第15話 BUSHIDOシンクロニティ
茶がうまかった。
新渡戸は、机の上の紙から目を離し、湯呑みをもう一度口へ運んだ。
誰が淹れてくれたのだろう。
いつも気づけば、机の端に置かれている。
事務局の誰か。
あるいは、朝一番に部屋を整える係の者かもしれない。
その人は普段、どんな仕事をしているのだろう。
毎朝何時に来て、何人分の茶を淹れるのだろう。
そこまで考えて、新渡戸はやめた。
茶がうまい。
それでよかった。
少し冷めている。
それでも、うまかった。
湯呑みを置く。
机の中央には、昨日ヨハンが残した紙があった。
主権。
言語。
文化。
自治。
安全保障。
新渡戸は、何事もなかったように紙へ目を戻した。
*
これまで見てきた地図には、一本の線があった。
スウェーデン。
オーランド。
フィンランド。
島を、どちら側へ置くのか。
どちらの国に属するのか。
どちらの正義を重く見るのか。
議論はいつも、その形へ戻っていった。
スウェーデン側には、言語と文化を守る理由がある。
フィンランド側には、主権と独立を守る理由がある。
それぞれの主張を追っていけば、最後には同じ問いへ戻る。
島を、どちらへ置くか。
新渡戸は地図から目を離した。
ヨハンの紙には、国名が書かれていなかった。
主権。
言語。
文化。
教育。
自治。
安全保障。
昨日、ヨハンは「ただ並べただけです」と言った。
新渡戸は別の紙を一枚出した。
ゆっくりと書き写す。
主権。
少し間を空ける。
言語。
また空ける。
文化。
自治。
安全保障。
答えは書かなかった。
どの国に何を渡すとも書かなかった。
ただ、それぞれを離して置いた。
同じ紙の上にありながら、同じものとして扱わない。
新渡戸は一度、ペンを置いた。
*
画面には、かなりのものが入っていた。
写真。
作業内容。
開始時間。
終了時間。
異常。
評価。
確認事項。
過去の履歴。
僕は上から下までスクロールした。
悪くない。
というより、かなりいい。
最初に作ったものとは別物だった。
現場で何が起きたか。
誰がどこまでやったか。
何が未完了なのか。
後から見返しても分かる。
写真も記録も残る。
抜けは、かなり潰したつもりだった。
僕は隣にいたベテラン社員、小峠さんに画面を向けた。
「この項目、足りないものありますか?」
「はい」
小峠は少し身を乗り出した。
画面を見る。
黙る。
さらに顔を近づける。
目を細めた。
そして、片手で目元を軽く擦った。
「……すみません。ちょっと待ってください」
「はい」
もう一度、画面へ顔を近づける。
僕も横から覗いた。
そこで初めて気づいた。
文字が、小さい。
かなり小さい。
一画面にできるだけ多く表示したかった。
スクロールを少なくしたかった。
情報を一覧できるようにしたかった。
その結果、全部が入っていた。
全部が入っているせいで、読みにくかった。
僕は何も言わず、表示倍率を上げた。
文字が少し大きくなる。
小峠が画面を見た。
「ああ。ありがとうございます」
「これくらいですか?」
「はい。これなら見えます」
それだけだった。
僕も、それ以上は何も言わなかった。
*
「どうですか?」
小峠は画面を上から順番に見ていった。
さっきより少し時間をかけている。
「だいたい入っていると思います」
「だいたい?」
つい聞き返した。
小峠は、少し困ったように笑った。
「はい。まあ、使ってみないと分からないところもありますから」
使ってみないと分からない。
僕は画面を見た。
まだ足りないものがあるのだろうか。
何か入力欄を忘れている。
現場で必要になる項目が抜けている。
頭の中で、また項目を探し始めた。
作業時間。
写真。
異常。
仕上がり。
確認事項。
過去履歴。
スタッフ名。
備考。
他に何がある。
「これ」
小峠が画面を指した。
「写真撮ったあとって、どこ押すんでしたっけ」
「あ、ここです」
僕は保存ボタンを指した。
「この青いやつ」
「これですね」
「はい」
小峠は一度押してみた。
次の画面が表示される。
「ああ。なるほど」
別のところを触る。
「これ押すと戻っちゃいます?」
「それは一覧に戻ります」
「じゃあ、まだ続けるときは?」
「こっちです」
「分かりました」
小峠は普通に操作を確認していた。
さっきの「使ってみないと分からない」について、それ以上話す気はないようだった。
僕だけが、まだその言葉に引っかかっていた。
*
新渡戸は、紙の一番上にある言葉を見た。
主権。
フィンランドが、ここを容易には譲れない理由は分かっている。
