第12章「王都からの使者」
闇市の翌朝、王宮の正門に、想定外の早馬が一頭駆け込んできた。
馬上の男は王都の使者ではなかった。
──ライン・カラからの、急使だった。
そして男は、息を切らしながら、たったひとつの言葉だけを伝えた。
「ボルク・ガルガード、襲撃を受け重傷」
その朝、俺は冷凍機の試作三号機の前で立ち尽くしていた。
王宮の地下、石壁に囲まれた小部屋。中央に俺が組み上げた機械が据えられていた。
これは厳密には冷凍機ではない。
この世界には電気がない。だから真空圧縮式の冷凍機は作れない。代わりに俺が作ったのは、塩を混ぜた氷で温度を急激に下げる「氷塩冷却装置」と、それから魔法石の冷却属性を組み合わせた「魔導冷却箱」の試作三号機だった。
詳細は省く。要するにそれは、王都の貴族たちが「冷凍庫」と呼び始めたものだった。
マイナス10度を維持できる箱。
それだけのことが、この世界では奇跡だった。
試作三号機は安定して動いていた。塩水を氷の中に閉じ込め、その表面温度を測ると氷の容器の中だけマイナス15度を維持していた。マイナス15度。第八海鵬丸のマイナス60度には遠く及ばないが、この世界の感覚では、もはや魔法の領域だった。
これがあれば、ライン・カラから王都への魚の輸送が、根本から変わる。
そう考えていたとき、扉が叩かれた。
入ってきたのは、王宮の食料官と、レオと、それから知らない男だった。
知らない男は、ライン・カラの使者だった。
短いマントを羽織り、靴は泥だらけで、髪は半分凍りついていた。3日3晩走り続けたらしかった。
「リョウ・キジマ殿」
男はかすれた声で言った。
「あなたを、探しに来ました」
男の唇には深い亀裂が入っていて、話すたびにわずかに血が滲んだ。3日3晩、宿でも休まずに走り続けた人間の唇だった。レオが慌てて水を持ってきた。男は水を半分も飲まずに、話を続けようとした。
そして男は、ボルクの襲撃と、ヘラ・ロッタ号の被害を、断片的に伝えた。
内容はこうだった。
使者の言葉は途切れ途切れで、ところどころ意味が取りにくかった。けれど話の骨格はすぐに掴めた。
──ライン・カラの港に、数日前、見慣れない3人組が現れた。
──黒い外套に、二つの剣と稲妻の紋章。
──連中はギルドの作業場でボルクに「リョウ・キジマの正体を聞かせろ」と詰め寄った。
──ボルクは「知らん」とだけ答えた。
──連中はボルクを殴った。
──ボルクは反撃した。
──結果、ヘラ・ロッタ号の船底に火が放たれた。
──船は沈没。
──ボルクは肩と肋骨を折ったが命に別状なし。
──だがミラが、行方不明。
──「ボルクの後始末」のために、何者かに連れ去られた可能性が高い。
俺は使者の話を、最後まで黙って聞いた。
そして、聞き終わって、ひとつの小さな金属の塊を握りしめた。
机の上に置いてあった、ミラから送られてきた使い終わった亜鉛塊だった。
親指の付け根を擦った。
それから俺は、深く息を吐いた。
「食料官」
俺は声を抑えて言った。
「これより、職務上の用件をひとつ、王宮にお願いしたい」
「は、はい」
「俺の出立を、許可してほしい。ライン・カラへ。3日以内に」
食料官は困った顔をした。50過ぎの太った男で、王宮の食事を切り回す責任者だ。本人は穏やかな性格で、俺のような余所者にも気を遣ってくれた。
「リョウ殿、王宮の冷凍機開発はまだ──」
「冷凍機は、レオに引き継がせる」
「レオ?」
レオが目を見開いた。
「俺、ですか?」
「お前、俺の手元でずっと見てた。組み立て手順も、塩水の混合比も、氷の供給ルートも、全部知ってる。お前ならできる」
「いや、俺は……」
「お前ならできる」
俺は同じ言葉を繰り返した。
言ってから、その言葉が自分の口から出てきたことに、自分自身が一瞬戸惑った。
鬼塚に「お前にはできない」と10年言われ続けた人間が、別の若い男に「お前ならできる」と言う場面が来るとは、思ってもみなかった。
