↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/33

第18話 伏線を回収したら、複線だった

 雨は、もう上がっていた。


 ジュネーブの朝は明るくはなかったが、昨日まで窓を叩いていた雨音は消えていた。


 濡れた窓ガラスに、曇った空が映っている。


 軒先から、ときどき水滴が落ちた。


 ヨハンは、いつものように速記帳を開いた。


 紙の端が、少し反っている。


 昨日、濡らした覚えはない。


 指で押さえてみる。


 戻る。


 離す。


 また反る。


 ヨハンは諦めた。


 机の上には、ここ数日の記録が積まれている。


 主権。


 言語。


 文化。


 自治。


 安全保障。


 そして、その脇に書かれた一つの問い。


 誰が決めるのか。


 新渡戸は、すでに席に着いていた。


 新しい紙を出すでもなく、昨日までの記録を眺めている。


 考え始めた人ではなかった。


 考え続けている人の顔だった。


    *


「ヨハン」


「はい」


「以前、あなたが言ったことを覚えていますか」


 ヨハンは速記帳から顔を上げた。


「どのことでしょう」


「国と、言葉と、故郷は、同じではない、と」


 ヨハンの手が少し止まった。


 あの夜の紙を思い出す。


 スウェーデン。


 フィンランド。


 オーランド。


 家で使っていた言葉。


 役所から届く書類。


 帰る場所。


 どれか一つではなかった。


 全部、自分だった。


「……はい」


「あれから、何か変わりましたか」


「私の考えが、ですか」


「ええ」


 ヨハンは少し困ったように笑った。


「私は記録係です」


「知っています」


 新渡戸も、ごく普通に答えた。


 少し間が空いた。


「だから、聞いています」


 ヨハンは新渡戸を見た。


 返事を探した。


 だが、うまく言葉にならない。


 あの夜、何かに気づいた気はした。


 それが何なのかと聞かれると、もう分からなかった。


「……まだ、分かりません」


「そうですか」


 新渡戸は、それ以上追わなかった。


「では、始めましょう」


 ヨハンも速記帳へ目を戻した。


    *


 会議が始まった。


 フィンランド側から、主権についての説明。


 ヨハンは書いた。


 主権。


 領土。


 国家的一体性。


 安全保障。


 スウェーデン側から、島民の意思について。


 民族。


 住民の意思。


 言語。


 歴史。


 島民側の証言。


 学校。


 土地。


 漁場。


 言葉。


 暮らし。


 ヨハンのペンは動き続けた。


 主権。


 意思。


 領土。


 言語。


 学校。


 また主権。


 また意思。


「我々は、国家の領土的一体性を守らなければなりません」


「しかし、島の住民の意思を無視することはできません」


「言語の保障が必要です」


「島の安全保障は、北欧全体に関わります」


「学校では、これまで通りの言葉で教育を続けたい」


「土地所有についても、島民の不安があります」


 ヨハンは書いた。


 途中で、頁をめくった。


 新しい頁にも同じような言葉が並んでいく。


 主権。


 言語。


 安全保障。


 住民の意思。


 ヨハンは、ふと前の頁を見た。


 そこにも、主権。


 その二頁前にもあった。


 言語もある。


 土地も。


 何度も出てくる。


 なのに、不思議だった。


 同じ島について話しているはずなのに、同じ言葉を使っている時間の方が少ない。


「ヨハン」


 隣から小さく呼ばれた。


 顔を上げる。


 発言者が変わっている。


「失礼しました」


 ヨハンは慌ててペンを動かした。


 考えるのは、仕事ではない。


 今は記録する。


 誰も、声を荒らげてはいなかった。


 誰も、明らかな嘘をついてはいなかった。


 ただ、同じ島について、違う言葉が行き交っていた。


    *


 休憩に入ると、会議室から人が減った。


 椅子が引かれた。


 いくつかの言語が廊下へ遠ざかっていく。


 ヨハンは席に残った。


 速記帳を開いたまま、しばらく何もしなかった。


 それから一頁戻る。


 もう一頁。


 さらに前へ。


 何かを探しているような気がした。


 だが、何を探しているのか、自分でも分からない。


 主権。


 その次に、言語。


 少し下に、土地。


 別の頁には、安全保障。


 さらに、学校。


 ヨハンは指で一つずつ追った。


 フィンランドが繰り返しているのは、主権だった。


 頁をめくる。


 また主権。


 島民が繰り返しているのは、言葉と学校だった。


 別の証言では土地。


 漁場。


 教会。


 ヨハンは、もう一度前の頁へ戻った。


 同じ島について話している。


 けれど。


 守ろうとしているものまで、同じなのだろうか。


 主権という文字の横に、言語はなかった。


 言語の横に、領土はなかった。


 学校について話した島民は、国家の一体性について何も語っていない。


 安全保障を訴えた代表は、教室で何語を使うべきかについて何も語っていない。


 ヨハンは頁を行ったり来たりした。


 言葉。


 領土。


 暮らし。


 安全保障。


 学校。


 別々の場所にある。


 それなのに会議では、いつも最後に一つの問いへ戻っていく。


 島は、どちらに属するのか。


 ヨハンの指が止まった。


 朝の新渡戸の問いを思い出す。


 あれから、何か変わりましたか。


 ヨハンは速記帳を閉じた。


    *


「先生」


「はい」


「先ほどの質問ですが」


