第9章「燃料は油じゃない」
王に謁見した後、俺は王宮で「臨時食料技術顧問」という妙な肩書きを与えられた。
給料は月に金貨5枚。
第八海鵬丸での月給の30倍だった。
──だが俺は、その金を貯める時間すら持てなかった。
翌朝、宰相ガウル・ベルファード公爵から呼び出しを受けた。
公爵の執務室に通された俺は、扉を入った瞬間に「これは試験ではない、罠だ」と直感した。
第八海鵬丸の鬼塚と同じ匂いがした。
自分より地位の低い人間が、自分の縄張りで光ることを、絶対に許さない人間の匂い。
「リョウ・キジマ殿」
公爵は紫の絹のローブをまとい、机の向こうから俺を見下ろしていた。50代後半。眼の下に深い隈、唇は薄く、手の甲には老人特有のシミ。けれど目だけは妙に若く、獲物を見定める鷹のような鋭さがあった。
「貴殿の腕は、王宮で評判だ」
「光栄です」
「だが、王宮で食料を扱う者には、ただの腕では不足だ。覚悟と忠誠が要る」
「お言葉の通りで」
「ひとつ、貴殿に依頼がある」
俺は親指の付け根を擦った。
「2か月後、王国海軍の合同訓練が王都北方海域で行われる。陛下と王太子も御出座あり、各国大使も招待されている。その3日間の艦上食事を、貴殿の鮮度処理技術で全て賄ってほしい」
「賄う?」
「100名分。3日。海上で」
公爵の口角は、わずかに上がっていた。
男は俺が断ることを期待していた。あるいは引き受けて失敗することを期待していた。どちらでも公爵の目的は達成される。
俺は黙って公爵の目を見た。
──これは罠だ、と確信した。
ライン・カラのギルドのバックアップなしに、見知らぬ艦上で、見知らぬ食材を、3日間100人分。失敗すれば、王国海軍の合同訓練を台無しにした余所者として、首を刎ねられる。
何よりも条件が問題だった。「艦上で」という条件。陸上の調理場ではなく、揺れる艦の上で、しかも100人分の食事を3日間。鮮度を保つには、海軍訓練の参加艦に冷凍庫を設置するしかない。けれどこの世界に冷凍庫はない。
公爵はそれを知ったうえで、無理難題を吹っかけている。
けれど断ることは許されない。
「お引き受けします」
と俺は短く答えた。
部屋を出て、廊下に立つと、書記のクライベルが小走りに駆け寄ってきた。男は早口で耳打ちした。
「リョウ殿、引き受けてはなりません。あれは公爵の罠です。ガウル公爵は外国の漂流者が王宮で重用されるのを許さない。失敗させる気で渡した仕事です」
「分かってる」
「分かっているなら、なぜ」
「断ったらもっと早く首が飛ぶ。だったらやって、勝つしかない」
クライベルは唸った。
男は40年王宮図書館に籠っていた人間だ。王宮内政の暗部を、知識として知り尽くしていた。だからこそ、俺の状況の絶望さも理解していた。
そして、決意したように低く言った。
「私が手伝います。王宮図書館に40年分の海軍訓練の食事記録があります。前例から逆算して、何が要るか整理しましょう」
「助かる」
そこから2か月、俺は地獄のような準備期間を過ごした。
まず、艦上での鮮度保持の問題。
王国海軍の艦は、もちろん帆船だ。エンジンはない。冷凍機もない。氷は山から切り出してきたものを地下蔵に貯めているだけで、艦上に大量に積み込むには量が足りない。
──ここで俺は、ひとつ大きな仕事をすることになる。
燃料の話だ。
燃料、と言って多くの人間は「燃やすもの」を想像する。けれど現代の俺は、燃料というものをもう少し広く捉える教育を受けていた。燃料とは、エネルギーの源だ。火を作るのも、冷気を作るのも、運動を作るのも、すべて同じエネルギーの違う形にすぎない。
帆船は風で動く。けれど風の弱い時、補助動力として漕ぎ手が漕ぐ。10名から20名の漕ぎ手が、油を燃やすランタンの灯の下で、ひたすら櫂を漕ぐ。
この国の燃料は、主に魚油と、木炭と、一部の鯨油だった。
けれど、艦上で氷を作る、という発想を持ち込めば、燃料の用途は変わる。
