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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第11章「闇市と人攫い」

王都ヴァリスの夜の路地は、昼とはまったく別の生き物だった。


昼の喧噪と魚の臭いが消えると、代わりに油の燃える匂いと、人間が誰にも見られたくない種類の取引をするときの、低く湿った声が響き出す。


そして俺は、その夜、その路地のいちばん奥で、ひとりの少女が金属の檻に押し込められているのを見た。


少女は震えていた。


けれど震えているのは寒さのせいではなかった。


きっかけは、ミラの便りだった。


手紙の最後にひとつだけ気になる文があった。


「リョウ、ライン・カラから王都への食料運搬で、最近、若い娘が3人ほど消えてる。たぶん人攫いだよ。王都の市場のどこかに流れてるって、ボルクさんが言ってた」


俺は手紙を読んで、最初は無視した。


王都の問題は王都の問題だ。俺は技術顧問であって、警吏ではない。海の上で起きたことなら俺の出番だ。けれど陸の闇市の話はこの国の警備のやることだ。


俺は手紙を仕舞って、その日は冷凍機の改良に集中しようとした。


けれど夜、王宮の食堂で出された皿の上の魚を見ているうちに、俺はその文を思い出した。


──ライン・カラから。


ライン・カラから消えた娘。


もしそれが、ミラの知り合いだったら。


──もしそれが、ミラ自身が知っている顔だったら。


俺は皿を置いた。


王宮の食料調達責任者である宮廷食料官に、丁寧に許可を取って外出した。


護衛として若い騎士のレオがついた。レオはまだ20歳そこそこの真面目な男で、最近俺の周りで雑用係として働いている。剣の腕は悪くないらしい。


「リョウ先生、夜の旧市街は危ないですよ」


「分かってる」


「お一人で行かれるならお止めしますが」


「だからおまえがついてきてる」


レオは口を尖らせたが、それでもついてきた。


旧市街の闇市は、王都の北東、城壁の崩れかけた区画にあった。


表向きは古道具屋通り。けれど夜になると、店の奥の扉が開いて、別の市場が立ち上がる。


王都の警備兵がここに踏み込まないのは、貴族の何人かが裏で利権を握っているからだとレオが小声で説明した。


取引されるのは、表に出せないものすべて。


密造酒、麻薬の代用となる薬草、盗品の宝飾、希少な動物の毛皮、それから──。


人間。


帝国の手の者が貴族の屋敷に潜入させるための「使用人」として買われていく若い女たち。あるいは闘技場の生贄として買われていく男たち。あるいは、もっと暗い用途のために。


俺はその夜、闇市の入り口で深く息を吐いた。


「レオ、もし俺が殴られたら、おまえは止めなくていい」


「は?」


「俺が殴られるくらいの場面じゃないと、見えないものがある」


レオは何か言いかけたが、結局黙った。


男はもうひとつ理由を察したらしかった。リョウ先生が「殴られる」覚悟で行く先には、王宮の中では聞けない種類の話があるのだ、と。レオは騎士としては若すぎたが、そういう察しの良さは備えていた。それが俺がこの男を信用している理由だった。


闇市の中は、油の燃える匂いと、汗と、汚物の混じった臭気だった。


油は獣脂の燃やす匂いで、それが妙に甘く粘ついている。床は石畳の上に泥と血と何かの汁が混ざって、靴底にねっとりと張り付いた。低い天井から下げられた魔導灯の青い光が顔をいくつも切り取って、人相を一様に病的に見せていた。


俺はライン・カラの裏路地で目を覚ました朝の臭いを思い出した。あの臭いは生活の臭いだった。けれどここの臭いは違った。


ここの臭いは、誰かを物として扱うことの臭いだった。


隅の暗がりに、金属の檻が並んでいた。


中には粗末な布をまとった男が3人。それから、別の檻に女が4人。さらに奥に、もっと小さな檻に、少女が1人。


男たちは皆、大柄で、傷だらけだった。たぶん闘技場用に買われていく。女たちはそれぞれ年齢が違って、ひとりは40近く、ひとりはまだ十代後半に見えた。年齢で値段が違うのだろう。


