第16話 子守唄の境界線
薪を一本、入れすぎた。
エリンは、しばらくしてからそのことに気づいた。
朝の教室は冷えていた。
窓ガラスの内側には薄く曇りがつき、子どもたちが来る前の机は、触れるとひやりとした。
だから、薪を足した。
一本。
もう一本。
少し迷って、さらに一本。
十分ほどすると、今度は暑くなった。
「……何をしてるんだろう」
誰もいない教室で、エリンは小さく笑った。
窓を開ける。
冷たい空気が一気に入ってくる。
寒い。
慌てて閉める。
薪ストーブの中では、火だけが機嫌よく燃えていた。
黒板には、昨日消し忘れた足し算が残っている。
机の下には短くなった鉛筆が一本落ちていた。
拾い上げる。
誰のものかは分からない。
窓辺には、小さな石が置かれていた。
丸くて、白い筋の入った石。
先週、誰かが海辺で拾ってきたものだった。
教室に置く理由はない。
けれど、誰も捨てようとはしなかった。
エリンも、そこにあることに慣れていた。
廊下の向こうから、子どもたちの声が聞こえ始めた。
もうすぐ一日が始まる。
エリンは黒板消しを手に取り、昨日の足し算を消した。
*
午前の授業は、身の回りにあるものの名前を確認するところから始めた。
椅子。
机。
窓。
扉。
教科書に描かれた絵を指しながら、子どもたちに答えさせていく。
「これは?」
「椅子!」
「では、これは?」
「窓!」
「これは?」
エリンが小さな舟の絵を指した。
教室の後ろにいた少年が答えた。
フィンランド語だった。
ほんの一語。
それだけだった。
けれど、教室が少しだけ静かになった。
隣の子が少年を見る。
「それ、違うよ」
「違わないよ」
「それは、こっちの言い方だろ」
少年は少し困った顔をした。
「お父さんがそう言ってた」
「でも先生は、いつもこう言うよ」
別の子がスウェーデン語の呼び方を口にした。
何人かが頷く。
エリンは、舟の絵を見た。
「そういう呼び方もあるのね」
少年が顔を上げた。
「間違いじゃないの?」
「間違いではありません」
エリンは、黒板に二つの言葉を書いた。
スウェーデン語。
その横に、フィンランド語。
「同じものを、違う言葉で呼ぶことがあります」
「どっちを覚えればいいの?」
「両方知っていてもいいでしょう」
「二つも?」
「二つも」
子どもたちは少し考えた。
でも、それだけだった。
次の問題へ進めば、もう気にしていない。
休み時間になった途端、誰かが椅子を蹴り、別の誰かが校庭へ走り出した。
「先に外行った方が勝ち!」
「何の勝負だよ!」
教室が一気に騒がしくなる。
さっきフィンランド語を使った少年も、スウェーデン語で友達を呼びながら走っていった。
エリンだけが黒板の前に残った。
二つの言葉を見る。
どちらも、ただ舟を指していた。
なのに、さっきの一瞬だけ、教室の空気が変わった。
エリンは黒板消しを取った。
二つとも消した。
*
「今日は何がある?」
帰り道、エリンはラーシュの店へ寄った。
「何もない」
ラーシュは魚の腹を開きながら言った。
「何もない日に、その大きさの魚を三匹も捌くの?」
「何もないから売るんだ」
「なるほど」
「分かった顔するな」
店の前には、朝に獲れた魚が並んでいた。
風は冷たかったが、日差しは少し柔らかい。
エリンは木箱の端に腰を下ろした。
ラーシュは手を動かしながら、昨日届いた新聞の話を始めた。
「また向こうで好き勝手言ってるらしい」
「どっちの向こう?」
「どっちでもいい」
「便利ね、それ」
「俺にとっては、島の外はだいたい向こうだ」
エリンは笑った。
ラーシュは魚の頭を落とした。
「フィンランドなんかに渡されてたまるか」
エリンは、何気なく聞いた。
「何が嫌なの?」
「何がって」
「フィンランドになると、何が嫌なの?」
ラーシュの包丁が止まった。
「そんなの、決まってるだろ」
「何?」
「税金とか」
「今も払ってるでしょう」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ軍隊?」
「それもある」
「法律?」
「まあ、それも」
「言葉?」
「もちろんだ」
ラーシュは次の魚へ手を伸ばした。
「全部だよ」
エリンは黙っていた。
ラーシュも、しばらく何も言わなかった。
包丁の音だけが続く。
「……港の先に、平たい岩があるだろ」
「あるわね」
「昔から、あれを“眠り岩”って呼ぶ」
「知ってる」
「俺の爺さんもそう呼んでた。親父も。俺も」
ラーシュは魚の骨を抜いた。
「この前、役所から来た地図を見たんだ」
「うん」
「違う名前が書いてあった」
エリンは少し笑った。
「それが嫌なの?」
「嫌だな」
「岩でしょう」
「岩だ」
