第17話 僕たちの判断は、雨の中で溶けていく
エリンは、子どもに鉛筆を渡した。
「はい」
「先生、これ赤だよ」
「あ」
見ると、たしかに赤鉛筆だった。
「ごめんなさい。こっちね」
新渡戸は、ヨハンへ資料を差し出した。
「こちらを」
ヨハンは受け取って、表紙を見た。
「先生。これは昨日の会談記録です」
「失礼」
新渡戸は別の束を手に取った。
僕は、現場スタッフへタブレットを渡した。
「これで一回見てみて」
スタッフが画面を見る。
「あれ。これ責任者用じゃないですか?」
「あ」
オーランド。1921年。
ジュネーブ。1921年。
東京。2026年。
*
「明日の歌、何を歌いましょうか」
エリンが黒板の前で尋ねると、教室中から声が上がった。
「あれ!」
「違うよ、海の歌でしょう!」
「私は冬のやつがいい!」
「長いから嫌だ!」
「先生、あの子守唄は?」
いくつもの歌の名前が飛び交った。
エリンは黒板に候補を書いていく。
五曲。
六曲。
「全部は歌えませんよ」
「じゃあ誰が決めるの?」
前の席の子が聞いた。
エリンは少し考えた。
「みんなで決めましょうか」
「どうやって?」
「手を挙げて、一番多かった歌にします」
子どもたちはすぐに納得した。
一曲ずつ読み上げる。
手が上がる。
数える。
一番多かった歌が決まった。
「やった!」
何人かが喜んだ。
別の子は、机に肘をついたままだった。
その子が選んだ歌には、三人しか手を挙げていなかった。
エリンは一瞬だけ、その顔を見た。
「では明日は、この歌にしましょう」
教室は、もう次の話で騒がしくなっていた。
*
「これって、誰が決めるんですか?」
スタッフが、タブレットの画面を指した。
「何を?」
「この項目が必要かどうかです」
僕は画面を見た。
作業内容。
写真。
異常。
確認事項。
現場用として残した項目。
「まあ……僕ですね」
「そうなんですね」
スタッフは次の画面へ進んだ。
僕は一つ前の画面へ戻った。
必要。
不要。
非表示。
そこに並んでいるものを選んだのは、全部僕だった。
*
「結局、誰が決めるのでしょう」
ヨハンが言った。
机の上には、フィンランド側、スウェーデン側、島民側の資料が並んでいた。
その横に、新渡戸が昨日から分けている言葉。
主権。
言語。
文化。
自治。
安全保障。
「何をです?」
新渡戸が尋ねた。
ヨハンは少し迷った。
「島が、どちらに属するかを」
新渡戸は答えなかった。
窓の外で、雨が降り始めていた。
*
オーランド。1921年。
授業が終わったあと、子どもたちは窓に張りついて外を見ていた。
雨粒がガラスを斜めに流れている。
「帰る頃には止むかな」
「止まないよ」
「明日も?」
「知らない」
さっき多数決で選ばれなかった歌を選んだ子が、エリンのところへ来た。
「先生」
「はい」
「明日は、あの歌、歌っちゃ駄目?」
「駄目じゃないですよ」
「でも選ばれなかったよ」
「授業で歌う歌が決まっただけです」
「じゃあ休み時間なら歌っていい?」
「もちろん」
子どもは少しだけ笑った。
窓の向こうで、校庭の土が濃い色に変わっていた。
*
東京。2026年。
窓ガラスを、雨粒が細く流れていた。
空調の音に混じって、屋根を打つ微かな雨音が聞こえる。
僕は一つの項目を指した。
「これ、消したら困ります?」
スタッフはすぐに答えた。
「それは困ります」
「なんで?」
「自分たちがやったこと、残らなくなるからです」
「写真は残るよ」
「写真だけじゃ分からないこともあるので」
僕は画面を見た。
「じゃあ、これは残す?」
「はい」
「こっちは?」
「それはいらないです」
「いらないんだ」
「使ってないです」
僕は項目を一つ非表示にした。
もう一つは残した。
スタッフは、普通に次の操作へ進んだ。
*
エリンは黒板に書かれた歌の名前を一つ消した。
消した文字の跡が、白く残る。
僕はDeleteキーを押した。
画面から一つの項目が消えた。
新渡戸は紙に書いた言葉へ線を引いた。
その下へ、別の位置に書き直す。
エリンの手が止まる。
僕の指が止まる。
新渡戸のペンが止まる。
「なくなっちゃうの?」
子どもが聞いた。
「これ、消しちゃうんですか?」
スタッフが聞いた。
「これは、諦めるということでしょうか」