少女は12歳くらいだった。


痩せていて、髪が乱れて、目だけが妙に澄んでいた。


俺はその目を見て、足を止めた。


──知らない顔だ。


だがその目には、ミラの目と同じ気配があった。


港の女の目、と俺は思った。海の風に晒されて育った娘特有の、何かをまっすぐ見つめる目。


檻の前で、商人らしい男が買い手と交渉していた。


「銀貨80枚で売ろう。手の傷以外は綺麗だ」


「銀貨50だ。それ以上は出せん」


「あんたなあ、これは港町の漁師の娘だぞ。北の貴族はこういう娘を欲しがる」


「漁師の娘なら、潮風で肌が荒れてる」


「中身が新しいから問題ない。それに歯が全部ある。これ、貴族向けの基準だ」


買い手の男は黒い外套を着ていた。


そして、その黒い外套には──俺は息を呑んだ。


内側の裏地に、銀糸で小さな刺繍がしてあった。男が腕を組み替えたとき、外套の前が一瞬だけ開いて、その紋章が魔導灯の青い光に照らされた。


ヴァルナハト帝国の紋章。


二つの剣と稲妻を組み合わせた、敵国の紋章だった。


俺の血が、一瞬、止まった。


心臓が4回ほど跳ねて、それから不自然に静かになった。10年マグロ船で生きてきた人間の心臓は、緊急事態を知らせるときだけ、こういう異常な静けさを見せる。冷静ではない。むしろ冷静のふりをしている。


帝国の人間が、王都の闇市で、王国の少女を買おうとしている。


これは個別の人攫い事件ではない。


もっと大きなものの、ほんの先端だ。


親指の付け根を擦った。


そして俺は、手のひらのなかで一つの判断を固めた。


「すまん」


俺は商人の前に出た。


「銀貨100枚出す。俺がその娘を買う」


商人と買い手が同時に俺を振り向いた。


黒い外套の男の顔は影に隠れていて見えなかった。けれど男の声は冷たかった。


「邪魔をするな、余所者」


「俺は王宮の食料官の手の者だ」と俺は嘘をついた。


「王宮御用達のひとつだ。あんたが帝国の人間なら、ここで揉めるのは双方に得策じゃないだろう」


黒外套の男は数秒、無言だった。


それから低く笑った。


「いいだろう」


男は手を振って、外套を翻して去っていった。


けれど男の歩き方には、退却した者の動きはなかった。むしろ、その場の値踏みをやり直しに行く商人のような落ち着きがあった。俺の名前と顔は、間違いなくその夜のうちに帝国大使館へ報告される。


商人は俺の銀貨100枚を素早く受け取り、檻の鍵を渡してきた。


鍵は鋼鉄製で、ずっしりと重かった。錆びていて、誰の手のひらの汗で何度も握られたかわからない、嫌な感触の鍵だった。


少女を檻から出したとき、彼女は震えていた。


名前を聞いた。


「……アーニャ」


「ライン・カラの?」


「うん」


「ボルクの船の?」


少女が涙を浮かべて頷いた。


「ボルクおじさん。あたし、おじさんの姪です」


「ライン・カラから消えたのは、いつだ」


「半月前。市場の手伝いに行く途中で、男たちに袋を被せられて……」


アーニャの声は震えていた。けれど涙はほとんど流れていなかった。半月のあいだ、すでに泣き尽くしていたのだ。


俺はかぶりを振った。


ライン・カラの娘。それも、ボルクの身内。


ミラの便りは正しかった。


闇市を出たあと、俺はレオに少女を預けて、自分は王宮に戻らずに、もう一軒だけ立ち寄った。


「先生、危ないですよ」


「分かってる」


「俺もついて行きます」


「いや。アーニャを王宮に届けるのが先だ。これは命令じゃない、頼みだ」


レオはしばらく俺を睨んでから、肩を落として頷いた。


黒い外套の男のあとを追ったのだ。


男が消えた先は、王都の北の貴族街、いちばん奥の屋敷の裏門だった。


北の貴族街は王都の中でも最も整備された区画だった。石畳は綺麗に磨かれ、街路樹が等間隔に並び、汚水の悪臭はここまでは来ない。富というものが空気そのものを変える、ということを俺は初めて実感した。