「島じゃなくて?」
ラーシュは考えた。
魚を捌く手が止まる。
「……岩だな」
エリンは笑った。
ラーシュも、少し笑った。
「馬鹿にしてるだろ」
「してない」
「してる顔だ」
「してないって」
ラーシュは魚を包んだ。
「あれが別の名前になるのは、嫌だ」
それ以上は言わなかった。
*
家へ戻ると、父は椅子の脚を直していた。
片方が少しぐらつくらしい。
床に座り込み、木片を削っている。
「それ、昨日もやってなかった?」
「昨日は反対側だ」
「全部直したら、新しい椅子になりそうね」
「それなら買わなくて済む」
エリンは上着を脱ぎ、壁にかけた。
しばらく父の手元を見ていた。
「お父さん」
「ん?」
「怖い?」
父は顔を上げなかった。
「何が」
「フィンランドになること」
「別に」
「怖くないの?」
「政治家が勝手に決めることだ。俺が怖がっても仕方ない」
木を削る音が続いた。
「じゃあ、何も変わらなくてもいい?」
父の手が止まった。
「どういう意味だ」
「学校も、教会も、港も。今までと全部同じなら、国がどこでもいい?」
父は削りかけの木片を見る。
「学校は同じ方がいいな」
「教会は?」
「そりゃそうだ」
「港は?」
「勝手に変えられたら困る」
「漁場は?」
「もっと困る」
「お墓は?」
父は顔を上げた。
「墓?」
「うん」
「墓は動かせないだろ」
「そういう話じゃなくて」
「分かってる」
父は少し笑った。
また椅子へ目を戻す。
「昔からの名前も、そのままがいい」
「ラーシュも同じこと言ってた」
「あいつは岩の名前だろ」
「知ってるの?」
「港で三人に話したらしい」
エリンは吹き出した。
「もう広まってるのね」
「ラーシュだからな」
父は木片を椅子の脚へ当てた。
少し削る。
また外す。
そのとき、ふと思い出したように言った。
「お前の母さんが歌っていた子守唄があるだろ」
エリンは黙った。
知っていた。
子どもの頃、眠る前になると母が歌ってくれた。
決まって同じ子守唄だった。
母は、歌が上手い人ではなかった。
同じところで何度も音を外した。
まだ眠くない夜には、エリンも途中から一緒に歌った。
歌詞の意味も、当時はよく分かっていなかった。
ただ、最後の一節まで来る頃には、母の声が遠くなり、そのまま眠っていた。
「覚えてる」
「学校で歌うのか?」
「たまに」
「子どもたちは?」
「知ってる子もいる」
「そうか」
父は椅子を立てた。
座ってみる。
まだ少し揺れる。
「お前の学校の子どもたちが、あの子守唄を知らなくなるのは……」
椅子をひっくり返した。
「まあ、寂しいな」
また木片を削り始めた。
それだけだった。
*
その夜、ラーシュの店には、十人ほどが集まっていた。
正式な会合ではなかった。
誰かが呼びかけたわけでもない。
魚を買いに来た者が残り、その友人が来て、いつの間にか人数が増えた。
卓上にはパンと酒が置かれている。
話題は、やはり島のことだった。
「スウェーデンへ戻るべきだ」
「戻るって言い方もおかしいだろ」
「我々は昔からスウェーデン人だ」
「今はフィンランド領だ」
「だから、それがおかしいと言ってるんだ」
「向こうで勝手に決めたことだ」
いつもの言葉だった。
主張は違っても、言い方はよく似ている。
エリンは壁際の椅子に座り、しばらく聞いていた。
「スウェーデンへ行けば安心だ」
「本当にそうか?」
「少なくとも文化は守られる」
「フィンランドを信用できるのか」
声が少しずつ大きくなる。
エリンは口を開いた。
「みんな、何が怖いの?」
一瞬、誰も答えなかった。
ラーシュが笑った。
「なんだ、その聞き方」
「今日ずっと考えてたの」
「暇だったんだな」
「学校は忙しかったわよ」
別の男が言った。
「フィンランドだろ。怖いのは」
「フィンランドの、何が?」
男は口を開いた。
閉じた。
「学校だ」
誰かが言った。
「子どもがフィンランド語だけで勉強するようになったら困る」
「俺は漁場だ」
別の男。
「規則を変えられたら仕事にならん」
「徴兵だろ」
「土地だ」
「土地?」
「島の外の人間が買えるようになったら、いずれ俺たちの土地じゃなくなる」
「教会だな」
年配の男が言った。
「祈る言葉まで変えられたら、俺は何を言ってるのか分からん」
「お前は今でも半分寝てるだろ」
笑いが起きた。
空気が少し緩む。
「墓だ」
誰かが言った。
また少し静かになる。
「先祖の墓がある。あそこだけは、誰かの都合で触られたくない」
「そんなこと誰もしないだろ」
「分からん」
「だからって国を変えるのか?」
「俺に聞くなよ」
一つの答えには集まらなかった。
学校。
言葉。
漁場。
徴兵。
土地。
教会。
墓。
