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第28話 So WHat?

 島に、知らせは届いていた。


 オーランド諸島の主権は、フィンランドに属する。


 エリンの学校にも届いた。


 紙に書かれた言葉は、子どもたちがそれを口にすると、少し違うものになった。


「先生」


「はい」


「島は、フィンランドになったの?」


 エリンは黒板に文字を書いていた手を止めた。


「なった、というのとは少し違います」


「でも、フィンランドなんでしょ」


「そうです」


「スウェーデンじゃないの?」


「そうです」


 別の子が手を挙げた。


「うちのお父さん、怒ってたよ」


「そう」


「ずっとスウェーデンがいいって言ってたから」


 すると、窓際の子が言った。


「うちは、お母さんがよかったって言ってた」


「何が?」


「決まってよかったって」


「フィンランドで?」


「たぶん」


「たぶんって何だよ」


「だって、よかったとしか言ってなかったもん」


 何人かが笑った。


 マッティが机に頬杖をついたまま言った。


「僕はどっちでもいい」


「どうして?」


 エリンが聞く。


「学校が休みになるなら、どっちでもいい」


「なりません」


「じゃあ、どっちでもよくない」


 今度は教室全体が笑った。


「先生は?」


 誰かが言った。


 エリンは黒板に向き直った。


 白いチョークを持ったまま、少しだけ止まった。


「先生」


「はい」


「先生はどっちがよかったの?」


 エリンは黒板に続きを書いた。


「今は授業中です」


「ずるい」


「先生ですから」


 後ろで、マッティが小さく笑った。


     *


 ヨハンが島へ戻ったのは、その数日後だった。


 港は、何も変わっていなかった。


 船が着く。


 荷物が降ろされる。


 海鳥が鳴いている。


 潮と魚の匂いがする。


 ジュネーブの会議室で何人もの人間が紙を広げている間も、この匂いはここにあったのだろう。


 ラーシュが魚を並べていた。


 ヨハンを見る。


「帰ったのか」


「帰りました」


「決まったんだってな」


「はい」


「フィンランドだって?」


「はい」


 ラーシュは魚を一匹持ち上げ、隣へ移した。


「俺はスウェーデンがよかったけどな」


 ヨハンは少し止まった。


「そうですか」


「前から言ってるだろ」


「そうでした」


 横で魚を見ていた男が口を挟んだ。


「俺はどっちでもいい」


 ラーシュが顔を上げる。


「お前は魚売ってないだろ」


「だから余計にどっちでもいい」


「じゃあ黙ってろ」


「客だぞ」


「まだ買ってない」


 男は魚を一匹指した。


「じゃあこれ」


「急に客になるな」


 ヨハンは笑った。


 男は財布を出しながら言った。


「学校が今のままなら、それでいいよ」


 ラーシュが魚を包む。


「俺はよくない」


「知ってるよ」


「なら言うな」


「俺の話だ」


「俺の店だ」


 ヨハンは二人を見ていた。


 ジュネーブでは聞かなかった会話だった。


     *


 家に戻って、鞄を開いた。


 書類の間に、古い新聞が入っていた。


 ストックホルムで自分が書いた記事だった。


 何度も読んだものだった。


 島の歴史。


 言葉。


 スウェーデンとのつながり。


 そして、


 島民は、スウェーデンへの帰属を望んでいる。


 ヨハンは、その一文を見た。


 間違ってはいなかった。


 住民の多くが、それを望んでいた。


 ラーシュもそうだった。


 島を離れる前の自分なら、同じ文章をもう一度書いたと思う。


 今日も、書けないわけではない。


 ただ。


 港で魚を買った男は、どっちでもいいと言った。


 学校が今のままなら、とも言った。


 子どもたちの親にも、それぞれ何かあるのだろう。


 エリンは。


 そこで考えるのをやめた。


 新聞に戻る。


 島民は――


 印刷された文字は消せなかった。


     *


 学校へ行くと、エリンは机に紙を広げていた。


「なあ、エリン」


「なに」


「俺、ストックホルムで島のこと書いてただろ」


「知ってる」


「島民はスウェーデンを望んでるって」


「うん」


「あれ、間違ってたのかな」


 エリンが顔を上げた。


「今さら?」


「今さらって」


「帰ってきて最初に考えること、それ?」


「結構大事なことだろ」


「そう?」


「そうだよ」


 エリンはまた紙に目を落とした。


「間違ってたとは思わないよ」


「でも、みんな同じじゃなかった」


「そりゃそうでしょ」


「……そう簡単に言うなよ」


「だって、同じなわけないじゃない」


「じゃあ、一人ずつ聞けばよかったのかな」


