ」


 開演を待ちながら、妻が言った。


「結婚する前」


「そんな前か」


「そんな前だよ」


 妻は笑った。


 その笑い方を見て、僕も少し笑った。


 変わったものもある。


 変わらないものもある。


 照明が落ちた。


 拍手の中、三人がステージに現れた。


 ピアノ。


 ベース。


 ドラム。


 最初は、ピアノだけだった。


 静かな音が、ひとつ。


 そのあとに、もうひとつ。


 音と音の間に、何もない時間があった。


 ベースが入った。


 しばらくして、ドラムが入る。


 気がつくと、僕はピアノではなく、ベースを追っていた。


 さっきまで後ろにいたはずの音が、いつの間にか前に出ている。


 ベースが何かを投げる。


 ドラムが返す。


 ピアノが少し引く。


 誰かが合図をしているようには見えなかった。


 それでも、ぶつからない。


 いや、時々ぶつかっているようにも聞こえる。


 でも、そのぶつかり方さえ、曲の一部になっていく。


 妻が、小さな声で言った。


「誰が主役なのか、分からなくなるね」


 僕はステージを見たまま答えた。


「ジャズって、そういうもんじゃない?」


「そうなんだ」


 妻はそれ以上何も言わなかった。


 僕も、そのときはそれ以上考えなかった。


 曲が終わった。


 一瞬だけ、静寂があった。


 そのあと、客席から大きな拍手が起きた。


 三人は立ち上がって、頭を下げた。



 翌日、僕は現場にいた。


 小峠さんが、新しく入ったスタッフと話していた。


「ここって、どうすればいいですか?」


 新人が聞いた。


 小峠さんは、少し考えた。


「それはやっちゃダメって書いてあるでしょ」


「はい」


「じゃあ、それ以外は自分で考えていいんじゃない?」


 僕は思わず、そちらを見た。


 新人は少し困った顔をした。


「自分で、ですか?」


「うん。俺だったらこうするけど」


 小峠さんは、自分のやり方を説明した。


 でも最後に、


「まあ、やりやすい方でいいと思うよ」


 と言った。


 僕は何も言わなかった。


 少し前の僕なら、そこに入っていったかもしれない。


 判断基準を説明した。


 理由を伝えた。


 迷わないように、正しいやり方を決めた。


 その方が親切だと思っていた。


 その方が効率的だと思っていた。


 新人はしばらく考えてから、小峠さんとは少し違うやり方を選んだ。


「それいいね」


 小峠さんが言った。


 それだけだった。


 誰も僕を見なかった。


 誰も確認を求めなかった。


 僕がいなくても、困っていなかった。


 少しだけ、寂しい気がした。


 不思議なものだ。


 自分がいなくても動く現場を作ろうとしていたはずなのに、本当に自分がいらなくなりそうになると、少し寂しい。


 そのとき、昨夜のステージを思い出した。


 ピアノが前に出た。


 ベースが前に出た。


 ドラムが前に出た。


 誰か一人が、ずっと主役だったわけではない。


 それでも、曲は続いていた。


 新しく覚えた考え方だと思っていた。


 でも、違ったのかもしれない。


 僕はずっと前から、こういうものが好きだった。


 仕事では、ずっと逆のことをしようとしていたのに。



 午後、別のスタッフが僕のところへ来た。


「これ、どうしたらいいですか?」


 以前なら、すぐに答えていた。


 頭の中には、もう僕なりの答えがあった。


 でも、少し待った。


「どうしたい?」


 相手は黙った。


 僕も黙った。


 その沈黙を、埋めなかった。



 夕方、現場を歩いた。


 小峠さんが誰かと話していた。


 新人は、自分で決めたやり方で仕事をしていた。


 少し離れた場所では、別のスタッフが誰かを手伝っていた。


 誰かが前に出る。


 誰かが引く。


 必要なところに、必要な人が入る。


 昨夜の演奏が、また頭に浮かんだ。


 会社は、利益を出さなければ続かない。


 そんなことは分かっている。


 だから僕たちは、利益を出す方法を考える。


 人数を減らす。


 効率を上げる。


 無駄をなくす。


 目標を決める。


 AIにも聞いた。


 ずっと、先に答えを出そうとしていた。


 昨夜の三人はどうだっただろう。


 次の拍手を大きくするために、ベースが前へ出たわけではない。


 拍手を増やすために、ドラムが音を減らしたわけでもない。


 その瞬間に必要な音を出していただけだった。


 そして、演奏が終わったあと。


 拍手が起きた。


 僕は立ち止まった。


 拍手は、演奏が終わったあとに起きる。


 僕たちはずっと、先に拍手を取りに行こうとしていたのかもしれない。


 もう一度、現場を見る。


 誰からも指示されていない。


 誰かが評価してくれるのを待っているようにも見えなかった。


 それぞれが、そのとき必要だと思ったことをしていた。


 誰ひとり、拍手を求めてはいなかった。


 それでも。


 僕には、確かに聞こえていた。



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