さっきまで全員が「島」と言っていた。
けれど、島の中身を聞けば、違うものが出てくる。
ラーシュが酒を一口飲んだ。
「俺は岩だ」
「何の話だ」
「平たい岩」
「ああ、もう聞いた」
「誰からだ」
「三人くらい」
「口の軽い連中だな」
笑いが起きた。
そのとき、店の奥にいた男が言った。
「俺は、別にフィンランドでもいい」
笑いが止まった。
何人かが振り返る。
「何だと」
「別にって言っただけだ」
「それでいいのか」
「国がどっちだろうと、明日も船は出す」
「そういう問題じゃない」
「俺にとっては、そういう問題だ」
男は酒の入った杯を置いた。
「ただ」
全員が黙って聞いている。
「俺たちのことを、俺たちがいないところで決められるのは嫌だ」
誰もすぐには言い返さなかった。
「スウェーデンでも、フィンランドでも、ジュネーブでもいい」
男は続けた。
「俺たちがどう暮らすかを、俺たち抜きで決めるのは嫌だ」
ラーシュが腕を組んだ。
「じゃあ、お前は何派なんだ」
「知らん」
「知らんって」
「今日決めなきゃ駄目なのか?」
ラーシュは答えなかった。
エリンは、店にいる人たちの顔を見た。
同じ島に住んでいる。
同じ言葉を話す。
同じ海を見ている。
それでも、怖いものは違った。
誰も、同じものを守ろうとしているわけではなかった。
ただ。
何かを失いたくない。
そこだけは、少し似ていた。
エリンはそのことを口にはしなかった。
*
店を出たところで、年配の女性に呼び止められた。
「エリン先生」
「はい?」
何度か学校行事で顔を合わせたことがある。
政治の集まりで話しているところは、ほとんど見たことがなかった。
「さっきの話ね」
「はい」
「私は、国のことはよく分からないよ」
女性は申し訳なさそうに笑った。
「私もです」
エリンが言うと、女性も笑った。
「先生でも分からないのかい」
「分からないことばかりです」
「そうかい」
女性は少し安心したようだった。
それから、家の方を見る。
「でも、孫とは同じ言葉で話したいね」
エリンは返事をしなかった。
「この前、あの子がフィンランド語を一つ覚えてきたんだよ」
女性は笑う。
「何を言ってるか分からなくてね。教えてもらったよ」
「そうなんですね」
「覚えるのはいいんだ。いろんな言葉を知ればいい」
女性は、そこで少しだけ声を落とした。
「ただ、私の言葉を分からなくなるのは、寂しいね」
エリンは頷いた。
それ以上、何も言えなかった。
*
夜。
エリンは学校日誌を開いた。
日付。
天候。
出席人数。
授業内容。
薪ストーブの燃料を一本多く使用。
書いてから、自分で少し笑った。
こんなことまで書く必要があるのだろうか。
でも、そのままにした。
午前の授業について記す。
一名の児童が、舟をフィンランド語で呼称。
他児童より異なる呼称について指摘あり。
両方の言葉を紹介。
問題なし。
そこまで書いた。
問題なし。
確かに、問題はなかった。
子どもたちは、そのあと普通に遊んだ。
誰も喧嘩をしていない。
誰も傷ついていない。
エリンは少し考えた。
その下に書いた。
私たちは、フィンランドを恐れている。
読み返す。
違う。
線を引いた。
私たちは、スウェーデンから離れることを恐れている。
また読み返す。
それも違った。
消す。
ラーシュの岩を思い出した。
父の椅子。
母の子守唄。
漁場。
学校。
教会。
墓。
さっきの男の言葉。
俺たちのことを、俺たちがいないところで決められるのは嫌だ。
年配の女性。
孫とは同じ言葉で話したいね。
エリンはペンを持った。
ゆっくりと書いた。
私たちは、なくなることを恐れている。
そこで、また手が止まった。
何が?
自分でそう思った。
何が、なくなるのだろう。
言葉。
子守唄。
名前。
暮らし。
記憶。
それとも、もっと別のもの。
書こうとした。
書けなかった。
日誌には、
私たちは、なくなることを恐れている。
その一行だけが残った。
*
翌朝。
子どもたちが、教室へ入ってきた。
「先生、おはよう!」
「おはようございます」
「今日も寒い!」
「昨日暑かったじゃん」
「先生が薪入れすぎたからだよ」
「見てたの?」
「窓開けたでしょ」
笑い声が上がった。
昨日、フィンランド語で舟を呼んだ少年もいた。
友達に何かを話している。
今はスウェーデン語だった。
誰かが鉛筆を落とした。
別の子が拾った。
薪ストーブでは、火が静かに燃えていた。
窓辺には、白い筋の入った小さな石が、昨日と同じ場所に置かれていた。
黒板。
机。
椅子。
子どもたちの声。
何一つ、変わっていない。
エリンは教室を見渡した。
まだ、全部ここにあった。
だから、怖いのかもしれなかった。
* *