鬼塚は俺を信じなかった。だから俺は、鬼塚と違う種類の上司になりたい、とずっと思っていた。けれど思っているだけで、実際にそういう言葉を口にしたことは、一度もなかったかもしれない。
けれどそれが俺の流儀だ。
と、いま気づいた。
食料官はしばらく考えてから、ゆっくりとうなずいた。
「分かりました。出立は明日の朝、認めます。護衛として近衛騎士を3名、付けましょう」
「いらない」
「いえ、必要です。リョウ殿はもう王宮の重要人物です。護衛は王宮の責任です」
俺は無理に譲らなかった。
譲らないことが、いまは無駄な時間を生む。
「分かった。3名で頼む」
食料官は深く頭を下げて部屋を出ていった。男は別れ際に「ご無事で」とだけ呟いた。短いが、形式的ではない言葉だった。
その夜、俺は王宮の北の塔の前を一度だけ通った。
月のない夜だった。風が強く、城壁の松明がいくつも同時に吹き消されては、別の塔の灯がそれを補う。
アーシェ神官長と立ち話をするためだ。
「セレネ様にお伝えください」
と俺は言った。
「俺はライン・カラに発ちます。王宮の用事は数日後戻り次第、続けます」
アーシェは無言だった。
やがて、白い指で俺の腕に小さな包みを押し付けた。
「セレネ様より」
「これは」
「お持ちください、と」
俺は受け取った。
包みの中身は、ひとつの小さな水晶だった。淡い青色をしていて、表面に小さな文字が刻まれている。
「これは魔導通信石です」
アーシェが説明した。
「同じ石を持つ者同士が、遠隔で簡単な言葉を交わせます。セレネ様がもうひとつをお持ちです」
俺は石を握った。
ひんやりとした感触の中に、何か脈動する温かさがあった。冷たさと温かさが同居している、不思議な石だった。亜鉛のアノードを最後に握ったあの夜の感触に、少し似ていた。
「セレネ様は、何と」
「『あなたの旅路の上に、私の声が一つ届きますように』、と」
アーシェの声には、王女の言葉を伝えるとき特有の、わずかな震えがあった。
俺はうなずいた。
王宮を出る前夜、俺は王宮の地下倉庫から、もうひとつだけ持ち出した。
試作三号機の小型版、保冷箱の方だ。これは食料用だが、同時に──負傷者の患部を冷やすことに使える。
ボルクの肩と肋骨。
急性期の腫れを抑えるには冷却が一番だ。
翌朝、俺は王都を出た。
馬車には俺と、近衛騎士3名と、レオの代わりに同行を願い出た若い文官が1人。文官は俺の助手として、王都との連絡役を務めるらしい。
ペルマ、というその文官は、若いが筆の早い男だった。鳥の羽でつくったペンと黒い革表紙の手帳を常に持ち歩き、俺が話したことを片っ端から書き取る癖がある。「将来、この記録は王国の歴史書になります」と本気の顔で言うので、俺は最初、苦笑するしかなかった。
馬車が王都の城門を出るとき、俺は最後に一度だけ振り返った。
王宮の北の塔の窓に、人影は見えなかった。
けれど青い水晶が、胸元でかすかに振動した。
「ご無事で」
という小さな声が、石の中から聞こえた気がした。
親指の付け根を擦って、俺は前を向いた。
ライン・カラへの帰路は、行きの倍の速度で進んだ。
道中、俺はいくつかのことを整理した。
馬車の窓から流れていく景色は秋色に変わりつつあった。木々の葉が金色に染まり、道脇の草が乾いて、空気の匂いに枯葉の渋みが混ざっていた。けれど風景の美しさは、いまの俺の頭にはほとんど入ってこなかった。
──黒い外套の連中は、闇市で俺の正体に気づいた。
──翌日には早馬で港町に伝わり、ライン・カラのボルクが襲撃された。
──連中は、俺がライン・カラ出身ではないことを既に知っている。
──そして、俺の弱点が「ライン・カラの人々」であることを、知った。
馬車の振動が体を揺らすたびに、俺の中で連鎖する論理は冷たく、明確になっていった。
これは戦争だ、と俺は思った。
