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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第10章「亜鉛の小さな塊」

王都での生活は1か月を超えた。


月給金貨5枚、王宮の臨時食料技術顧問という肩書き。


──だが俺の心は、王都の中央にではなく、依然としてライン・カラの石畳に置き去りにされていた。


冷凍機の試作が成功した翌々日、王宮にひとつの荷物が届いた。


ライン・カラのボルクからの便りだった。


木箱の中には、ミラの字で書かれた手紙と、それから小さな金属の塊。


──亜鉛塊だった。


手のひらほどの大きさで、表面が均等に灰色に腐食している、典型的な「使い終わった犠牲陽極」だった。


手紙の文面はこうだった。


「リョウへ。


元気? 王都の食事はおいしいですか。


ボルクさんが、あんたの言ってた亜鉛の塊を、坑夫町まで自分で行って削り出してきたよ。30個。船底に取り付けて、もう半月になる。今のところ全部のヘラ・ロッタ号系列の船が、去年より調子がいいって。


──ねえ、リョウ。


あの金属、本当に健気だね。


自分が痩せていくのに、何も言わずに、ただ船を守ってる。


うちの父さんが死ぬ前に、似たような顔で網を繕ってた気がする。


でも、あたしはあの金属を見てると、なんでだろう、リョウのことを思い出すよ。


あんた、ライン・カラに来たときから、たぶん少しだけ、痩せてた。


体が、じゃないよ。


心の方が、ずっと痩せてた。


王都にいるあいだに、ちゃんとご飯食べて、たまには笑って、健気な金属が消耗しすぎないようにしてね。


リョウが教えてくれたこと、ぜんぶちゃんと残ってる。


心配しないで。


ライン・カラはちゃんと、リョウが帰ってくる場所として、まだそこにあるから。


──ミラ」


俺は手紙を3度読み返した。


3度目に親指の付け根が震えた。


自分の手が震えていることに気づくのに少し時間がかかった。緊張しているわけではない。むしろ、緩んでいる。10年見たことのない自分の手の動きだった。


鬼塚に殴られて震えたことはあった。冷凍庫の寒さで震えたこともあった。けれど、誰かに「あなたが帰ってくる場所がここにある」と言われて、あんな風に手が震えるとは、知らなかった。


30近くになって、まだ知らない感情があったらしい。


──戻る場所がある。


鬼塚の船以外に、初めて、そう感じられる場所があった。


木箱の底に、もうひとつ何かが入っていた。


取り出すと、それはジルが餞別にくれたものとよく似た、新しい網針だった。表面に細かな彫刻が入っている。雲と海鳥の模様。ライン・カラの古老たちが教えてくれた天気の知識を象徴する模様だった。


そしてその網針には、小さな札が結ばれていた。


札には、たどたどしい字でこう書かれていた。


「リョウ先生 へ。 ジル」


俺は笑ってしまった。


鬼塚に「先生」と呼ばれたことは10年で一度もなかった。けれど嫉妬で俺を呪っていた男からは、たった3日で「先生」と呼ばれるようになっていた。


学ぶ姿勢を持つ人間は変われる。


持たない人間は変われない。


──ジルと鬼塚の違いは、ただそれだけだった。


翌朝、俺は王宮の北の塔の脇道を散歩していた。


早朝のヴァリスは、街の臭気がまだ立ち上らない時間帯だ。空気は澄み、日の出の光が城壁を金色に染めていた。


漁師が好きな時間帯だった。海に出ない朝でも、漁師の体は夜明けに合わせて目覚める。10年体に染み込んだリズムは、王宮に来ても消えない。


そのとき、塔の小さな扉が音もなく開いた。


出てきたのは、神官長アーシェだった。


高位聖職者の証である紫の刺繍が入った白いローブ、銀色の長い髪を背中に流した、40代ほどの女性。胸に下げた銀の杯のペンダントが朝日に光っていた。彼女は俺を見つけて、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「リョウ・キジマ殿」