「誰に?」


「島の人、全員」


 エリンが顔を上げた。


「聞けたの?」


「……無理だな」


「でしょ」


「でも、お前には聞いておけばよかった」


「私?」


「去年だったら、なんて答えた?」


「去年?」


 エリンは少し考えた。


「去年だったら……違うこと言ってたかも」


「ほら」


「何が、ほら、なの」


「余計分かんなくなった」


「知らないよ」


 エリンは紙を一枚めくった。


「それより、これ手伝って」


「何?」


「明日の授業」


「まだ決めてないのか?」


「まだ」


「明日だぞ」


「知ってる」


「大丈夫なのか、それ」


「お兄ちゃんに心配されたくない」


「なんでだよ」


「子どもたち見てから決めるから」


「今日のうちに決めとけばいいだろ」


「今日と明日は違うでしょ」


「一日だぞ」


「一日あるじゃない」


「そういうものなのか?」


「学校はね」


 ヨハンにはよく分からなかった。


     *


 翌日、ヨハンは学校の後ろにいた。


 エリンに頼まれた本を届けに来ただけだった。


 授業はまだ終わっていない。


「先生」


「はい」


「来年もこの言葉で勉強するの?」


 昨日とは違う子だった。


「そうですよ」


「フィンランドになっても?」


「そうです」


「それもジュネーブで決めたの?」


 エリンが少し考えた。


「全部を決めたわけじゃないよ」


「じゃあ誰が決めるの?」


 ヨハンが顔を上げた。


「何を?」


 エリンが聞き返した。


「何をって?」


「だから、何を決めるの?」


 子どもは少し考えた。


「明日の授業」


「それは先生」


「休みにするかは?」


「先生じゃありません」


「なんで?」


「私も休みたいからです」


 教室に笑いが起きた。


「じゃあ宿題は?」


「先生」


「それはずるい」


「先生ですから」


 ヨハンは本を机に置いた。


     *


 家に戻って、古い紙を取り出した。


 ジュネーブで何度も開いた紙だった。


 主権。


 言語。


 文化。


 教育。


 自治。


 土地。


 安全保障。


 暮らし。


 ヨハンは、


 主権。


 の横にペンを置いた。


 フィンランド。


 そこにはもう、そう書いてある。


 教育。


 その横に、


 島。


 と書いた。


 しばらく見て、今日の教室を思い出した。


 明日の授業を決めるのは、島ではなかった。


 エリンだった。


 ヨハンは、その下を見た。


 言語。


 文化。


 自治。


 土地。


 安全保障。


 暮らし。


 ペン先を動かすたびに、書けそうな言葉はいくつも浮かんだ。


 どれも、一つでは済みそうになかった。


 ヨハンはペンを置いた。


     *


 夕方、港を通った。


 ラーシュがまだ魚を並べていた。


「まだ並べてるんですか」


「売れたから増やしてるんだよ」


「朝と場所が違いますね」


「だから何だ」


「明日もそこに並べるんですか」


「知らん」


「知らない?」


「明日の魚を見て決める」


 ヨハンは少し止まった。


「エリンも似たようなこと言ってました」


「誰が?」


「妹です」


「知ってる」


「子どもたちを見て、明日の授業を決めるって」


「それがどうした」


「ラーシュさんは、魚を見て決める」


 ラーシュがヨハンを見た。


「何の話だ?」


「いや」


「ジュネーブで変なもの食ったのか」


「食べてません」


「なら魚買え」


「昨日も買いましたよ」


「今日は今日だ」


 ヨハンは、並んだ魚を見た。


「それも、見て決めます」


「帰れ」


     *


 夜。


 ヨハンはもう一度、紙を開いた。


 主権。


 言語。


 文化。


 教育。


 自治。


 土地。


 安全保障。


 暮らし。


 その上の余白に書いた。


 誰が決める?


 しばらく見た。


 昼間の教室を思い出した。


「じゃあ誰が決めるの?」


「何を?」


 ヨハンは紙に戻った。


 書いた言葉の前に、二文字足した。


 何を、誰が決める?


 それ以上は書かなかった。


     *


 次の日。


 エリンは黒板に一行書いた。


 振り返る。


 マッティが隣の子と話していた。


「マッティ」


「はい」


「聞いていましたか?」


「少し」


 子どもたちが笑った。


 エリンも少し笑った。


 黒板を見る。


 まだ、一行しかない。


 次に何を書くかは、まだ決めていなかった。


 エリンは、子どもたちを見た。


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