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第21話 異常なし。

 夜の厨房は、静かではない。


 人がいなくなると、むしろ普段は聞こえなかった音が聞こえる。


 冷蔵庫の低い唸り。


 換気設備が回っている。


 どこかを水が流れている。


 製氷機から、ときどき氷が落ちる。


 金属が小さく鳴る。


 そこに台車の車輪が加わる。


 バケツを置く。


 水を出す。


 モップを絞る。


 洗剤を吹きかける。


 ブラシが床を擦る。


 毎晩、だいたい同じだった。


「ここからでいいですか?」


「大丈夫です」


 小峠は答えた。


 今夜は新人と二人だった。


 入ってまだ一か月も経っていない。


 覚えるのは早い。


 真面目でもある。


 分からないことがあれば聞くし、言われたことは大体一度で覚える。


 新人は台車の上からタブレットを取った。


 画面を開く。


「最初、床ですよね」


「そうですね」


「そのあと、シンク」


「はい」


「写真は最後で」


「それで大丈夫です」


「了解です」


 タブレットを台車へ戻した。


 作業が始まる。


 小峠は床を見る。


 新人は画面を見てから、床を見る。


 少しだけ順番が違った。


     *


 システムが変わってから、新しい人へ教えるのは楽になった。


 以前なら、


 ここをやって。


 終わったらあっち。


 そこは毎日。


 こっちは曜日で違う。


 これは触らない。


 これは最後。


 写真はここから。


 そんなことを、一つずつ口で説明していた。


 教えたつもりでも、抜ける。


 聞いたつもりでも、忘れる。


 翌日、別の人が違う教え方をすることもあった。


 今は、タブレットを開けばその日の作業が出る。


 場所。


 手順。


 確認するもの。


 写真。


 終わったらチェックを入れる。


 少なくとも、


「次、何でしたっけ」


 と聞かれる回数は減った。


「小峠さん」


「はい」


「ここの下もですよね」


 新人が作業台の下を指した。


「ああ。そこもです」


「画面にありました」


「ありました?」


「はい」


 新人がタブレットを見せた。


 確かに書いてある。


「ああ、本当だ」


 小峠は笑った。


「じゃあ、僕いらないですね」


「いや、それは困ります」


「困ります?」


「まだ場所が分かんないんで」


「じゃあ場所だけですね」


「それも困ります」


 二人で少し笑った。


 新人は作業台の下へしゃがんだ。


 小峠は反対側へ回った。


 悪くない。


 これなら覚えるのも早いだろう。


     *


 厨房の奥へ移った。


 営業中に使われた調理器具は片づけられている。


 火も落ちている。


 それでも設備は動いている。


 低い音が、ずっと続いている。


「この辺、油すごいですね」


「今日は多いですね」


「曜日で違うんですか?」


「曜日っていうより、何作ったかじゃないですかね」


「メニュー?」


「たぶん」


「たぶんなんですね」


「厨房の人じゃないんで」


 新人が笑った。


「小峠さん、何でも知ってるのかと思ってました」


「そんなわけないじゃないですか」


 話しながら歩いていた。


 小峠が止まった。


 新人は二歩ほど先へ行ってから振り返った。


「どうしました?」


「……いや」


 小峠は周りを見た。


 誰もいない。


 いつもの厨房だった。


 冷蔵設備は動いている。


 空調も動いている。


 表示灯もついている。


「何かありました?」


「いや。大丈夫です」


 また歩き出した。


     *


 シンクを洗った。


 排水口を外す。


 中を洗う。


 戻す。


 新人はタブレットでチェックを入れた。


「写真、これでいいですか?」


 画面を見せる。


「もう少し引いた方がいいですね」


「全体が入るように?」


「そうです」


 新人が撮り直す。


「こんな感じ?」


「はい」


 写真が保存された。


「前のは消します?」


「消しといてください」


「了解です」


 新人の方が、入力は丁寧だった。


 小峠は後でまとめて入れることがある。


 写真を撮ったまま、チェックを忘れることもある。


 新人は一つ終わるたびに画面を開く。


 確認する。


 入力する。


 次へ進む。


 抜けがない。


「こういうの得意ですね」


 小峠が言った。


「何がです?」


「ちゃんと一個ずつ終わらせるの」


「普通じゃないですか?」


「そうなんですかね」


「小峠さん、まとめてやってますよね」


「見てました?」


「見てますよ」


 また笑った。


     *


 次の場所へ移動する。


 さっきと同じ通路を通った。


 小峠が、また止まった。


 今度は新人もすぐ止まった。


「またですか?」


「何がです?」


「さっきも、ここで止まってました」


「そうでした?」


「はい」


 小峠は辺りを見た。


 そう言われると、確かに同じ場所だった。


「何かあるんですか?」


「いや」


 小峠は黙った。


 聞く。


 冷蔵設備。


 空調。


 水。


 少し遠くで、氷が落ちた。


 台車の車輪がまだゆっくり回っている。


 止まった。


「……なんか」


「はい」


「音が、一個足りない気がするんですよね」


「音?」


「はい」


 新人も黙った。


 二人で厨房に立つ。


 しばらく何も言わない。


「何の音ですか?」


「それが、分かんないんですよ」


「分かんない?」


「はい」


「でも足りない?」


「そんな気がするんです」