まだ宣戦布告のない、けれど確実な戦争。
そしてその戦争の最初の一手は、すでに敵に取られている。
俺たちが食材として育てたものを、相手はすでに人質として使っている。
そして人質を取るやり方は、鬼塚という男の流儀に妙によく似ていた。
第八海鵬丸でもそうだった。あの男は、若い実習生を「人質」のように扱っていた。実習生のミスを盾に、その上司である俺を脅し、俺のミスを盾に、実習生を脅した。たがいに痛みを与え合うように仕向けて、自分は誰の味方にもならない。
鬼塚毅が提督になったとき、その癖は組織のスケールでそのまま発露するだろう。
──そして実際、そう発露していた。
4日後、ライン・カラに到着した。
馬車を降りたとき、俺は最初に港の方を見た。海の色は変わらない。空の色も変わらない。けれどその空気の中に、本来あってはいけない匂いが混ざっていた。
港町は焼け焦げた木の匂いに包まれていた。
ヘラ・ロッタ号の残骸が桟橋の脇で半分沈んでいた。マストは折れ、船腹に大きな黒い穴が開き、内部の梁が黒焦げになって突き出ていた。海水が穴から船内に入り、船尾が斜めに沈んで、船首だけが水面に出ていた。
船底の亜鉛塊だけが、煤に汚れずに、灰色の腐食面を空に向けていた。
──健気な金属は、最後まで自分の役目を果たしていた。
けれど、それを取り付けた船は、燃えてしまった。
すべてを救うことはできない。
そういう種類の戦いの予感が、俺の腹の底に重く沈んだ。
けれど沈んだ底から、また別の何かが浮かび上がってきていた。
──怒り、ではなかった。
もっと静かな、覚悟と呼ぶしかない種類の感情だった。
ボルクは港の宿屋で寝ていた。
肩に厚く晒を巻かれ、片目には大きな青あざがあった。
けれど男は俺を見た瞬間、笑った。
「リョウ……戻りやがったか」
「ああ」
「使えねえ余所者が、戻りやがった」
男の声は割れていた。
顎の傷から血が薄く滲んで、髭に絡んでいる。20歳ほど一気に老け込んだような顔だった。
けれど目には、明らかな安堵があった。男は俺がもう戻らないと半ば信じていた。それでも願っていた。願っていた者が現れるという経験は、男にとっては久しぶりのことだった。
俺は鞄から保冷箱を取り出して、ボルクの肩に冷やした布を当てた。
男は驚いて目を見張った。
「冷てえ……これ、何だ」
「冷やせば腫れが引く。詳しくは説明しない」
「リョウ、おまえ、王宮で何やったんだ」
「冷やすやつを作った」
「ふっ……はは、なるほど。まだ漁師やってるな」
ボルクは笑って、それから真顔になった。
「ミラのことだ」
「ああ」
「攫われた。たぶん帝国の手の者だ。連中の馬は、北街道を北上した。ヴァルナハト本国に向かってる」
「俺の弱点を知るためか」
「そうだろう」
俺は親指の付け根を擦った。
「ボルクさん」
「ん」
「ライン・カラのギルドに、緊急召集をかけてくれ。ジルにも、若いやつにも、全員に」
「召集して、何をする」
俺は短く答えた。
「漁師たちの艦隊を、作る」
ボルクは長く俺を見つめた。
男は息を吸うのに少し時間がかかった。肋骨が痛むのだ。けれど目だけは怪我など意に介していなかった。
男の目には、笑いも嘲りもなかった。
ただ、深い、静かな同意があった。
「やっと言ったな……」と男は呟いた。煙草が欲しい、という顔をしたが、肋骨に響くから諦めたらしかった。
「ライン・カラは、おまえのその一言を、半年待ってた」
半年。
俺がライン・カラに来てから、まだ半年しか経っていなかった。
けれど人は、たった半年で、誰かの帰りを待つようになる。
──そういう街を持っている人間が「弱点を突かれている」とは、つまり、すでに何かを持っているということだった。
鬼塚にはなかったものを、俺はいま、持っていた。
持っていることが、強さなのか、弱さなのかは、その夜の俺にはまだ判別できなかった。




