第29話 To Don't...
誰が
画面には、そこまで書いてあった。
カーソルが、そのあとで点滅している。
僕はしばらく見ていた。
それから、「誰が」の前に文字を足した。
何を、誰が
そこで、また止まった。
別のファイルを開く。
契約業務。
契約外業務。
現場判断。
管理者確認。
何度も書き直した運用ルールが残っていた。
最初は、契約外のことは管理者に確認することにした。
次に、安全上の問題がなく、短時間で対応できるものは現場で判断していいことにした。
どちらにも理由があった。
どちらもうまくいかなかった。
僕は新しい表を作った。
左側に「何を」。
右側に「誰が決める」。
安全基準 会社
契約範囲 会社
契約外対応 現場
突発対応 現場
作業順序 現場
異常判断 個人
眺める。
悪くない。
もう少し分けられそうだった。
契約外対応にも、ホテルから頼まれるものと、自分たちで気づくものがある。
突発対応にも、安全に関わるものと、そうでないものがある。
異常判断にも――
「……また分けてるな」
手を止めた。
少し前なら、そのまま列を増やしていたと思う。
僕は表を閉じた。
*
「小峠さんは、どこまで現場で決めたいですか?」
電話の向こうが、少し静かになった。
「……何をですか?」
「現場の判断です。ホテルから何か頼まれたときとか、予定外のことが起きたときとか」
「ああ」
「毎回、管理者に確認するのも大変じゃないですか」
「面倒ですよ」
「ですよね。だから、どこまで現場で決められるようにしたいですか?」
「別に決めたいわけじゃないですよ」
「え?」
「何でもこっちで決めろって言われても困ります」
想定していた答えと違った。
「でも、毎回確認するのは面倒なんですよね」
「面倒です」
「じゃあ、現場で決められた方が」
「決めてほしいものは、決めてほしいです」
「会社に?」
「会社でも管理者でも」
「どれですか」
「それを俺に聞くんですか」
「今それを相談してるんですよ」
「じゃあ分かんないです」
「俺も分かんないです」
二人とも黙った。
「……何の電話ですか、これ」
「それを今考えてます」
「決まったら教えてください」
「それじゃ前と同じなんですよ」
「ああ」
また少し黙った。
「じゃあ、決まる前に教えてください」
「はい」
電話を切った。
*
判断基準を作ればいい。
そう思った。
現場で判断していい範囲を、先に決めておく。
新しいファイルを開いた。
契約外対応に関する現場判断基準。
五分以内で対応可能なものは、現場判断で対応可。
設備の分解を伴う場合は、管理者確認。
本来業務に影響する可能性がある場合は、管理者確認。
金銭負担が発生する場合は、管理者確認。
安全上の懸念がある場合は――
手が止まった。
五分以内でも、薬剤を使うなら?
一行足した。
ホテルのスタッフから直接頼まれた場合は?
一行足した。
その人に依頼する権限があるか分からない場合は?
もう一行。
五分で終わると思って始めたら、十五分かかった場合。
途中で本来業務に影響すると分かった場合。
他のスタッフを手伝わせる必要が出た場合。
判断基準は、順調に増えた。
画面の下まで来たところで、スマートフォンが鳴った。
小峠さんからだった。
さっきのやつ、文章で送ってもらえます?