石畳の路地を黒外套は迷いなく歩いた。10年同じ道を通っている人間の歩幅だった。


屋敷の正面玄関には、二つの剣と稲妻の紋章が刻まれていた。


──帝国大使館。


アルデロワ王国とヴァルナハト帝国は、表向きは同盟国だった。けれど両国の関係は冷えに冷え、いまや「形式的な大使館を残しているだけ」の状態だった。


その大使館に、王都の闇市で買い付けられた娘たちが流れている。


これは外交問題ではなく、すでに敵対行為だ。


俺は屋敷の裏門の影で、しばらく立ち尽くした。


そして、ひとつだけ確認できたことがある。


黒外套の男の顔は、入口の魔導灯の光で一瞬だけ照らされた。


男の顔は、黒髪に黒目、東方系の顔立ち。


──この大陸では珍しい顔立ちだった。


──そして男の口元には、見覚えのある癖があった。


煙草を歯で噛む癖。


──鬼塚毅の癖だ。


俺の背筋に氷が走った。


マイナス60度の冷凍庫から這い出た瞬間、頬の汗が音を立てて凍ったときの感覚に、よく似た冷たさだった。あれから随分経った気がしていたのに、俺の体は、あの男の存在を、こんなにすぐ感知できるらしい。


──まさか。


違う。


鬼塚自身ではない。鬼塚の腹心の部下だ。


けれど黒外套の男が「鬼塚由来の癖」を真似しているということは、鬼塚はすでにこの世界で、自分の癖を真似する部下を持つ立場の人間になっているということだ。


提督として。


そして提督として、王国に手を伸ばし始めているということだ。


俺は深く息を吐いた。


走らずに、ゆっくりと歩いて王宮へ戻った。


翌朝、俺は王宮の食料官と、それから神官長アーシェに、面会を求めた。


アーニャは王宮の召使い区画で保護してもらった。


食料官は俺の話を慎重に聞いた。


アーシェは話の途中で、白い指で胸の聖印を握った。


「リョウ殿。それは、ご想像通りであれば、王国にとって生死に関わる情報です」


「そうだろうな」


「セレネ様にもお伝えしてよろしいですね」


セレネ。


まだ俺は王女と直接会っていなかった。けれどアーシェを通じて、王女は俺の存在を、そして俺の作った冷凍装置を、よく認識していた。


俺はうなずいた。


「伝えてくれ。ただ、ひとつだけ」


「はい」


「俺は、王女様の体調が悪いと聞いている。無理はさせないでくれ。情報は、聞ける範囲で」


アーシェは少しだけ目を細めた。


「リョウ殿、あなたは、優しい方ですね」


「優しいんじゃない」


俺は親指の付け根を擦った。


「自分の手で削った亜鉛塊が、痩せきって落ちるとき、漁師は誰でも『よくやった』って思う。それを擦り切れるまで使い倒すのが流儀じゃない、ってだけのことだ」


俺は答えた。


「健気な金属に、無理に腐れって言うのは、漁師の流儀じゃない」


アーシェは長く息を吸って、それから静かにうなずいた。


「セレネ様は、その言葉を、きっと喜ばれます」


神官長の目には、何かを堪えるような光があった。けれど俺はそのとき、その光の意味を読み取れなかった。


その夜、王宮の北の塔の窓辺で、セレネ王女は神官長から報告を受けた。


王女の白い指は、銀の盆の縁を、ゆっくりと撫でていた。盆には朝、また血を吐いたあとの薄い赤の名残があった。侍女が拭ったが、薄く色が残っていた。


王女は無言だった。


やがて、薄く目を閉じて、誰にも聞こえない声で呟いた。


「健気な金属に、腐れって言うのは、漁師の流儀じゃない、ね……」


王女の唇は、わずかに笑っていた。


けれどその唇から、また一筋、赤いものが流れた。


神官長は素早く清められた布でそれを拭った。布はすぐに濃い赤に染まった。


アーシェの手は震えていた。長く神に仕えてきたこの女性は、何度この赤を見てきただろう。月に一度だったものが、半月に一度になり、いまは数日に一度になっている。


王女は何も言わなかった。


ただ、外の闇に向かって、もう一度小さく呟いた。


「あの方には、まだ私のことを、知られてはなりません。アーシェ」


「はい」


「私の存在は、あの方の健気を、汚すから」


神官長は何も言わなかった。


言える言葉が見つからなかった。

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