ヨハンが聞いた。
「違うと思います」
一瞬だけ、その答えがどこから聞こえたのか分からない。
エリンは黒板を見ていた。
「歌わなくなるわけじゃないでしょう」
僕は画面を戻した。
「データは残ってます。ここから見えなくしただけです」
新渡戸は線を引いた箇所を指でなぞった。
「捨てたわけではありません」
雨音が続いていた。
*
夜。
エリンは学校日誌を開いた。
前の頁に、自分で書いた一文がある。
私たちは、なくなることを恐れている。
その下には、何も書かれていない。
何がなくなるのか。
エリンはしばらくそこを見てから、今日の記録を書き始めた。
僕はスタッフに聞いた。
「やっぱり、変わるのが嫌なんですか?」
「いや」
答えは早かった。
「別に変わるのはいいんです」
ヨハンが、新渡戸の机の上の資料を見る。
「島民は、フィンランドになること自体を恐れているのでしょうか」
新渡戸は答えず、紙を見た。
「明日は違う歌でもいいよ」
子どもが友達に言った。
「でも今日はこれ歌おう」
「これが残るなら、別にこっちは変えても大丈夫です」
スタッフが言った。
僕はクリックした。
エリンが、日誌の一行を指でなぞった。
新渡戸が、「自治」という文字を少し離れた場所へ書き直した。
*
ヨハンは速記帳の余白に、一つ言葉を書いた。
その下に線を引く。
もう一本。
ペンを置いた。
廊下を誰かが通り過ぎた。
ヨハンは顔を上げ、また資料へ目を戻した。
*
東京。
スタッフが操作を試している間に、僕は紙の端へいくつか項目を書き出した。
写真。
作業内容。
異常。
必要項目。
最後の言葉の下に線を引いた。
もう一本。
「これ、次どうするんでしたっけ?」
声をかけられて顔を上げた。
「あ、ごめん。そこ押して」
紙を横へずらし、タブレットを覗き込んだ。
*
翌朝、エリンは鉛筆立てから一本選んだ。
黒い鉛筆だった。
「じゃあ、あなたも書いてみる?」
昨日、選ばれなかった歌を好きだと言った子へ渡す。
「何を?」
「歌いたい歌を」
「一つだけ?」
「好きなだけ」
子どもは鉛筆を受け取った。
僕はスタッフへタブレットを差し出した。
「じゃあ、どれが必要か選んでもらえます?」
「私が?」
「現場用の画面なんで」
「全部決めていいんですか?」
「全部じゃなくていいです。まず、自分が使うところだけ」
スタッフはタブレットを受け取った。
ヨハンが、新渡戸へ一冊の資料を渡した。
「こちらが、島民側から提出された追加の証言です」
新渡戸は表紙を確認した。
「ありがとうございます」
頁を開く。
学校について。
土地について。
漁について。
言葉について。
島の人々自身が語った記録。
新渡戸は、一つずつ読んでいった。
*
「誰が決めるの?」
「この項目、残していいですか?」
「我々の意思は、どこまで反映されるのでしょう」
黒板に、いくつもの歌の名前。
画面に、いくつもの項目。
紙に、いくつもの権利。
エリンが一つを囲む。
僕がチェックを外す。
新渡戸が線を引く。
「こっちは?」
「残す」
「これは?」
「消さないで」
「では、こちらは?」
返事の代わりに、しばらく沈黙があった。
エリンは鉛筆を渡した。
僕はタブレットを渡した。
ヨハンは資料を渡した。
受け取った側の手が、それぞれ動き始めた。
雨はまだ降っていた。
*
ジュネーブ。1921年。
部屋の中には、雨音だけが残っていた。
ヨハンは窓を閉めた。
新渡戸は机に向かっている。
主権。
言語。
文化。
自治。
安全保障。
その紙の横には、島民自身の証言が置かれていた。
「先生」
「はい」
「何か、分かりましたか」
「いいえ」
新渡戸は紙を見たまま答えた。
少し間があった。
「ただ、問いが少し違っていたのかもしれません」
「問い?」
「ええ」
新渡戸はペンを取った。
「どちらの国に属するべきか、ではなく――」
そこで言葉を止めた。
紙に書く。
誰が決めるのか
ヨハンは、その文字を見た。
新渡戸は、その横にもう一つ何かを書いた。
ヨハンの位置からは、見えなかった。
「まだ続けますか?」
新渡戸は紙から目を離さなかった。
「もう少しだけ」
雨は、まだ降っていた。
ヨハンは席へ戻った。
速記帳を開く。
ペンを持つ。
雨音の中で、また記録を始めた。




