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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第13章「王都ヴァリスの臭気」

ライン・カラに戻ってから5日。


ボルクの怪我は峠を越え、ジルと若い漁師たちは「俺たちでミラを取り戻す」と腰の刃物を握りしめていた。


その朝、王都から早馬がもう一頭やってきた。


馬は黒い毛艶の名馬で、馬上の使者は王宮の近衛騎士だった。


紋章は王太子の旗印。


──マルコス・ヴェル・アルデロワ第一王子からの召喚状だった。


文面は短く、命令的だった。


──直ちに王都へ戻り、王宮の閣議に出席せよ。


──ライン・カラに長居することは、王宮の決定によって認められない。


──護衛の近衛騎士はそのまま王太子直属の任を解き、貴下に再配属とする。


ボルクは文を読み上げる文官ペルマの隣で、深い溜息をついた。男の肩はまだ晒に巻かれていたが、もう寝床から起き上がれるほどには回復していた。


「リョウ。これは罠の臭いがするぞ」


「分かってる」


「行くのか」


「行くしかない。行かないと、ライン・カラに王宮の調査隊が踏み込んでくる。その方が町が荒れる」


ボルクは無言だった。


「ライン・カラの艦隊計画は、ジルに引き継いでもらう」


と俺はペルマに書き取らせた。


「漁船15隻の改修。船底に亜鉛塊を取り付け直し。網は二重蛙股結びで全部繕い直す。漁港の弾薬庫の確保。古老7人から海路情報の最終整理。準備期間20日。指揮はジルとボルク」


ペルマが羽ペンを走らせる音だけが部屋に響いた。男はもうすっかり俺の参謀役のような顔をしていた。王宮の文官にしては砕けた性格で、王都を出てから少し笑顔も増えていた。


ジルが目を見開いた。


「俺、指揮なんて」


「やれる」


と俺は短く答えた。


「やれない、と思ってるうちはやれない。やれる、と思った瞬間からやれる。それだけだ」


ジルは俯いた。


男の手が震えていた。けれどその震えは恐怖の震えではなく、何かを引き受けようとする人間特有の、静かな興奮の震えだった。


やがて、深く頷いた。


翌朝、俺は再び馬車に乗って王都へ戻った。


ペルマと近衛騎士3人は同行。


ライン・カラの石畳を、もう何度目かに背中に置き去りにする。


けれど今回は、ミラに見送られない出立だった。


港の桟橋には、彼女が立っていた場所がぽっかりと空いていた。19歳の女ひとりがいなくなっただけで、町ぜんたいが暗く沈んで見える。漁師たちも黙々と網を繕いながら、その空白を意識しないようにしていた。


王都ヴァリスは秋の盛りに入っていた。


赤と金の落葉が街道に積もり、城壁の蔦が紅葉して、遠くから見ると王宮そのものが燃えているように見えた。


美しかった。


けれど近づくにつれて、その美しさの裏側にある臭いが、俺の鼻を打った。


──下水の臭い。


ライン・カラの素朴な汚水とは違う、もっと密度の高い、人口密集地特有の腐敗臭だった。


王都の下水は石造の暗渠(あんきょ)が走っているが、雨期の終わりに泥が詰まって、うまく流れていない。住民は家の排水を路地に流す。汚水は石畳の溝を伝って、最後は王都の北の堀に集まる。堀の水は止まり、夏の終わりにはとっくに腐敗している。


これは公衆衛生の問題だ。


第八海鵬丸の操業海域でも、同じことが起きていた。沿岸の漁港で食中毒や赤痢が出るのは、夏の終わりが多い。原因のほとんどは、汚水の処理不全と、水と食料の交差汚染だ。


鬼塚は「貧乏国の港なんてどこも臭え」と笑い飛ばしていた。けれどその「臭い」が何で出来ているのか、男は最後まで興味を持たなかった。


興味を持たない者には、解決の道は永遠に見つからない。


俺は鼻を覆う布を巻いて、馬車を進めた。


王宮に近づくにつれて街路の整備状況は良くなり、汚水溝にも蓋がかかっていた。けれど不思議なことに、臭気は王宮に近づくほど薄くならず、むしろ別の種類の臭気に変わるだけだった。