 新人は、もう一度耳を澄ませた。


「全然分かんないです」


「ですよね」


     *


 少しだけ探すことにした。


「これじゃないですか?」


 新人が冷蔵庫を指した。


「動いてますね」


「この音じゃなくて?」


「たぶん違います」


「たぶん」


「分かんないって言ってるじゃないですか」


「あ、そうか」


 表示を見る。


 異常なし。


 温度もいつもと変わらない。


 隣の設備を見る。


 電源は入っている。


 エラー表示もない。


 小峠が奥へ行く。


 新人もついてくる。


「こっちかな」


「何ですか?」


「いや、違うな」


「早いですね」


「何が?」


「違うって分かるの」


「分かんないです」


「また?」


「だから分かんないんですって」


 新人が笑う。


 小峠も笑った。


 別の設備の前で止まる。


 二人で聞く。


 動いている。


「これじゃないですか?」


「これはいつもこの音です」


「これは分かるんだ」


「これは分かります」


「じゃあ、何が分かんないんですか」


「それを探してるんですよ」


 少しだけ面白くなってきたらしい。


 新人も自分から設備を見始めた。


 表示。


 スイッチ。


 水。


 ランプ。


「こっち、静かじゃないですか?」


「ここはいつも静かです」


「難しいな」


「もういいですよ」


「いいんですか?」


「仕事終わらなくなるんで」


「ああ」


 結局。


 何が鳴っていないのかは、分からなかった。


     *


 二人は清掃へ戻った。


 床を洗う。


 水を切る。


 道具を片づける。


 写真を撮る。


 新人がタブレットを操作していた。


 指が止まる。


「小峠さん」


「はい」


「これ」


 画面を見せる。


 設備・備品の異常。


 あり。


 なし。


「どうします?」


「何がです?」


「さっきの音」


「ああ」


「異常にします?」


 小峠は画面を見る。


 あり。


 なし。


 壊れているものは見つからなかった。


 エラーも出ていない。


 温度も問題ない。


 水も出る。


 設備も動いている。


 そもそも。


 何の音がしないのかすら分からない。


「いや……異常ってほどじゃないと思います」


「じゃあ、なし?」


「そうですね」


 新人の指が「なし」の上へ行く。


 少し止まった。


「正常ってことですか?」


 小峠も少し止まった。


「……正常っていうのとも、ちょっと違うんですけどね」


「どっちですか」


「ですよね」


 小峠は笑った。


「なしでいいです」


「はい」


 新人が押した。


 画面が次へ進んだ。


     *


「結局、何だったんですかね」


 道具を洗いながら、新人が聞いた。


「分かんないですね」


「小峠さんでも分かんないんですね」


「分かんないですよ」


「毎日いるのに?」


「毎日いても、分かんないものは分かんないです」


 新人はホースを巻いた。


「じゃあ、忘れちゃいますね」


 小峠は少し考えた。


「いや」


 バケツの水を捨てる。


「分かんないから、覚えとくんです」


「何を?」


「音が足りなかったこと」


「何の音か分かんないのに?」


「はい」


「それ、覚えられます?」


「さあ」


 新人が笑った。


 小峠も笑った。


「まあ、また同じことがあったら分かるかもしれないんで」


「なるほど」


「分かんないですけど」


「今日そればっかりですね」


「そうですね」


     *


 最後の清掃場所へ移った。


 新人が先に入る。


 作業台を見る。


 床を見る。


 それからタブレットを開いた。


 少しして、小峠を呼ぶ。


「これ、大丈夫ですか?」


 作業台の端を指している。


 小峠は近づいた。


 いつもなら、


 大丈夫です。


 か、


 もう一回やりましょう。


 と答える。


 今日は少しだけ待った。


「どう思います?」


「僕ですか?」


「はい」


 新人は作業台を見る。


 顔を少し近づける。


 角度を変える。


 指で触る。


 その指を見る。


「……もう一回やっといた方がいい気がします」


「じゃあ、やりましょうか」


「はい」


 新人はタブレットを置いた。


 クロスを取る。


 もう一度拭いた。


 それが必要だったのかは、小峠にも分からなかった。


     *


 作業が終わった。


 道具を片づける。


 バケツを戻す。


 台車を定位置へ入れる。


 新人が最後の入力をした。


「全部終わりました」


「写真は?」


「入ってます」


「未完了は?」


「ゼロです」


「異常は?」


「ゼロです」


「了解です」


 小峠がタブレットを受け取った。


 写真。


 すべて登録済み。


 未完了項目。


 なし。


 異常報告。


 0件。


 画面の数字は、きれいだった。


 小峠はタブレットを閉じた。


 二人で厨房を出る。


 途中。


 あの場所を通った。


 小峠は少しだけ歩く速度を落とした。


 冷蔵設備の低い音。


 空調。


 水。


 遠くで氷が落ちた。


 何かが鳴っていない。


 ような気がする。


「小峠さん?」


「はい」


「行きますよ」


「ああ。はい」


 今度は止まらなかった。


 厨房を出た。


 扉を閉める。


 タブレットには、もう記録されている。


 本日の作業。


 完了。


 異常報告。


 0件。


 異常なし。



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