アンモニア吸収式冷凍法。
19世紀地球で発明された、燃料で「冷気」を作る技術だ。
燃料を燃やしてアンモニアと水を加熱、蒸発したアンモニアを別の容器で液化、それを再蒸発させるときに気化熱で周囲を冷やす。
化学知識さえあれば、装置は意外と簡単に作れる。
「クライベル、この国でアンモニアは手に入るか」
「アンモニア? 何ですそれは」
「動物の小便を発酵させると出る、刺激臭のある気体。これを水に溶かしたものでもいい。あるいは塩化アンモニウムを石灰と反応させて作る方法もある」
クライベルは目を白黒させた。
「えっと……塩化アンモニウムは、肥料として家畜小屋で採れます」
「あれは肥料じゃない、化学物質だ。塩化アンモニウムから生石灰を使ってアンモニア気体を取り出す。それを冷凍機の作動流体に使う」
「冷凍機……?」
俺は紙にざっと装置の絵を描いた。
加熱器、凝縮器、蒸発器、吸収器。
4つの容器を銅管で繋ぎ、燃料の火力でアンモニアを蒸発させる。
なぜそれで冷えるのか、原理を説明する。物質は気体になるとき、周囲の熱を奪う。これを気化熱という。汗が肌から蒸発するとき、肌から熱を奪って涼しくなる。あれと同じだ。
液体アンモニアを意図的に蒸発させて、その気化熱で水を冷やす。蒸発したアンモニアはまた液体に戻して再利用する。閉じた循環を作って、半永久的に冷気を生み出す。蒸発したアンモニアは凝縮器で液体に戻り、減圧弁を通って蒸発器に入る。蒸発器の中で液体アンモニアは再蒸発し、その気化熱で周囲を冷やす。冷やされた塩水で氷を作る。
単純な原理だ。
けれどこの世界の誰もこれを思いつかなかった。
なぜなら、化学を知らなかったからだ。
装置の試作は、王宮の地下工房で2週間かけて行った。
工房は厚い石壁に囲まれた地下空間で、王国の最高の鍛冶職人と硝子職人と銅職人がここに集められた。誰もが俺の指示を疑問に思いながらも、不思議そうに手を動かしてくれた。
銅管、ガラス容器、革のシール、それから小型の鞴。すべて王国の職人たちが手作業で揃えた。
最初の1週間は失敗の連続だった。シール部分からアンモニアが漏れ、工房の中が刺激臭で充満して職人たちが目を真っ赤にして外に逃げ出した。次の3日でシール材を皮革から鯨ヒゲ繊維に変え、ようやく密閉できた。
そして3週目の朝、装置は動いた。
蒸発器の周囲の塩水が、ゆっくりと、しかし確実に冷えていった。
1時間後、表面に薄氷が張った。
2時間後、塩水は完全に凍った。
「……動いた」
クライベルが震える声で言った。
「動いた。火で氷を作った」
工房の壁に張りついていた職人たちが、揃って何度もうなずいた。誰もが目を疑い、それから自分の見たものを言葉にできずにいた。
火は熱い。氷は冷たい。誰もが知っている当たり前の常識を、装置が逆転させた。
俺は親指の付け根を擦った。
第八海鵬丸の冷凍庫は、もちろんもっと大規模で効率的だった。あれは電気式のフロン冷凍機だ。けれどこの世界には電気がない。だから19世紀の技術を使う。それで十分だ。
鬼塚はかつて言った。「来島ァ、てめえみたいなのが冷凍機をいじったら船が爆発する」。今夜俺は、王宮の地下で19世紀の冷凍機を素手で組み立てて動かした。皮肉なものだ。
公爵の執務室に呼ばれた俺は、装置の試作品の前で説明をした。
公爵は装置を見て、最初は嘲笑していた。
「これが、火で氷を作るだと?」
公爵の声には侮蔑が混ざっていた。机の上の銅と硝子の組み合わせを、男はおもちゃのようなものとしか見ていなかった。
「動かしてみますか」
俺は燃料に火を入れた。
30分後、装置は塩水を凍らせ始めた。
公爵の唇が震えた。
「……こ、これは」
「冷凍機です。これを艦上に設置すれば、3日間の食事を全て新鮮なまま保てる。海軍訓練で食材が腐る心配は要らない」
公爵の目に、奇妙な光が浮かんだ。