「神官長」


「立ち話で恐縮ですが、王女様より、伝言を預かっております」


俺は親指の付け根を擦った。


「セレネ王女から?」


「はい」


アーシェは静かに頷いた。


「『健気な金属』。それが伝言です」


俺は言葉を失った。


「……何の話か、お分かりになりますか」


「分かる」


と俺は短く答えた。


「分かりすぎるほどに」


アーシェは少し首をかしげた。


けれど深くは尋ねず、ただ微笑んで言った。


「王女様は、貴方の働きを毎日聞いておられます。冷凍機のこと、鮮魚処理のこと、貧民街の水のこと。すべてを記録され、何度も読み返しておられます」


「俺の話を、なぜ」


「それは、王女様御自身がお話になるべきことです。私から申せるのはここまでですが、ひとつだけ」


アーシェの声は、急に低くなった。塔の壁に反響しないように、あえて抑えた声だった。


「王女様は、御自身が『先に腐る側』であることを、ずっと前から自覚されています」


俺の背中に冷たい何かが走った。


──健気な金属。


ミラがそう呟いたとき、俺は単なる感傷の言葉だと思っていた。けれどセレネは違う。彼女はそれを、文字通り、自分の話として受け取っている。


「神官長」


「はい」


「王女様の御身体は、今、どうなっている?」


アーシェは長い沈黙の後、静かに言った。


「我が国を覆う『国土結界』。これを千年支え続けてきたのは、王家の血脈に宿る一つの『代償魔法』です。代々の王族の中に一人、必ず現れる者が、自身の生命力を国土に流し続ける契約。それが、いまの代では──」