香木の匂いに混ざった汗の匂い、貴族の整髪料の油の匂い、それから誰かを待たせて飼っている権力の匂い。


全部、ここに集約されている。


王宮の正門で、俺を待っていたのは、想定外の人物だった。


出迎えるとしてもアーシェ神官長か、食料官あたりだろうと思っていた。


神官長アーシェではなかった。


王太子マルコス・ヴェル・アルデロワ。第一王子、35歳。アルデロワ王国の次期国王。


男は背が高く、肩幅も広く、王者然とした顔立ちをしていた。


鎧の上に纏った深紫のマントは、王太子の証だった。胸には金の刺繍で「天秤と海」の紋章。


けれど目は冷たかった。


そして男の周りには、5人の貴族が随行していて、彼らはみな俺を上から下まで値踏みするように見ていた。


「リョウ・キジマ殿か」


マルコスは低く言った。


「は」


「貴殿の勝手な王都離脱について、いくつか質問がある」


「お答えします」


「貴殿は、わが国の機密情報を、ライン・カラの漁師ギルドに漏洩したか?」


「漏洩はしておりません」


俺は短く答えた。


「貴殿は、わが国の食料技術を、勝手に各地で広めたか?」


「神経締めと網繕いは、機密ではありません。誰でもできる仕事です」


マルコスの眉が動いた。


「誰でもできる、だと?」


「そうです。教えれば誰でもできる」


沈黙が落ちた。


王太子の顔は、無表情のまま、わずかに引きつった。


男は俺の答えが「謙遜」だと取った。けれど俺はただ事実を言っただけだった。


「面白い男だな、リョウ・キジマ」


マルコスはやがて低く言った。


「貴殿の言うことが正しければ、わが国の漁業は『誰でもできる』状態にまで開放されるべきだ。違うか」


王太子の言葉には皮肉と試しの両方が含まれていた。


「その通りです」


「貴族の権益はどうなる?」


「それは、王宮がお考えになることです」


5人の随行貴族のひとりが咳払いした。


王太子は俺を睨んだ。


マルコスは興味深い男だった。


第一印象は冷酷な王子。けれど話してみると、その冷酷さの奥に、別のものが潜んでいた。


単なる権力者ではない。むしろ俺が見たことのない種類の権力者だった。


──冷酷ではない。けれど、温情でもない。


──正義感が強くない。けれど、堕落しているわけでもない。


──ただ、自分が次の王であることを、寒々しいほど自覚している、それだけの男。


こういう種類の上司を俺は知っていた。


第八海鵬丸の漁労長だ。組織の論理を理解していて、組織の論理を最優先する男。鬼塚のような感情論で動く人間ではない。けれど、感情論で動く人間より、ずっと厄介な相手だった。


「リョウ殿」


マルコスは続けた。


「わが王宮は貴殿の技術を歓迎している。だが王宮の中には、『余所者がアルデロワの利権を奪っている』という声もある。私は王太子としてその声を無視できない。よって貴殿には、これより1ヶ月、王宮内での技術指導に専念していただく。王都を出ることは、許可しない」