嫉妬と、警戒と、それから利用できる、という三つの感情が混ざった光。
「リョウ・キジマ。貴殿は……何者だ」
「漂流者です。あなた方が登録した、ただの漂流者です」
公爵は何度か瞬きをして、それから低く笑った。
「いいだろう。この装置は、王宮の所有とする。貴殿は引き続き訓練の食事を手配せよ」
公爵が「自分のもの」と言った瞬間、俺は心の中で苦笑した。
──ああ、こいつもまた鬼塚だ。
自分が作ってないものを「俺の手柄だ」と言う、典型的な鬼塚タイプの男だった。
けれど俺は今度は黙らなかった。
黙らないと決めていた。
「公爵閣下」
と俺は言った。
「装置は王宮の所有でいい。だが、原理は俺のものだ」
「何?」
「俺以外にこの装置を作れる人間はいない。そして俺は、王宮以外の場所でも、この装置を作る権利を留保する」
公爵の額に血管が浮き上がった。
「無礼だぞ、漂流者!」
「無礼かどうかは、知識を持つ者が決める権利だ」
俺は親指の付け根を擦るのを止めた。
もう、緊張していなかった。
鬼塚に10年怒鳴られて、ようやく分かったことがある。怒鳴られて引き下がるたびに、自分の中の「健気な金属」が消耗する。鬼塚の腐食を遅らせるために、俺は10年、自分の精神を犠牲陽極にしてきた。
けれど、犠牲陽極は時々取り替えなければならない。だが消耗しきってからでは遅い。先に腐っているのは俺ではなく、男たちが生かしてくれと願っている王女の方だ。
だったら、俺は俺の知識を、俺自身が必要だと判断した場所に使う。
公爵は何かを言いかけて、結局何も言えずに、手を振って俺を退室させた。
男の手には、もう俺を罰する選択肢が残されていなかった。装置の原理を握っているのは俺だけだ。俺を消せば、装置の量産も改良もできなくなる。冷凍機の有用性はすでに公爵自身が認めてしまった。
知識を持つ者は、知識を持たない権力者に対して、想像以上の交渉力を持つ。それは10年下っ端をやってきた俺が初めて手にした、本物の武器だった。
廊下に出ると、クライベルが青い顔で待っていた。
「リョウ殿、なんと無謀な……公爵に正面から逆らうとは……」
「逆らったわけじゃない。条件を交渉しただけだ」
「同じことです」
「同じじゃない」
「リョウ殿……あなたは公爵の権力を、本当に理解していない」
「理解はしてる。怖くないだけだ」
俺は窓の外を見た。
王宮の北の塔が見えた。
セレネ王女の塔。
彼女の窓には、今夜もまた明かりが灯っていた。
──彼女の命のためなら、俺は誰にだって正面から逆らうつもりだった。
そう決めたのは、たぶん、昨日の謁見の時だった。
ベール越しの彼女の青い瞳に、健気な金属が映っていたのを、俺は確かに見たから。
そして俺は知らなかった。
セレネがすでに何度も冷凍機の装置の存在を知っていて、その夜のうちに王宮の隅々から「リョウ・キジマ」という名前が彼女の耳に届いていたことを。
二人が公の場で言葉を交わすのは、まだ先のことだった。
けれど、二人の運命の歯車は、北の塔と地下工房の間で、確かに噛み合い始めていた。
一本の銅管が、王女と漂流者をつなぐ最初の糸になろうとしていた。
そしてその糸は、まだ誰にも見えない場所で、もう一本、別の方角からも伸び始めていた。
ライン・カラのギルドでは、ボルクが手作りの新しい網針を量産しはじめていた。
王都の調理場では、メルガスが「魚を生かしたまま捌く」研究を独自に始めていた。
知識は教えれば広がる。広がれば自走する。
リョウひとりが起こした波が、王国の沿岸でいくつもの渦になりつつあった。
けれどその波は、敵国の艦隊の波とぶつかる運命にあった。
海は静かに、その日を待っていた。
そして俺は知らないまま、合同訓練の艦上で、あの男と再会することになる。
海を隔てた敵国の冬の港では、ザール・オニズカ提督がいま、艦隊全体への命令書に署名していた。アルデロワ王国の沿岸の漁師町を順番に焼き払う、という命令だった。