「セレネ王女、ですか」


「はい」


アーシェは一度息を呑み、それから続けた。


「そして、契約は終わりに近づいています」


俺は何も言えなかった。


──彼女は、文字通り、国土の犠牲陽極だった。


国を腐食から守るために、自分の命を先に消費している。


神官長は俺の腕に手を置いた。


細い、けれど暖かい手だった。


「リョウ殿。あなたが王宮にやって来た日、王女様は『何かが変わる』と仰いました。あなたの冷凍機の話を聞かれたとき、王女様は微笑まれました。


私は王女様の感情の変化に、ここ数年気づいてきませんでした。けれど、ここ最近、王女様の中に、少しずつ何か新しいものが芽生えています。


それが何なのか、正確には分かりません。


ただ、ひとつだけ、私から申し上げます。


──王女様を救う術が、もしあるなら、それは古い魔法の中ではなく、あなたの持ってきた新しい知識の中にあるのかもしれません」


アーシェは深く頭を下げて、塔の中に戻っていった。重い石の扉が音もなく閉まり、まるで秘密が再び封印されたように、塔の壁面は何事もなかった顔をしていた。


俺は石畳の上にひとり残された。


朝日が完全に昇り、ヴァリスの街にだんだんと日常の音が戻り始めていた。


──健気な金属。


ミラの言葉と、セレネの伝言が、俺の中で重なった。


そしてもうひとつ重なるのは、第八海鵬丸の船底で俺が握っていた、あの小さな亜鉛の塊だった。


三つの亜鉛塊。


ライン・カラの船底で、王宮の北の塔で、そしてかつての俺自身の手の中で。


同じ金属が、違う形で、世界を支えていた。


そして俺は、自分の人生に振り返ってみた。


第八海鵬丸の10年。鬼塚の前で痩せていった俺。あれは俺なりの「先に腐る」だった。鬼塚というプロペラを守るために、俺という亜鉛塊が消耗していた。


そう気づくと、俺の中で何かがすっと整理された。


鬼塚は俺を腐らせた。


けれど俺はライン・カラで、もう一度新しい亜鉛塊として削り直された。


そして今、王宮で、もう一度新しい役目を持っている。


健気な金属は、何度でも作り直せる。


俺はその日、自分の部屋に戻ってから、初めて自分の状況を整理しようとした。


紙に4つの単語を書いた。


「鮮度処理」


「冷凍機」


「水浄化」


「犠牲陽極」


──最初の3つは、漁師の知識で世界を変えるための道具だ。


最後の1つだけが、違う。


4つ目は、王女を救うための、おそらく決定的な何かだ。


けれどその何かが、まだ俺自身にも見えていなかった。


その夜、ボルクの手紙の続きを読んだ。


手紙の最後にはこう書かれていた。


「リョウ、おまえが王宮で何を背負ってるのかは知らねえ。だがな、亜鉛の塊は1個壊れてもまた削ればいい。健気な金属ってのは、消耗するもんだ。


だから一個で全部支えようとするな。仲間を作れ。


仲間ってのは、別の亜鉛塊のことだ。


──ボルク」


俺は手紙を閉じた。


ボルクは俺の説明を、自分の言葉で再翻訳していた。


そして、その再翻訳は、たぶん俺がライン・カラを離れた後、彼が自分で考えて辿り着いた言葉だった。


教える側の言葉が、教わる側の言葉に変換されて、そこから新しい意味を持って戻ってきた。


これが、教育というものの本当の姿なのかもしれない。


──そして、いま俺がセレネ王女のために集めなければならないのは、まさに「複数の亜鉛塊」なのだ。


一人で全部を背負う健気な金属は、消耗が早すぎる。


セレネを救うには、彼女の代わりに腐ってくれる別の何かを、できるだけ多く用意しなければならない。


そう、俺は気づいた。


そして同時に、俺はもうひとつ気づいていた。


──セレネを救うには、おそらく、彼女と国土の間に流れている「契約魔法」を別のものに置き換えるしかない。


王女が国土の犠牲陽極なら、別の何かを犠牲陽極にする。


別の何か。


別の金属。


別の仕組み。


そしてもしそれが「金属」なら、俺は世界で最もそれに詳しい男のはずだった。


漁船の甲板員、来島カズマ。10年、犠牲陽極を交換し続けてきた、ただの下っ端。


──ようやく、自分の10年に、意味が降りてきた気がした。


鬼塚に怒鳴られながら船底に潜り込んだあの夜。


凍った甲板でアノードを握ったまま海に落ちたあの瞬間。


すべての時間が、ここに繋がっていた。


偶然ではなかった。


翌日、俺はクライベルに2つの調査を依頼した。


ひとつ。アルデロワ王国の建国神話における「契約魔法」の原典を集めること。


もうひとつ。坑夫町を含む王国全土の鉱山資源、特に亜鉛、銅、鉛、それから稀少金属の産出量と精製技術の現状を調べること。


クライベルは何度か瞬きをしてから、深くうなずいた。


「リョウ殿。まさか、王女様の御身体を、金属で?」


「金属の話じゃない」


と俺は言った。


「金属の話に見せかけた、もっと違う話だ。けれど結果として、金属が必要になる」


クライベルは「ふむ」と顎を撫でた。


「禁書庫に古い書物があります。建国期の魔法体系について。許可を取れば閲覧できます」


「許可は誰が出す?」


「神官長アーシェ猊下です」


俺はうなずいた。


「ありがたい話だ」


クライベルは詳しく聞かなかった。


男は40年図書館に籠っていただけあって、知識を扱う人間特有の節度があった。話したくないことは話さなくていい、聞きたいことは自分で調べる。それが彼の流儀だった。


男はその日のうちに調査を開始した。


そして同じ夜、王宮の北の塔。


セレネ王女は、神官長アーシェに小さく微笑んだ。


「アーシェ。あの方に、伝言は届きましたか」


「届きました」


「お返事は」


「『分かりすぎるほどに』と」


セレネは長く目を閉じた。


やがて、薄く目を開いて、独り言のように呟いた。


「私は、もう、500年続いた契約の最後の鎖です。500年というのは私の在位ではなく、契約そのものの寿命です。私が朽ちるとき、契約は終わります。


けれど──朽ちる前に、別の鎖を見つけたのなら。


それは、千年の中で初めての奇跡です」


アーシェは黙って王女の手を握った。


王女の指は、神官長の手の中で、ゆっくりと冷えていった。


まるで、誰かが冷凍機を回し始めたかのように。


王宮の地下では、その夜も、リョウの作った装置が静かに塩水を凍らせていた。


同じ城の中で、二つの「冷えていくもの」が、別々の理由で冷え続けていた。


けれど一方は救うべきもので、もう一方は世界を救うものだった。


それが交差する日まで、あと何日残されているのかは、誰にも分からなかった。

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