「理由をお聞きしても?」


「理由は、必要か?」


「必要です」


マルコスは目を細めた。


王太子の冷たい目に、ほんの一瞬、別の感情が灯った。


男はしばらく俺を見つめてから、低く笑った。


王太子が笑うのは、王宮の中でも年に数回しかないと噂で聞いた。それを部下から聞いたとき、ペルマは驚いた顔をしていた。


「面白い男だ。理由は……ひとつ。妹のためだ」


──妹。


セレネ。


第二王女セレネ・ヴェル・アルデロワ。


そう、王女には「会いたがる」という意思が、まだ残っているのだ。


「セレネが、貴殿に会いたがっている」


マルコスは静かに続けた。男の声色がわずかに変わった。先ほどまでの権力者の声から、兄の声へと、ほんの少しだけ。


「だが、私はそれを許可していない。会わせることはできない。なぜなら、セレネがいま会えば、セレネの病が悪化するからだ」


俺は黙った。


「貴殿には、セレネに『直接会えない理由』を、自分で理解してもらう必要がある。だから貴殿には王宮内に留まってもらう。セレネに、近づきすぎないために」


言葉の意味が読めなかった。


王太子は俺がセレネに会うことを禁じている。けれど俺がセレネに「直接会えない理由」を、王宮内で理解してほしいとも言っている。


矛盾しているようで、矛盾していない。


──秘密がある、と俺は理解した。


しかも、王宮の中で語られる種類の秘密ではなく、王宮の中でも一部の人間しか知らない種類の秘密。


「分かりました」


と俺は答えた。


「王宮内に、留まります」


マルコスはわずかに頷いて、踵を返した。


5人の貴族が王太子に従って去っていく。一人の若い貴族だけが、最後に俺を振り返って薄く笑った。意味のある笑みではなく、意味を含んでいるふりをした笑みだった。


その夜、俺は王宮の自室で青い水晶を握った。


通信石。


セレネからの贈り物。


石の表面が、わずかに脈動した。


俺は石に向かって、ただ一言だけ呟いた。


「王女様、ご無事ですか」


数秒の沈黙のあと、石の中から細い声が返ってきた。


「リョウ殿。ご無事のお戻り、何よりです」


王女の声は、初めて聞く声だった。


想像していたより低く、想像していたより落ち着いていた。


「直接お会いすることは、お兄上に禁じられました」


「はい。承知しております」


「王女様」


「はい」


「王女様の病は、王都の臭気と関係がありますか」


沈黙。


石の中で、王女の呼吸の音だけが薄く聞こえた。


長い沈黙だった。


やがて、王女は静かに答えた。


「王都の臭気は、私の病ではありません。私の病が、王都の臭気を、誰よりも強く嗅ぎ取ってしまうのです」


「と、おっしゃると」


「申し訳ございません、リョウ殿。これ以上は、まだ申し上げられません」


通信が途切れた。


俺は石を机に置いた。


王都の臭気。


街全体に染み付いた、生活と権力と腐敗の混合臭。


王宮の臭気。


香木と整髪油と古い羊皮紙とインクと、それから訪問者の靴底にこびりついた下水の臭い。


──そして、王女の血の臭気。


三つは、何かで繋がっていた。


まだ俺はその繋がりを言葉にできなかった。


けれど確信があった。


第八海鵬丸の冷凍庫の扉から漏れる白い冷気が、甲板に這って俺の靴の周りでとぐろを巻いていたあの夜と、同じ確信だった。


あの夜の俺は、自分が死ぬ予感があった。


いまの俺には、誰かが死にかけている予感がある。


種類は違うが、同じ密度の、低温の確信だった。


──ここには、誰も話したがらない種類の事実がある。


そして俺は、いつものように、それを地味に、真面目に、明らかにすることになる。


翌朝、俺はペルマに頼んで、王都の下水管の地図を取り寄せてもらった。


ヴァリスの臭気の正体を、まず物理的なレベルで把握する。


そこから王女の病の正体に近づく道があるかもしれない。


これは漁師流の調査だった。船底の状態を読む手つきと、同じ手つきで街の循環を読む。


雲を読むのと、下水を読むのと、本質的には同じことだった。


流れの方向、滞留の場所、密度の偏差、見えない圧力。


すべては、現場を見ることでしか分からない。


王宮の北の塔の窓辺で、セレネ王女もまた、俺と同じ夜空を見ていた。


王女は青い水晶を胸に当てたまま、長く目を閉じていた。胸元は薄く上下していた。


「アーシェ」


「はい」


「あの方は、たぶん、私の正体に、もうすぐ気づいてしまいます」


「気づいたら、どうなりますか」


「気づいた人は、私を、救おうとします」


王女の声は、夜空の星のように冷たく澄んでいた。


「けれど、私は、救われてはなりません。私が救われるとき、王国の代わりに別の誰かが、犠牲陽極になるからです」


神官長アーシェは、その言葉を、無言で受け止めた。


受け止めた言葉は、神官長の喉の奥で、いつまでも消えなかった。


──別の誰かが、犠牲陽極になる。


その「誰か」が誰なのか、神官長は静かに想像してしまった。


想像の先には、ライン・カラから来た一人の男の顔があった。


親指の付け根を擦る癖を持った、寡黙な男の顔だった。

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