「……これ送るの?」
自分で作った文章を、上からスクロールした。
*
その日の夜、小峠さんに画面を見せた。
「一応、判断基準作ってみたんですけど」
「はい」
小峠さんが読む。
指でスクロールする。
まだ読む。
もう一度スクロールする。
「これ、全部覚えるんですか?」
「まあ……」
「無理ですよ」
「ですよね」
自分でもそう思った。
「でも、何も決めないと、また前みたいになるじゃないですか」
「そうですね」
「だから、ある程度は決めとかないと」
「やっちゃダメなことだけじゃダメなんですか?」
僕は小峠さんを見た。
「やっちゃダメなこと?」
「危ないこととか。本来の仕事終わらなくなることとか」
「それだけ?」
「いや、分かんないですけど」
小峠さんが画面を僕に返した。
「こんな長いの、俺は覚えられないです」
「じゃあ、それ以外は?」
「その時考えればいいんじゃないですか」
僕は画面を見た。
五分以内。
設備分解。
薬剤使用。
依頼者。
費用。
他スタッフへの影響。
一つ選んだ。
消した。
もう一つ。
消した。
行が上に詰まった。
さらに消す。
例外のために作った条件を消した。
その例外の例外も消した。
画面が少しずつ白くなった。
最後に、三つ残した。
やらないこと
・安全が確認できない対応はしない。
・本来の業務を落としてまで追加対応しない。
・自分で判断できないことを、分かったつもりで進めない。
「……少な」
小峠さんが画面を見た。
「これなら読めます」
「じゃあ、それ以外は?」
「その時考えます」
簡単に言った。
*
「でもこれ、新人も同じように判断できますかね」
「最初は無理じゃないですか」
「ですよね」
僕は少し前のことを思い出した。
機械の不具合を、新人が自分で見ていた。
「あの人、この前、機械見てたじゃないですか」
「はい」
「あれ、なんでできたんですかね」
「さあ」
小峠さんは少し考えた。
「前に俺が似たようなの見てたからじゃないですか」
「教えたんですか?」
「教えてないですよ」
前にも聞いた答えだった。
「一緒にやってたからじゃないですか」
「それで分かるものですか」
「分かる人もいるんじゃないですか」
「分からない人も?」
「いるんじゃないですか」
そうですよね、と言いかけてやめた。
*
事務所に戻って、三つのルールをAIに入れた。
以下の禁止事項のみを共通ルールとし、それ以外を現場判断とした場合に想定されるリスクを挙げてください。
すぐに答えが返ってきた。
判断品質のばらつき。
経験の浅いスタッフによる誤判断。
責任範囲の曖昧化。
教育負荷の増加。
対応品質の属人化。
「……ですよね」
間違っていない。
むしろ、どれも起こりそうだった。
細かく決めない。
その代わり、自分で判断しなければならない。
僕は画面に一行書いた。
余白を渡すということは、判断も渡すということだった。
しばらく見た。
なんだか、分かったような文章だった。
消した。
*
数日後。
現場で、新人が床を洗っていた。
小峠さんが横を通る。
「それ、先にこっちやった方がいいですよ」
「こっちですか?」
「今日こっち多いんで」
小峠さんが奥を指した。
「はい」
それだけだった。
理由を説明したわけでもない。
作業手順を書き換えたわけでもない。
新人は機械を動かした。
しばらくして、別の場所で作業が始まった。
今度は、新人が一度周囲を見た。
予定していた場所へは行かなかった。
先に、別の場所へ機械を動かした。
小峠さんは近くにいた。
何も言わなかった。
新人も、何も聞かなかった。
教えているようには見えなかった。
少なくとも、研修ではなかった。
でも、昨日まで小峠さんが決めていたことを、今日は新人が決めていた。
*
家に戻って、最初に作った表を開いた。
何を | 誰が決める
安全基準 | 会社
契約範囲 | 会社
契約外対応 | 現場
突発対応 | 現場
作業順序 | 現場
異常判断 | 個人
一行ずつ消した。
安全基準。
契約範囲。
契約外対応。
突発対応。
作業順序。
異常判断。
最後に、見出しだけが残った。
何を | 誰が決める
それは消さなかった。
その下に、今日の運用案を置いた。
やらないこと
1.安全を損なうこと
2.本来業務を落とすこと
3.
三つ目で止まった。
さっきまでは書いてあった。
自分で判断できないことを、分かったつもりで進めない。
悪くはない。
でも、「自分で判断できない」と判断できるのは誰なのだろう。
消した。
2の下に、空白ができた。
その下には、もっと大きな空白があった。
僕は別の場所に、
To Do List
と打った。
少し考えた。
消す。
To Don't List
赤い波線が出た。
「またですか」
今度は消さなかった。
To Don't List
三つ目は、まだ空欄だった。
その下には、
もっと大きな空白があった。
今度は、埋めなかった。