ようやく得た独立。
もう一度、自分たちの未来を他者に決められることへの恐れ。
では。
新渡戸は次の言葉へ目を移した。
言語。
島の主権をフィンランドに認めることと、スウェーデン語を守ることは、本当に同じ問いなのだろうか。
ペンを取る。
言語の横に、何かを書きかけた。
消した。
次。
文化。
その下。
自治。
さらに。
安全保障。
新渡戸は、言葉の間を行き来した。
書く。
消す。
少し離す。
線を引く。
また消す。
ヨハンは少し離れたところで、別の記録を整理していた。
ときどき顔を上げる。
新渡戸は、独り言のように何かを呟いていたが、聞き取れなかった。
主権を認めること。
言葉を守ること。
文化を残すこと。
島のことを島で決められる範囲を持つこと。
海の安全を守ること。
これらは、すべて同じ答えでなければならないのだろうか。
新渡戸は、その問いを紙には書かなかった。
ただ、「主権」と「言語」の間を少し広げた。
*
「これは、私も入力するんですか?」
小峠が画面の下の方を指した。
「これは責任者用です」
「責任者用」
「はい。最後に確認する人が使います」
「じゃあ、こっちは?」
「それはクライアントに出す情報ですね」
「私たちは?」
「ここまでは現場で入れてもらいます」
「なるほど」
小峠は頷いた。
それだけだった。
僕は画面を見た。
現場スタッフ。
責任者。
クライアント。
経営。
同じデータを使う。
でも、見るものが違う。
僕はマウスを動かした。
小峠さんが使う画面から、責任者用の項目を一つ非表示にした。
もう一つ。
クライアント向けの確認欄も外す。
画面が少し短くなった。
余白が増える。
文字の大きさを一段上げた。
「ちょっと、これ見てもらっていいですか」
小峠が画面を見る。
さっきのように顔を近づけなかった。
「こっちの方が見やすいです」
「そうですか」
「はい」
僕はそのまま保存した。
*
「先生」
ヨハンが声をかけた。
「はい」
新渡戸は紙から顔を上げた。
ヨハンは少し迷ってから、机へ近づいた。
紙には、いくつかの言葉が離れて置かれている。
主権。
言語。
文化。
自治。
安全保障。
昨日までなら、それらはすべて一つの議論の中にあった。
スウェーデンか。
フィンランドか。
そのどちらを選ぶのか。
今は、少し違って見える。
「これでは……」
ヨハンは言葉を選んだ。
「どちらが勝ったことになるのでしょう」
新渡戸はすぐには答えなかった。
紙を見る。
一本の線を指でなぞる。
「どうでしょう」
それだけ言った。
ヨハンは少し待った。
続きはなかった。
「変なことを聞きました」
「いいえ」
新渡戸は、また紙へ目を戻した。
*
僕は、責任者向けの画面を開いた。
一つ追加する。
一つ外す。
現場用の画面を開く。
非表示。
保存。
新渡戸が、紙に線を引いた。
主権。
言語。
文化。
ペン先が止まる。
僕はクライアント向けの画面を開く。
写真。
結果。
異常。
現場スタッフ向けには表示しない項目がある。
保存。
新渡戸は一度書いた文字を消した。
自治。
少し離れた場所へ書き直す。
僕は一覧画面の列を一つ減らした。
履歴は消していない。
別の画面に残っている。
クリック。
新渡戸のペンが動く。
安全保障。
その横に短い線。
僕は、責任者用の確認欄を現場画面から外した。
非表示。
保存。
新渡戸は紙を少し回した。
何かを書こうとして、やめる。
僕はもう一度、現場画面を開いた。
項目が減っている。
新渡戸の紙には、言葉が増えている。
なのに、さっきより見やすくなっていた。
*
「一回、これで見てもらえます?」
僕は小峠さんを呼んだ。
小峠は画面の前に立った。
今度は、顔を近づけなかった。
普通に見る。
上から下へ視線を動かす。
「これなら、分かります」
「そうですか」
「はい」
僕は画面を見た。
さっきより項目は少ない。
空いている場所がある。
何か言いかけた。
やめた。
保存ボタンを押した。
*
ヨハンは、新渡戸の机の上を見た。
紙には、まだ空欄があった。
消した跡もある。
線も揃っていない。
提案書と呼べるようなものではなかった。
そのまま誰かに見せても、何を意味しているのか説明できないだろう。
それでも、昨日までとは違っていた。
「これは、案になるのでしょうか」
新渡戸は紙を見た。
少し考えた。
「まだ分かりません」
ヨハンも紙を見る。
主権。
言語。
文化。
自治。
安全保障。
しばらくして、新渡戸が言った。
「まだ、分けただけです」