 新渡戸が顔を上げた。


 ヨハンは速記帳を持ったまま、少し立ち位置を変えた。


「以前より、少し分かった気がします」


「聞かせてください」


 ヨハンは頁を開いた。


「フィンランドは、主権を失いたくない」


「ええ」


「島の人々は、言葉や学校や、自分たちの暮らしを失いたくない」


「ええ」


「スウェーデン側は、島との文化的なつながりを失いたくない」


 新渡戸は頷いた。


 ヨハンは頁を見た。


 自分で書いた文字なのに、少し違って見える。


「でも……」


 少し迷う。


「誰も、全部が欲しいとは言っていないのではないでしょうか」


 新渡戸はすぐには答えなかった。


「全部……」


 小さく繰り返した。


 ヨハンの速記帳へ目を向ける。


「少し、見せてもらえますか」


「もちろんです」


 ヨハンは速記帳を渡した。


 新渡戸は頁をめくった。


 一日分。


 さらに前の日。


 さらに前。


 違う人間が。


 違う日に。


 違う立場から。


 違う言葉を使っている。


 新渡戸は、ときどき頁を戻った。


 何かを確かめる。


 また進む。


 ヨハンは黙って待った。


 軒先から水滴が落ちた。


 一滴。


 少し遅れて、もう一滴。


 やがて新渡戸は速記帳を机へ置いた。


 新しい紙を一枚出した。


    *


 まず、左側に書いた。


 国家。


 その下に、


 主権。


 外交。


 安全保障。


 少し離れた場所。


 島民。


 その下に、


 言語。


 教育。


 文化。


 土地。


 暮らし。


 ヨハンは紙を見た。


「以前と、同じように分けるのですか」


「いいえ」


 新渡戸はすぐに答えた。


 ヨハンが顔を上げる。


「以前は、何が違うのかを分けました」


 新渡戸は紙を見る。


「今度は、それを誰に残すのかを考えています」


 ヨハンも、もう一度紙を見る。


 国家。


 島民。


 その間に、まだ何も書かれていない。


 新渡戸は一本、線を引いた。


 主権。


 その横へ。


 もう一本。


 言語。


 そして、教育。


 土地。


 安全保障。


「私は以前、線を引く場所を間違えていたのかもしれないと言いました」


「はい」


 新渡戸は、さらにもう一本引いた。


「違ったのかもしれません」


「何がです?」


 新渡戸は紙を見る。


「線は一本しか引けないと、思っていたのです」


 ヨハンは答えなかった。


 紙を見る。


 一本。


 その隣に、もう一本。


 少し離れて、また一本。


 会議室では、何度も地図が広げられてきた。


 島の輪郭。


 海。


 スウェーデン。


 フィンランド。


 そこに引かれる線は、いつも一つだった。


 こちら側か。


 あちら側か。


 線を少し西へ動かせば、一方が得る。


 東へ動かせば、もう一方が得る。


 だから、どこへ引くかを争っていた。


 ヨハンは目の前の紙を見る。


 これは地図ではない。


 島の輪郭すら描かれていない。


 ただ、言葉がある。


 主権。


 言語。


 教育。


 土地。


 安全保障。


 その一つ一つに、別の線が伸びている。


 窓の外で、軒先から水滴が落ちた。


 ヨハンは、もう一度紙を見た。


 一本だった問いが、


 いくつもの問いに分かれていた。


 そして、その先には、それぞれ別の答えを置ける場所があった。


    *


「では……」


 ヨハンは二枚の紙を見比べた。


 新渡戸は待った。


「島をフィンランド領としたままでも——」


 ヨハンは、そこで止まった。


 口にしてから、その言葉の奇妙さに気づいたようだった。


 これまでなら、その先はなかった。


 フィンランド領であるなら、フィンランド。


 スウェーデンへ帰属するなら、スウェーデン。


 そのどちらかだった。


 ヨハンは紙へ目を戻す。


「島の人々が、島のことを決めることはできる?」


 新渡戸の目が、紙の上で止まった。


 誰が決めるのか。


 昨日、自分で書いた問い。


「主権がフィンランドにあることと」


 新渡戸は紙を指した。


「島民が、自分たちの言葉で学び、自分たちの土地を守り、自分たちの暮らしを決めることは——」


 少し間があった。


「必ずしも、矛盾しないのかもしれません」


 ヨハンは、新渡戸を見た。


「そんなことが、できるのでしょうか」


「分かりません」


 新渡戸は即座に答えた。


 その答えに、ヨハンは少しだけ笑った。


「やはり、分かりませんか」


「ええ」


 新渡戸も、わずかに笑った。


「ですが」


 紙の上に視線を戻す。


「できる形を考えてみましょう」


 ヨハンも紙を見る。


 そこに完成した答えはなかった。


 制度の名前もない。


 条文もない。


 誰がどこまで決めるのかも、まだ分からない。


 けれど、昨日までとは違っていた。


 どちらを選ぶのか。


 ではなくなっていた。


    *


「もう少し借りても?」


 新渡戸が、ヨハンの速記帳を持ち上げた。


「もちろんです」


 ヨハンは頷いた。


 新渡戸は紙へ二つの言葉を書いた。


 主権。


 少し離れた場所へ、


 暮らし。


 ヨハンはそれを見る。


「先生」


「はい」


「そこには、何を書くのですか」


 新渡戸は答えなかった。


 紙の上には、


 主権。


 少し離れて、


 暮らし。


 ヨハンは、その間を見た。


 二つの言葉の間には、


 まだ、余白があった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。